氷河と瞬は、奇妙な色の海のほとりに立っていた。 青でも緑でもなく、白い海。 だが、その海は凍ってはいない。 その証拠に、その海は動いていた。 いったい なぜこんな色をしているのかと訝って、瞬は 波打ち際に近付いていったのである。 近付いて、瞬は、その海の異様さに改めて驚くことになった。 瞬が波だと思っていたものは海水ではなく、無数の白い糸だったのだ。 いったいどれほどあるのか――。 それは、無数の糸が波打ちながら作っている海だった。 糸の ほとんどが白色。 ごく少数、赤色のものが混じっている。 これが もし運命の糸というものなのであれば、ここには地上にいる すべての人間の運命を司る糸が集まっているのだ。 そう考えることが自然なほど、糸の海は広大だった。 この広大な海の中では、1本の糸の存在価値など無にも等しい。 しかし、その 無にも等しい糸が この広大な海を作っている。 うねる海は、それ自体が一つの命のようで、見詰めているうちに 瞬は その海に対して恐れに似た感情を抱くようになっていったのである。 「氷河、これは――」 「君たちは何者だ。ここは、生きている人間が来ていいところではないぞ」 瞬が氷河の方を振り向くのと、氷河のものではない声が糸の海の浜辺に響いたのが ほぼ同時。 瞬が驚いて視線を巡らすと、砕けたガラスの砂でできているような浜辺に、一人の老人が立っていた。 歳の頃は、7、80。 頭髪の半分以上が白いことが、彼を実際の年齢より年かさに見せている可能性もある。 まるで古代ギリシャの哲学者のような出で立ち。 しかつめらしい印象の顔に、白く豊かな顎鬚。 小脇に随分と年季が感じられる古い書物を抱えている。 二人の異邦人を険しい声で詰問してきた老人は、瞬と氷河が名を名乗る前に、瞬の姿を見て破顔した。 「これはまた、随分と可愛らしい顔立ちの男の子だ。面倒な恋をしそうだな」 「あ……」 決して、歳を経た老人は恋愛に縁のないものと考えていたわけではない。 だが、本当の年齢を推し量るのも難しい様子をした老人が、ごく自然に恋という単語を口にするのを聞いて、ここはやはり沙織が言っていた“運命の恋の相手がわかる場所”なのだと、瞬は思ったのである。 一瞬の迷いもなく自分を“男の子”と断じることができるだけでも、この人はただの老人ではなさそうだと。 「この糸は何ですか。あなたはどなた?」 「知っていて、来たのではないのか。運命の恋の糸だ。私は、まあ、ここの管理人といったところか」 「運命の恋の糸……」 「そう。恋すべき相手につながっている糸だ。この糸の両端は、それぞれ ある男女の運命につながっている。透明の糸は、二人がまだ出会っていないことを示している。白い糸は出会っているが、恋心を感じていない。赤い糸は恋の真っ最中――というわけだな」 最初に見た時から、どこかで会ったことがある――と、瞬は感じていたのだが、瞬に運命の糸の仕組みを語る老人は、ラファエロが描いた『アテネの学堂』に描かれたプラトンにそっくりだった。 白く長い豊かな髭、紫の長衣、朱色の外衣。 当然、『アテネの学堂』のプラトンのモデルになったレオナルドにも似ている。 「白い糸が多いんですね」 「ああ。ここの糸は ほとんどが赤くならずに消えていくからな。糸のつながっている人間が死ぬと、ここの糸も消えるんだ。片方だけ生きている場合は、結びつく先がないまま、漂っている。たまに、同じような糸と糸が巡り合って結びつくこともあるが、そういうことは滅多にないな」 「ほとんどが白いまま消える……?」 それは ほとんどの人間が、運命の恋の相手に出会っても恋をせずに その命を終えるということなのだろうか。 それは“運命”と呼んでいいものなのかと、瞬は老人に尋ねようとしたのである。 その質問を言葉にする前に、 「沙織さんは、神話や童話のイメージとは違うと言っていたが、これは運命の赤い糸の伝説のパクリじゃないのか」 という氷河の投げ遣りな声が浜辺に響いたせいで、瞬は、この世界における“運命”とはどういうものであるのかを、老人に尋ね損ねることになってしまったのだった。 「あれは、結ばれるはずの二人の小指と小指をつないでいるものでしょう。確か、原典は中国の定婚店っていう お話で、原典では、小指と小指を結ぶ赤い糸じゃなくて、足と足につながっている赤い縄――」 「どっちにしてもパクリだ」 オリジナリティに欠けるから、この糸の海は信ずるに値しないものだと、氷河は言いたげだった。 氷河はやはり 本心では 運命の恋の姿など確かめたくはなかったのだ。 そう思って、瞬は、小さく安堵の息を洩らしたのである。 「この糸の海は広すぎるよ。僕たちの糸を探すのは無理だね」 それが無理なことを、むしろ喜んで、瞬は氷河に告げたのである。 が、瞬の安堵と喜びに、プラトンとレオナルドに似た老人が水をさしてきた。 「なに、海に手を入れれば、自分の糸が絡んでくるから すぐわかる」 老人が、『やってみなさい』という動作で、瞬を促す。 できれば そんなことはしたくなかったのだが、老人の親切を無にするわけにもいかない。 運命の恋の相手と恋に落ちる者はほとんどいないという老人の言葉が事実なら、自分の糸を見付け出すことに大した意味はないだろうと自身に言いきかせ、瞬は恐る恐る 糸の海の中に右の手を差し入れてみたのである。 瞬が海から手を引き上げた時、瞬の指には、いつのまにか1本の細い糸が絡みついていた。 海から引き上げられたせいか、あるいは、糸の持ち主に直接触れたせいなのか、その糸が まるで生きているように光を放ち始める。 「この先が誰につながっているのかは、でも、わからないんですよね?」 糸の先にいる人が誰なのかを、瞬は知りたくなかった。 そんな人には会いたくもなかった。 たとえ自分の一生が真実の恋を知ることのないまま終わるのだとしても、それで一向に構わないと、瞬は思っていたのである。 自分に指に絡みついている細い糸が、これ以上の幸福はないと訴えるように歓喜して、氷河の左手の指に絡みついていくまで。 二人は既に出会って恋をしているのに、その糸は赤色を呈してはいなかった。 透明でも白くもなく――それは海の色をしていた。 「なんということだ!」 瞬と氷河を結ぶ糸を見て、これまで泰然としていた老人が急に慌て始める。 糸の絡まるしの指を見、その糸が結びついている氷河の指を見、彼は 悲嘆でできた溜め息を天に向かって吐き出した。 「た……たまにこういうことがあって 同性同士がつながってしまうことがあるんだ。正しい糸は こちらの糸だな。妙な絡まり方をしている。今すぐ修正する。本来は ここにある糸は誰も操作してはならないことになっているんだが、こういう明確な間違いは 発見され次第修正することが許されているんだ」 「修正……?」 「ああ、それで 君たちは こんなところまでやってきたのか。悪かった。すぐに切ってやろう。この糸はもともと どれも もろいものなんだが、君たちをつなぐ糸は他の糸より ずっと弱くて切れやすいはずだ」 老人が言う通り、氷河と瞬をつないでいる糸は ひどく細く、今にも切れてしまいそうなほど 頼りない様子をしていた。 風に触れただけで切れてしまいそうな糸に、老人が手をのばすのを見て、瞬は浜辺に悲鳴を響かせたのである。 「だめっ! 切らないで! 修正なんかしないで!」 「切るなとは、またなぜ。いや、しかし、これは明確に誤りだ。あってはならないことだ」 「それでもいい。このままにしておいて! お願い、触らないで!」 老人の手の届かないところに移かそうとするだけでも、すぐに切れてしまいそうな細い糸。 その糸の細さ、頼りなさが、瞬の瞳に涙を運んでくる。 この糸に比べたら、どんな風雨にも耐え抜く蜘蛛の糸の方が よほど強靭と思えるほど、その糸は細く頼りなかった。 この細く頼りない糸が 人と人をつなぐ運命の具現だというのなら、人は人と出会えた奇蹟を よほど大事に守り抜かなければ、すぐに孤独に陥ってしまうだろう。 この頼りない糸が切れずにいることが奇跡なのなら、瞬はその奇蹟を何があっても守りたかった。 「瞬……」 瞳に涙をにじませて、細く頼りない糸を必死に守ろうとしている瞬を、氷河は 痛みを伴うほどの後悔と共に見詰めることになったのである。 なぜ瞬を信じることができなかったのか。 瞬と共にいられる幸福を、なぜ守ろうとしなかったのか。 今となっては、氷河は、それが不思議でならなかった。 瞬が嘘など つくはずがないというのに。 「だが、誤りに気付いたら、その誤りを正すのが私の仕事だ。私が私の務めを果たさずにいれば、私は君たちを不幸にすることになる。これは 人間界では不自然とされる つながりだ。修正すれば、君たちは 今よりずっと幸せになれるだろう。まだ出会っていないようだが、遠くない未来に、正しい恋の相手に出会い、充実した恋を知ることができるんだ。そして幸福になる。確実にだ」 「でも、僕は、今のままがいい。僕は、未来の幸せなんかいらない。 滅多に声を荒げることのない瞬が、刃物のように鋭い声で叫ぶ。 それから、瞬は、恐る恐る その視線を氷河の方に巡らせ、涙に濡れた瞳で氷河に尋ねてきた。 言葉にはせず、『氷河は?』と。 そんなことは改めて訊かなくても わかりそうなものなのに――と、氷河は胸中で苦笑したのである。 恋という行為は、それが一人では為すことのできないものであるせいで、どれほど強い人間からも 自信を奪ってしまうものなのかもしれない――と。 「本当にこのままでいいのか」 「このままがいい」 瞬が、涙声で答えてくる。 たった今 瞬が その涙を消してくれるのなら、自分はどんなことでもするだろうと、氷河は思った。 「人は、今を生きることしかできない。未来なんてものは、永遠に来ない」 まして、確実に幸福になれる未来など。 「氷河……」 どう言えば、何を言えば、瞬は その涙を消してくれるのか。 瞬に微笑んでもらうために告げた言葉は、瞬の瞳を覆う涙の量を更に増やしただけだった。 「瞬。すまない。馬鹿なことを言い出して。星矢たちの言う通り、俺は幸せすぎてどうかしていた」 「あ……氷河も このままでいいの? ほんとに?」 「このままがいい」 「でも、もしかしたら、この糸を正しい人につなぎ直してもらったら、氷河は僕といるより もっと幸せになれるのかもしれないよ……?」 「おまえといるより? そんなことはありえない」 瞬と 瞬を信じている自分を信じて、氷河は瞬に そう告げた。 途端に、白い海と老人の姿が消える。 氷河と瞬をつないでいた運命の糸も消えてしまった。 それからものが消えるのは当然で、自然なことだった。 それらのものは もう、氷河にも瞬にも必要ないものだったから。 二人の運命を、二人は既に決めていた。 氷河が瞬を抱きしめると、瞬がその胸に頬を押し当ててくる。 今 瞬を抱きしめている男を好きでなかったら、多分 瞬はそんなことはしない。 好きでもない相手に 自然にそんな仕草ができるほど、瞬は 器用ではなく、甘える手管に長けてもいないのだ。 「僕、嘘なんかついてない。錯覚も誤解もしてない。僕、ほんとに氷河が好きだよ。氷河といると、胸がどきどきして、楽しくて嬉しい。言葉以外にどんな証拠も見せられないけど、でも、ほんとに……」 甘い言葉や甘い仕草で相手を喜ばせようなどということは微塵も考えていないから、ただ懸命に誠実であろうとしているだけだから、瞬は可愛い。 誠実であろうとする瞬の気持ちが わかりすぎるほどわかるから、これほど可愛らしいものを自分が手に入れてしまっていいのだろうかと、氷河は馬鹿な不安を自分の内に生んでしまったのだ。 「好きでなかったら、一緒にいない。一緒にいるのが嫌なら、僕は、ちゃんと そう言う。氷河を傷付けるかもしれないから、言えないなんてことない。嘘つくことの方が、氷河を傷付けることだって、僕は ちゃんと わかってる。僕は氷河と一緒にいたいから、氷河と一緒にいるの。それだけだよ……!」 「俺もだ」 瞬のそれほど可愛くもなければ芸もない短い答え。 だが、瞬にはそれで十分だったらしい。 まだ瞳に涙は残っていたが、瞬はやっと笑顔になってくれた。 その笑顔が あまりに幸せそうだったので、氷河は瞬より幸せな気持ちになったのである。 |