氷河と瞬がラウンジを出ていったのは、自らの愚かさを悔いている星矢と紫龍の空しさを感じ取ったからでも、彼等の前で親密な振舞いに及ぶことは遠慮しなければならないという気遣いに衝き動かされたからでもなかっただろう。 星矢たちにしても、目の前で二人に いちゃつかれるのは御免被りたかったし、二人のいないところで沙織に確かめたいこともあったので、氷河と瞬の退場は渡りに舟ではあったのだが。 「氷河たちが行った、運命の恋の相手がわかる場所って、どんなとこなんだ? 沙織さん、知ってるのか?」 何より、それが知りたい。 幸せな二人が席を外すなり、星矢は気負い込んで沙織に尋ねていったのである。 沙織の答えは、 「さあ……。それは、氷河と瞬の心の中にあるものだから、二人がどんなイメージを抱いていたかによるわね。私は、二人のイメージを統合して、形にしてあげただけだから」 という、ある意味、非常に無責任なもの。 できれば 自分も その場所に行って、運命の恋の相手を教えてもらいたい――などという、ありきたりな願いを抱いていたわけではなかったのだが、沙織の その答えに、星矢は少々 がっかりしてしまったのである。 「ないのかよ、ほんとは。運命の恋の相手がわかる場所なんて」 「あるわよ。人それぞれの心の中に」 沙織が、しれっとした顔で答えてくる。 沙織の態度と答えに些少ならぬ不満を覚えつつ、だが、星矢は、その件に関しての追求は早々に諦めてしまったのである。 否、『諦めた』というより、星矢は、『そんな場所が本当にあっても困るだけだ』と考え直したのだった。 運命の恋人がわかる場所の追求を中断するという星矢の賢明な判断に、沙織は満足げに、楽しげに微笑した。 「そう。人が生まれてくるのは運命よ。でも、その先は――自分がどう生きるのかを決めるのは、その人の意思と心だけ。神も運命も介在しない。すべては人間の意思による。実際、すべてのことを人間が決めているのよ。デウス・エクス・マキーナは、すべてを人間が決めたあとに、その決定を承認させるために、人間が登場させる お飾りにすぎないわ。言ってみれば、議会での決定に対する拒否権を与えられていない国王みたいなもの。人間が決めたことを、機械的に承認させられているだけ。保証人代行サービス会社が 保証人として名前を貸しているようなものなのよ」 「すべてを人間が決めてるのなら、運命ってのは ないのか? 運命の恋ってのも?」 「あるわけないでしょう。少なくとも、神が支配し管理する運命なんてものはないわ。エロスが鉛の矢を氷河の胸に射たところで、氷河の恋心が途端に消えるわけがないでしょ。私の力を総動員しても、氷河と瞬の心を変えることはできないわ」 「そりゃそうだ」 そういう具体例を出されると、妙に すんなり得心できる。 神や運命は人の人生を支配していないという沙織の言葉を、星矢は素直に認めることができた。 「運命の糸だの、運命の女神だのを作って、どういうわけか 人は自分が決めたことの責任を 神や運命に転嫁したがるのよね。でも、それは それぞれの人間が自分で選んだ道だから、もしうまくいかなかったとしても、私は泣き言なんか聞いてあげない」 神は人間に 保証人として名前を貸しているようなもの――と言っておきながら、保証人としての責任を負うつもりはないという沙織の言葉に、紫龍は苦笑した。 だが、それでいいのだろうとも、彼は思ったのである。 でなければ、人間は――聖闘士は――理不尽な神に抗する権利も持てないことになってしまうのだから。 「実に正しい対処法です。氷河も瞬も、それで文句は言わないでしょう」 「文句なんか言わせるものですか。仮にも神である私の力を 自分たちの恋を確認するなんてことに利用しておいて、その上 文句だなんて、厚かましいにも程があるわ。まったく、人間というのは図々しくて 厚顔で、腹が立つほど したたか。神すらも、自分が幸せになるために利用してのけるんだから」 「でも、人間のそういうところが、アテナは お気に召しているんでしょう」 紫龍に――人間に――鋭い突っ込みを入れられて、沙織が一瞬 きまりの悪そうな顔になる。 それから彼女は、ごく軽く肩をすくめて、静かな笑みを作った。 「まあ……傲慢も愚行も、愛ゆえ恋ゆえと思えば、可愛いものだし……。そうね。人間は、どんなことにも一生懸命なところが、とても可愛くて面白いわ」 その、可愛くて面白いものが、神すらも倒す。 神が人間の人生や意思を支配する力を持っていないのだとしたら、神は永遠の命と 人間より はるかに強大な力を持つ者でしかない。 とすれば、人間が神に勝つことは、確かに不可能なことではないのかもしれない。 だが、それは、一匹の小さな蟻が百獣の王であるライオンを打ち負かすようなこと、ほぼ不可能なことではある。 その “ほぼ不可能なこと”を実現できたアテナの聖闘士たちの戦いが――自分自身も その戦いの中に身を置いていたというのに――紫龍には ひどく不思議なことに思えたのである。 「人間より はるかに強大な力を持つポセイドンやハーデスが、結局 あなた方に敗北を喫した訳がわかる?」 アテナがふいに、彼女の聖闘士に尋ねてくる。 まるで彼女の聖闘士の考えを見透かしているようなアテナの言葉に、紫龍は少々 戸惑った。 「それは――我々には あなたという神がついていてくれましたから」 結局は、そういうこと――アテナの聖闘士たちが“ほぼ不可能なこと”を実現できたのは、人間を可愛く面白いものと思ってくれている神が味方についていたからで、人間は人間の力だけで神を倒したわけではないのだろう。 人間が有する真の力は、アテナを自分たちの味方にできたことなのかもしれない。 そう考えて、紫龍は、人間と神の戦いにおけるアテナの存在の大きさに言及したのだが、アテナはそれを、 「違うわ」 の一言で、実にあっさり否定してくれた。 それは、“アテナの聖闘士”が ただの“聖闘士”であっても 神に勝つことはできたのだと言っているも同然の発言で、紫龍はアテナの言葉に少なからず面食らってしまったのである。 しかし、沙織は本心から そう思っているようだった。 「違うわ。そうじゃない。そうじゃなくて――要するに、彼等は一生懸命じゃなかったのよ。あなたたちと違って、必死じゃなかった」 「必死じゃなかった――。それは、つまり、彼等は 自分の持てる力をすべて出し切っていなかったということですか」 アテナの聖闘士たちに倒された神々が まだ相当の余力を残していたというのなら、それは不可思議なことである。 勝てるかもしれない戦いを、余力を残しながら放棄した神々の意図は奈辺にあるのか。 そんなことのできる神々の真意がわからず、紫龍は その事実に不気味なものを感じることになったのである。 とはいえ、事態は さほど深刻なものではないらしく、紫龍の表情を重苦しいものにしてくれたアテナの表情と口調は 至って軽やかなものだった。 「彼等が私に封印されたといっても、それは一時的なことで、私には彼等を完全に消滅させることはできないの。彼等は永遠の命を持っている。時間はいくらでもある。今が駄目なら、またいずれ。そんなふうに考えていたら必死になることなんかできるわけがないでしょう。彼等が あなた方に負けるのは当然のことなのよ。愚かなことだわ。命が有限でも 永遠でも、今という時は今しかないのに、今 全力を出さないで、いつ その力を使うの。彼等は本当に 馬鹿だわ。神々の そういう馬鹿げた余裕が、彼等を今ひとつ可愛くない存在にしているのよね。だから、私はつい、必死で可愛い あなた方に肩入れしてしまうんだわ」 沙織の口調は、“必死で可愛いあなた方”を からかうように軽快。 沙織のせいで生じた紫龍の不安は、沙織のその言葉で 瞬時に彼の中から霧散した。 「有限の命しかないからこそ、成し遂げられることがあり、永遠の命があるせいで 成し遂げられないことがあるということですか」 「ええ。『今回はすんなり地上を支配できなかったから、200年後にまた』なんて考えている限り、神々は人間の敵にもなれないわね」 仮にも神であるアテナが、彼女と同じ神である者たちに対して無情に言い放つ。 星矢は、城戸邸の庭の薔薇園の中で 人目も はばからずにいちゃついている氷河と瞬を眺めて、顔をしかめている。 この状況で、紫龍は もはや笑うしかなくなってしまったのだった。 「あなたは アテナの聖闘士たちの戦いの指揮官で、俺たちが各戦で勝利しても、あなたを敵に奪われたら、俺たちは負けを受け入れざるを得なくなる。それが わかっているくせに、毎回毎回 楽しそうに暴走して、アテナの聖闘士の戦いを切羽詰まったものにしてくれるあなたを、俺たちはいつも苦々しく思っていたんです」 「まあ、そうだったの?」 罪のない笑顔で問い返してくる沙織に、紫龍は力強く頷いた。 「なのに、俺たちは、そんなあなたを敬愛することをやめられないのだから、なおさら忌々しい」 「それは申し訳なかったわね」 少しも 申し訳なく思っているようには見えない態度で謝ってくるアテナが、本当に忌々しい。 紫龍は、臍下丹田に力を込めて、無理に険しい表情を作った。 「氷河も同じだ。決して馬鹿ではないのに、見当違いな暴走をして、仲間の戦いの足を引っ張る。いったい瞬は あんな氷河のどこがいいのかと、不思議でならなかった」 「もしかしたら、あなたは、あなた方に手間をかけさせてばかりいる私を あなた方が愛想を尽かさずにいられないのも、仲間に迷惑をかけてばかりいる氷河を瞬が愛さずにいられないのも、運命だから仕方がないと諦めていたの?」 「少なからず。だが、違うとわかった」 「違う答えに行き着いたの?」 すべての聖闘士たちに敬慕されているアテナ。 しかし、彼女は、なぜ 自分がすべての聖闘士たちに愛されているのか、その理由を知らずにいたのだろう。 紫龍が手に入れた“違う答え”がどんなものなのか、彼女は、彼女にしては珍しく、察することができていないようだった。 紫龍が、一呼吸おいてから、彼が手に入れた“運命”ではない“違う答え”をアテナに告げる。 それは、難しいことでも面倒なことでもなく、ごく単純なことだった。 「あなたも氷河も、愛しているから愛されるんだ。ただ それだけのことだ」 「あら」 その単純な理由――に、アテナが一瞬 瞳を見開く。 彼女は、それから、紫龍が告げた“違う答え”に、まるで普通の人間のように照れた――ようだった。 「私があなた方に愛想を尽かされず愛してもらえる理由はともかく、氷河が瞬に愛されている理由は、確かにそれでしょうね。氷河が瞬を愛しているから――」 聖闘士たちに愛されている女神が、どう見ても照れ隠しのために、話題と視線を城戸邸の庭にいる氷河と瞬の方に移動させる。 タイミングがいいのか悪いのか、まるで その時を待っていたかのように、氷河と瞬は、アテナの注視の中、互いを抱きしめ合いキスをするという暴挙に及んだ。 それも、かなり濃厚な。 人間個々人の自由な意思を尊重するアテナは、もちろん、愛し愛されている恋人たちの姿を、優しく微笑ましげに見詰めていたのである。 そして、彼女は、その顔に 慈愛に満ちた笑みを浮かべたまま、 「ここには独り身の者も多いというのに、あまりに 周囲の者への配慮が足りないわ。あの二人は、今夜は夕食抜きね」 と、愛し合う二人への厳罰を科したのだった。 愛と優しさと厳しさと家人への配慮を兼ね備えた、知恵と戦いの女神アテナ。 彼女は確かに愛すべき神――愛されてしかるべき神だった。 Fin.
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