イデアの洞窟






僕が暮らしていたのは、大理石でできた大きな神殿だった。
天井が高くて、一つの部屋の中に何本もの太い柱が立っているような。
神殿の中には、そんな部屋がたくさんあった。
たくさんありすぎて、神殿にある すべての部屋を見てまわるのが不可能なくらい。
僕は、神殿の中はどの部屋でも好きに使っていいと言われていたし、特にしなければならないこともなかったから、退屈を紛らせるために すべての部屋を見てまわろうとしたこともあったんだ。
でも、広い部屋を30も見たところで、僕は自分の計画の完遂を断念した。
僕の全世界でもある この神殿に、端だの果てだのはないような気がしたから。

その神殿には無数の部屋があって、でも、その無数の部屋には 何もなかった。
何もなかったけど、何でもあった。
僕が欲しいと言えば、ハーデスが何でも届けてくれたから。
衣服でも、食べ物でも、それから家具や玩具の類でも。
ハーデスは、僕の願いは 何でも、どんなことでも叶えてくれたよ。
神殿の中で 僕が知っている限りで いちばん広い部屋の天井には、神々と巨人族の戦いを描いた絵があったんだけど、それを近くで見てみたいと言ったら、ハーデスはすぐに その部屋の中空に、僕が歩いて渡れるような橋を幾つも架けてくれた。
僕は、ハーデスが作ってくれた石の階段をのぼって、広間の中空に架けられた橋を自由に歩き、好きなだけ その戦いの絵を見ることができた。

もっとも、僕はすぐに その絵に飽きてしまったんだけどね。
ううん。飽きたというより、僕はその絵を好きになることができなかったんだ。
巨大な石に押し潰されている巨人とか、雷を投げつけられて身体を八つ裂きにされている巨人とか、そんな絵を見ていても、あまり楽しい気持ちになれなかったから。

僕がハーデスに、『あなたはどのへんにいるの?』って訊いたら、ハーデスは、その絵に彼が描かれていないことを教えてくれた。
つまり、そこに描かれているのは、僕の知らない人たちだけだっていうこと。
そこにハーデスの姿がないことを知って、僕はがっかりした。
だって、僕がその絵を近くで見てみたいって思ったのは、巨大な天井画に無数に描かれた神々と巨人たちの中から、ハーデスの姿を探してみようと思ったからだったんだもの。
『ハーデスは神の一人として巨人たちと戦わなかったの?』って訊いたら、ハーデスは、『冥界の王は、そんな野蛮なことはしない』って。

でも、巨人族は神々と違って永遠の命を持ってはいないから、この戦いで命を落とした巨人たちはみんな この冥界に来ていて、今はハーデスの支配下にあるんだって。
巨人たちと直接 戦った神々が手にしたものは、巨人族を天界から駆逐したという事実と、力の消耗だけ。
彼等は他には何も得なかった。
つまり、この戦いで何かを得た真の勝利者は、敵と戦わなかったハーデス一人だけだったということ。

その話を聞いた時、僕は、戦いって何て嫌なものだろうって思った。
巨人族と戦った神々、神々と戦った巨人族、自分では何もせずに利を得たハーデス。
誰が利口だとか、誰が立派だとか、誰が気の毒だとか、そんなことは考えず、ただ 戦いとは嫌なものだと思った。

うん。そんなふうにハーデスは、僕の願い事は どんなことでも叶えてくれたよ。
ハーデスが僕にくれたものの中で 僕がいちばん好きだったのは――僕がほしいと頼んだわけじゃなかったけど――ある日 ハーデスが僕のところに持ってきてくれた“花”というものだった。
僕がそれをほしいと頼まなかったのは、あんなに綺麗で気持ちのいいものがあることを、僕がそれまで知らなかったから。
知ってからは、『いつも花を見ていたい』って、ハーデスに頼んだ。
そしたら、ハーデスは それを毎日僕のところに届けてくれるようになって。
毎日 届けられる籠いっぱいの花は、その姿と香りで、僕をとてもいい気持ちにさせてくれたよ。

神殿には、そんなふうに、何でもあった。
ないのは“光”だけだった。
だからって神殿の中は暗いわけじゃなく――むしろ、神殿の中はいつも明るかった。
神殿の中には 光はなかったけど、その代わりに、蝋燭や光る石がたくさんあって、どこも いつも眩しいくらいだった。
だから、僕は その神殿の中を『暗い』と感じたことはなかった。
というより、僕は 闇というものを知らなかったんだ。

“闇”っていうのは、目を開けていても何も見えない状態のことだよ。
神々に逆らったり、仲間や国を裏切るような重い罪を犯した人間たちが、この冥界の いちばん深いところにある闇でできた獄に落とされていて、彼等は闇の中で光を求めて悲痛な叫びをあげているって、ハーデスは言ってた。
目を開けていても、何も見えないなんて、きっとすごく恐いことだよね。
普通に目を閉じているだけでも、自分がどこにいるのか、どこからどこまでが自分なのかが わからなくなって不安な気持ちになるのに、目を開けていても自分の居場所がわからないなんて。
自分がそこにいることを確かめられないなんて。
人は、たとえ幻でも、本物でなくても、誤りや偽物でも、何かが見えている方が安心できるものなんじゃないかな。
本物の光がなくても、明るさがある方が恐くないように。

僕は、ハーデスの魂の器になるために選ばれて、この神殿で暮らすことを許されている人間だ。
神ではなく人間だから、永遠の命を持たない。
僕には、僕を作った人間の親というものがあったらしいけど 僕は、僕に命を与えてくれた その人たちのことを憶えていない。
僕は生れて2年くらいが経った頃──2年って、どれくらいの時間なのか わからないけど──、親から離されて、冥界にある この神殿に連れてこられた。
ハーデスの魂を受け入れる器として、“清らかに”成長するために。
そのためには、地上の人間たちの浅ましさや醜さを知る前に、僕を冥界に連れてくる必要があったんだって、ハーデスは言っていた。
僕みたいに神に選ばれなかった人間たちは、地上というところで、信じられないくらい みじめな生活をしてるんだって。


ハーデスの魂の器になる人間は、心身共に清らかでなければならないらしい。
ハーデスは、これまでは──僕の前の代までは――、ハーデスの魂を受け入れても大丈夫なくらい大きくなってから、ハーデスの魂の器になる人間を冥界に連れてきていたんだって。
でも、そういう人間は、身体だけでなく個我までが大きくなっていて、その上、心までが汚れてしまっていることが多くて、うまく合一できなかったらしい。
それでハーデスは不精をやめて(ハーデスがそう言った)、ほんの小さな子供の頃から 汚れのない冥界で 自分の魂の器となる人間の成長を待つことにしたのだそうだ。
その試みの最初の一人が僕なんだって。

神殿には僕の世話をする者が大勢いたけど、彼等は僕の清らかさを守るために(と、ハーデスは言っていた)僕と口をきいちゃいけないことになっていて、だから僕は彼等と話をしたことはない。
そもそも 彼等が生きている人間だったのかどうかも知らない。
でも、多分、そのほとんどは死者だったんだろうと、僕は思っている。
ハーデスは、死の国の王だもの。
生者を動かすことより、死者を動かすことの方が得意なのに決まってる。
『じゃあ、あなたは、僕の身体があなたの魂の存在に耐えられるくらい大きくなったら、僕を殺して、その身体を使うの?』って訊いたら、ハーデスは それはできないんだって答えた。

ハーデスが その魂の器とする人間は 清らかでなくてはならない。
だけど、死者は清らかではないんだって。
たとえば、姿形の美しい人形が、美しくはあっても清らかではないように。
“清らか”という特質は、生きている人間にしか持ち得ないものなんだって。
だから、僕は、生きていなきゃ、僕の務めを果たせない。
僕は、ハーデスの許で成長し、ある程度の年齢になったら、ハーデスの魂の器として、この身を差し出す。
それが僕の務め。
それが幸せなことなのかどうかなんて、僕は 考えたこともなかった。
だって、僕は、そのためにだけ――ハーデスの魂を自分の体内に受け入れるためにだけ――生かされているものだったんだもの。
僕は、他の道を選ぶことはできなかった。

それに──幸福とか不幸とか、そういうことを、僕は言葉でしか知らなかったんだ。
実感として、知らなかった。
ハーデスが、地上の人間は醜くて浅ましくて不幸だって繰り返すから、『不幸ってなに?』って訊いて、その時 教えてもらっただけ。
不幸というのは、自分の願いが叶えられず、不満を募らせている状態のこと。
幸福というのは、願いがみんな叶って、不満がないこと。

ハーデスは、他にも いろんなことを僕に教えてくれたよ。
花を見て、ぼくの心があったかくなったり うきうきしたりするのは、『楽しい』『嬉しい』。
花がしおれるのを見て、気持ちが沈むのは、『悲しい』『つらい』。
ハーデスは僕に何でも教えてくれた。
僕が知りたいと望めば。

ハーデスに教えられて、僕は幸福と不幸がどういうものなのかを おぼろげに理解し、僕なりに それがどういうものなのかを考えた。
考えて、僕は そのどちらの状態にもなり得ない存在なのだという結論に 行き着いたんだ。

幸福とか不幸とか、そういうのは、自分の生き方を自分の意思で選べる人間だけが持っている気持ちなんだろう。
あの時、ああしておけば、今よりもっといい状態にあったかもしれない。
あの時、ああしていたら、今よりもっと悪い状態にあったかもしれない。
人間は──地上に住む人間たちは、そんなことを考えて、自分を不幸にしたり幸福にしたりするんだ。

でも、自分が何をするのかを自分の意思で決めることのできない者には、幸福も不幸もない。
自分の居場所として与えられたところから動くことのできない籠の中の花が、自分を幸福だとか不幸だとか考えるわけがない。
ただそこにいて、周囲の環境を受け入れるだけ。運命を受け入れるだけ。

僕がそうだった。
大人になって、ハーデスの魂を己が身に受け入れ、この冥界を支配する。
それが僕の運命。
もちろん、そこに、僕の意思はない。
でも、それが何だっていうの。
他にどうしようもないのに。

ハーデスは、時折、僕に会いにきた。
多分、実体を伴わない魂だけの状態で。
彼が僕に見せている姿は幻影。
大切な自分の身体はどこかにしまってあるんだって。
地上と冥界と天界――三界を支配する王になったら、その時こそ、自分の真実の姿を皆に見せてやってもいいと、ハーデスは言っていた。
僕は彼にとって道具。
彼の衣装のようなもの。
ただハーデスは、同時に2着の衣装を持とうとはしなかったから、それなりに僕を大切にしてくれていたと思う。

僕は受け入れていたんだ。
それが僕の生と死だと。
僕は、幸福にも不幸にもなれない人間なのだと。

ハーデスは、少年期の幼さの残る無垢、青年期の燃えるような若さ、大人の落ち着き、老人の威厳を装うために、僕を数十年は使うつもりだと言っていた。
大切に使うと言っていた。
もちろん僕は人間で、その命は有限だから――いずれ僕の身体が動かなくなったら、その時には 僕の好きな年齢の姿で、この冥界に僕を貴人の死者として置いてやろうと、そんなことも言っていた。

人間は、地上で、同じような一生を送るんだって。
幼い子供が若々しい青年になって、成熟期を迎え、経験豊かな老年期に至る。
ただし、ハーデスに選ばれた僕とは違って、浅ましい欲と、絶えることのない不満と、醜悪な争いを繰り返して、一生という時間を過ごすのだと。
浅ましい欲を抱くことなく、当然 どんな不満もなく、敵になり得る者もいない僕は、一人の人間としては これ以上を望めないくらい、最も美しい一生を過ごすことになるだろうって。






【next】