「氷河、待って! 氷河、レダを知っているんでしょう !? やっぱり、あれは氷河だったんだ! 僕が一人で作った幻なんかじゃなかった……!」 ラウンジを出た氷河は、エントランスホールで、自分が どちらに向かうべきかを迷ったようだった。 彼が庭に出たのは、屋内にいる逃亡者は 建物の上階や 閉鎖された空間である部屋の中に逃げるべきではないというセオリーに従ったからだったろう。 だが、庭に出た彼は、結局 瞬から逃げ切ることを早々に断念したようだった――断念するしかないことを悟ったようだった。 どこに逃げても――最後には逃げ道をふさがれる屋上や特定の部屋に逃げるのでなくても――、アテナの聖闘士は結局 城戸邸に帰ってこなければならない。 少なくとも、この島国に、氷河が完璧に仲間から逃げおおせることのできる場所はないのだ。 「どうして、憶えてない振りなんかしたの。氷河は いつもあんなに優しかったのに! 氷河は、僕なんかに優しくしたことを後悔してるの……!」 アンドロメダ島に送られる以前――日本にいた頃、瞬は 城戸邸に集められた子供たちの中で いちばんの みそっかすだった。 一輝の弟でなかったなら、誰からも相手にされないような。 少なくとも、親しくしていることが自慢になるような存在ではなかった。 聖闘士になることができたからといって、“仲間内で いちばんの みそっかす”という評価が変わるはずもなく(何といっても、今 城戸邸には聖闘士になれた者しかいないのだ)、だから氷河は みそっかすの自分と親しいことを仲間たちに知られることを恥と思っているのか――。 氷河に無視される理由を、瞬は そんなことくらいしか思いつけなかった。 夢の世界を出て、現実世界で正気に戻った氷河は、彼が夢の中で優しくしていた相手が、実は取るに足りない人間なのだということを思い出してしまったのだとしか。 「僕なんかに優しくしたことを後悔してるの……」 「おまえは何を言っているんだ……」 瞬の自己卑下に、氷河は少なからず驚いたようだった。 他の数十人の子供等には成し遂げられなかったことを成し遂げて生還を果たした者が、自分に自信を持っていないということは、氷河には思いもよらないことだったらしい。 おそらく彼は、二人が共に過ごした6年の時間をなかったことにされることで、瞬が傷付く可能性を全く考えていなかったのだろう。 彼は、瞬の傷心と卑屈に驚いているような目で、瞬を見おろしていた。 「俺は、あれを、俺だけが見ている夢だと思っていたんだ。だから、おまえに堂々と優しくすることも平気でできた。一輝がいるせいでできなかったことが、夢の中では誰にも邪魔されずにすることができた。ガキの頃からずっとそうしたいと思っていたことが、いくらでもできた。夢の中のおまえは俺しか見ていなかったから」 聖闘士になった瞬が、聖闘士になる前の瞬と全く変わらず、自分を みそっかすだと思っていることを知らされて、氷河は驚き、そして、多分慌てた。 慌てて――彼は、瞬の卑屈と誤解を取り除くための弁解を始めた。 「俺の夢の中で、おまえはどんどん綺麗になっていった。俺は、それを、俺一人が勝手に作って見ている夢の中での出来事だから、おまえを綺麗にしているのは俺自身だと思っていたんだ。俺が勝手に、理想の――俺好みのおまえを作って、自分の夢に登場させているだけなんだと思っていた。そんな自分を自嘲してもいた。なのに、いざ 日本に戻ってきてみたら、夢の中で俺が作ったはずの理想のおまえがいて、しかも夢の中の俺を憶えているふうで――俺がおまえを好きなことも知っているふうで……。夢が夢でなかったことに気付いて、俺がどんなに焦ったか、おまえにわかるか? あの夢の中で、俺は、誰の目も気にせず、自分のしたいことをしていた。俺の本心を そのまま さらけ出していた。おまえに すべてを知られていることに慌てた俺は、つい――自分の体面を保つために、ガキだった頃の俺に戻ってしまったんだ」 「子供の頃の氷河――って……」 「だから、ガキの頃の俺だ! 好きだからいじめる。可愛いから、わざと興味のない振りをする。本当はおまえと仲良くなりたいのに、そんな素振りを おくびにも出さない。一輝に邪魔されて、おまえに近付けないことが癪でたまらないのに、何とも思っていない振りをしていた頃の俺だ!」 「――」 瞬は、ほとんど怒声になっている氷河の言葉の意味が、よくわからなかったのである。 そもそも、瞬には氷河にいじめられた記憶がなかった。 彼に無視された記憶もなかった。 自分を取るに足りない人間だと思っていた瞬には、人に相手にされなかったり、無視されたりすることは、わざわざ記憶に留めておくほど特別なことではなかったのだ。 瞬が 幼い頃の氷河に関して憶えているのは ただ、城戸邸で過ごした最後の一日、氷河が自分に『一緒に逃げよう』と言ってくれたことだけだった。 「氷河は僕をいじめたりなんかしなかったよ。氷河は、僕に、一緒に逃げようって言ってくれた。僕のために、そう言ってくれた。あれは意地悪なんかじゃなかったでしょう?」 「あれは――ひねくれたガキだった俺が、一世一代の決意をして、おまえの前で 初めて自分に正直になった、たった一度だけの……。まったく、おまえは、どうして そんなことだけ憶えているんだ! おかげで、俺は体裁が悪くて、きまりが悪くて仕様がない!」 「氷河……」 だから、氷河は、何も憶えていない振りをしたというのだろうか。 瞬に優しくしたことが、きまりが悪いから? もしかしたら、照れ隠しのために? いじめっ子としての体面を守るために? 瞬は、本当に、まるで子供のような氷河の説明に、あっけにとられてしまったのである。 「ば……ばか! 僕が氷河に忘れられて、どんな気持ちで……氷河に憶えててもらえなくて、僕がどんな気持ちに――」 どんなに落胆し、失望し、寂しく思ったか――。 氷河が そんな子供じみた理由で、二人の6年間をなかったことにしようとしていたのだということを知らされて、瞬の瞳には涙がにじんできてしまったのである。 氷河には重要なことであるらしい事情の、あまりの馬鹿馬鹿しさに、 「すまん。俺はただ――俺との夢なんて、おまえには大したものじゃないんだろうと思っていたんだ。あんな夢など、なかったことにしても、おまえは平気だろうと思っていた。俺は一輝じゃないし……」 卑屈の病に取り憑かれていたのは、もしかしたら、瞬より氷河だったのかもしれない。 兄ばかりを追いかけていた幼い頃の自分を思い起こすと、瞬はそれ以上 氷河を責めることはできなかった。 「これは……今は、夢の中じゃないよ。氷河は、夢の中で いつも僕に優しかった。氷河は、夢の中でしか、僕を好きじゃないの」 「そんなことがあるわけないだろう! 俺は、いつだって、おまえが俺を見ていてくれたらと思っていたんだ!」 「氷河……」 「俺はおまえが好きだ。夢の中のおまえも、今、俺の目の前にいる おまえも好きだ。当たりまえだろう!」 氷河にとっては 当たりまえのことでも、氷河ならぬ身の瞬には、それは言葉と態度で示してもらわなければ わからないことだった。 そして 実際に言葉と態度で示してもらって――瞬は、なぜか 嬉しさよりも安堵の思いの方に より強く支配されてしまったのである。 「よかった……。あの夢が、僕だけの夢じゃなくて」 「瞬」 「僕は氷河とずっと一緒にいた、氷河はきっと憶えていてくれる、あれが僕一人の夢じゃありませんようにって、僕、祈ってたんだ。そんなことあるはずないって思おうとしながら、奇蹟が本当でありますようにって、ずっと祈ってた」 瞳を涙で潤ませ、切ない溜め息をゆっくり洩らすように、瞬は言った。 長かった6年という時間、その6年間を耐えることができた訳、自分は何のために生きて故国に帰ってきたのか、自分が生きていることの意味と理由――すべては無意味で、虚無でしかなかったのだと思いかけていたものを、それこそ 一度に すべて取り戻すことができたのである。 喜びより安堵の思いの方が強く瞬を支配したのは、当然のことだったかもしれない。 そんな瞬の様子を見て、氷河は、自分が自分の体面を保つために為した行為の残酷さに、やっと思い至ったらしい。 氷河は強く瞬を抱きしめ、そして、短く、 「すまん」 と、瞬に詫びてきた。 瞬が、氷河の胸の中で小さく首を横に振る。 「実現しない夢だと思って諦めていた夢が叶った。兄さんも帰ってきてくれるような気がする……」 希望は、まだ捨てずにいてもいいのかもしれない。 氷河のおかげで、瞬はそう思うことができるようになったのだが、瞬に希望をもたらしてくれた当の氷河は、瞬が兄の名を出した途端に、瞬を抱きしめていた腕を奇妙に引きつらせた。 「あいつは、殺されても死ぬようなタマじゃないだろう。おまえの実の兄だという特権を振りかざして、ガキの頃から、あいつは本当に不愉快な野郎だった」 「え……」 吐き出すように乱暴な氷河の言葉に驚いて、瞬は氷河の顔を覗き込んだのである。 そこに ひどく険しい氷河の表情を認めて、瞬は更に驚くことになった。 氷河がそれほど兄のことを敵視していた事実に、瞬は全く気付いていなかった。 「氷河は、夢の中の氷河と少し違う。夢の中の氷河は、そんな意地悪なこと言わなかった……」 「俺は、あの夢を、俺が一人で勝手に作り出した、俺にだけ都合のいい夢だと思っていたんだ。夢の中には、俺とおまえしかいなかった。おまえは俺だけを見ていてくれた。俺は、誰の目を気にする必要もなく――おまえの目を気にすることもなく、おまえに優しくすることができた」 「氷河は、氷河が優しいことを、人に知られるのが嫌なの? 僕に知られるのも嫌だったの?」 「当たりまえだ!」 「なぜ 当たりまえなの?」 氷河には当たりまえのことが、瞬には少しも当たりまえのことではなかった。 人に優しくできるということは、短所ではなく長所である。 悪徳ではなく美徳である。 それは誰に知られても困るようなことではないはずだった。 が、それは瞬の理屈、瞬の考え方。 氷河には、氷河の考えと都合というものがあったらしい。 「俺は、クールでかっこいい聖闘士として、おまえと再会する予定だったんだ! そして、今度こそ、おまえの目を俺に向けさせ、俺に惚れさせる予定でいた。ガキの頃と同じ轍を踏まないように、注意して――心機一転、格好良く告白するつもりだったんだ。なのに、夢の中で俺がおまえにしたことを おまえが憶えてるなんて、反則だろう!」 「……」 自分が人に優しくできること、実際に優しかったこと。 その事実を 他人に知られることを、本気で きまりの悪いこと、格好の悪いことだと思っているらしい氷河に、瞬は呆けてしまったのである。 瞬は、氷河のプライドのあり方が 微妙に一般人とずれているような気がしてならなかった。 だが、実際に氷河は人に優しくできる人間なのだから、氷河のプライドのあり方など、問題にするようなことでもないだろう。 その ずれ具合いも、氷河らしいと言えば 言えなくもない。 瞬は そう考え、氷河の奇妙なプライドを そのまま受け入れることにした。 微笑いながら。 「氷河、夢の中の氷河より面白い」 「いや、だから、俺が目指す路線はそういうんじゃなくて――」 言いかけた言葉を途中でやめて、氷河が、何やら考え込む素振りを見せる。 それから、氷河は、真顔で瞬に尋ねてきた。 「おまえは、クールでかっこいい俺と、面白い俺と、どっちが好みなんだ?」 「え」 そんなことを、真面目な顔をした氷河に問われ、瞬は思わず ぷっと吹き出してしまったのである。 「やだ、ほんとに、氷河って面白い」 瞬に笑われた氷河が、まるで意地っ張りの子供のように、一瞬 むっとする。 「ごまかさずに答えろ!」 氷河は、瞬に答えをはぐらかされてしまったと思ったらしい。 そんなつもりのなかった瞬は、慌てて顔を引き締め、だが完全に笑いを消し去ることもできないまま、氷河に問われたことに答えたのだった。 「僕の好きな氷河は、僕を憶えていてくれる氷河だよ。他には何も望まない」 「それじゃ 答えになっていない! それは、俺がどんな男でもいいということだぞ。馬鹿でも阿呆でも間抜けでも。俺は、おまえに初めて会った時から、1秒だって、おまえのことを忘れたことはなかったんだから」 「なら、氷河は、僕の好きな氷河なんだ。いつだって、そうだったんだ」 おそらく、一世一代の決意をして、氷河が、『一緒に逃げよう』と言ってくれた時から。 兄からも仲間たちからも引き離されて過ごした6年の時。 その6年の時を、自分一人では耐えられなかっただろうことを、瞬は知っていた。 自分一人のためには、おそらく 耐え抜くことはできなかった。 瞬に その時を耐え抜かせたのは、ほんの少しでも自分を思っていてくれる人がいると信じていられたこと、そう信じさせてくれた人。 泣き虫の みそっかすに『一緒に逃げよう』と言ってくれた人に、夢の中でまで励まし支え続けてくれた人に、『あの時はありがとう。僕、生きて帰ってきたよ』と言いたくて、そのために、瞬は6年の時を耐え抜くことができたのだ。 人は誰も、そんなふうにして 生きることを選ぶのだろう。 自分以外の誰かのために。 誰かに必要とされている自分のために。 おそらく、兄もそうであるに違いない。 瞬は、今なら そう信じることができた。 「氷河、ありがとう。僕、氷河がいてくれたおかげで、生きて帰ってくることができたよ」 ずっと言いたかった言葉を、氷河に告げる。 が、瞬にそんな言葉――『ありがとう』などという言葉――を言われるのは、氷河には思いがけないことだったらしい。 あるいは、それは、彼には わざわざ言ったり言われたりするような言葉ではなかったのかもしれない。 僅かに眉根を寄せてから、彼は首を横に振った。 「礼には及ばん。俺が生きて帰ってこれたのも、おまえのおかげだからな。で、おまえは、おまえの好きな俺が クールでかっこいい男でいるのと、面白い男でいるのとでは、どっちがいいんだ?」 再度 氷河に真顔で問われ、瞬は つい声をあげて笑い出してしまったのである。 瞬が好きな氷河は、どうやら自分が面白い男だということを、全く自覚していないようだった。 Fin.
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