「へー、そんな話なんだ。悪魔の娘なんて、やっぱり、瞬には無理だな。悪魔の気持ちなんて、おまえにはわからないだろ」 「そんなことないよ」 「わかるのかよ。悪魔の気持ちがおまえに?」 星矢が意外そうな顔をして、瞬に尋ねる。 瞬が悪魔の気持ちがわかると言うのは、確かに意外だ。 俺も驚いた。 多くの敵を倒しながら、どこまでも汚れを拒否し続ける強靭な心を持った瞬には、悪魔の気持ちなどわかるはずがない、わかろうとしても それは無理な話だろうと、俺は思っていたから。 「わかると断言することはできないけど……。でも、キリスト教の悪魔って、確か、もともとは天使だった人たちでしょう。神様は最初に天使を創って、次に人間を創った。神様が天使より人間を愛するのを見て、天使は人間を愛する神を憎むようになり、神に戦いを挑んで敗北し、堕天させられた。そして、堕天使たちは悪魔として人間に挑むようになった――。悪魔っていうのは、神様が人間を愛するから、神様の愛を手に入れられないことが悔しくて、神の愛する人間を堕落させてやろうって画策する元天使たちなんだ。もちろん、それはよくないことだけど、でも、かわいそうじゃない。悪魔は神様に自分を愛してほしかっただけなのに」 『もちろん、それはよくないことだけど』と、ごく自然に断じ、『でも、かわいそうじゃない』と、ごく自然に悪魔に同情する瞬。 瞬は、悪魔の気持ちを理解することは、おそらく永遠にできないだろう。 だが、同情し、愛することはできる。 本来、清廉潔白であることと 優しいことは相容れない性質だと、俺は思う。 普通は、清廉潔白であろうとする人間は 厳しくなるものだし、優しくあろうとする人間は、人の汚れや弱さを認め 受け入れなければならなくなるものだから。 その相容れない二つの性質を、どんな葛藤もなく自分の中に共存させているところが、瞬の特異な点だ。 無知や無思慮によって その二つの性質を並存させているのではないところが。 瞬には、悪魔でさえ甘えたくなるだろう。 星矢は、自分が そういう特別な人間と対峙していることに気付いていないんだろう。 瞬の何気ない発言に、 「悪魔が生まれたのって、神様と天使と人間の三角関係のせいなのか? 原因は嫉妬? 人間様には迷惑な話だなー」 なんていう馬鹿な感懐しか抱けないというのなら。 星矢の馬鹿な言い草に、瞬が 「――とする説もあるってこと。悪魔にしてみたら、人間こそが、神の愛を奪った邪悪な存在なのかもしれないよ。僕たちにとって敵だった人たちだって、僕たちの方を邪悪な存在だと思っていたのかもしれない。彼等には彼等の信じる正義があって、彼等は自分たちを邪悪な者だとは思っていなかったろうから」 「ああ、そーいや、人間が醜悪だから粛清するんだとか言ってた神サマたちもいたな。悪いのは人間たちだって。あの神サマたち、自分が悪者だなんて、これっぽっちも思っていないみたいだった」 「同じように、黒鳥のオディールにだって、彼女なりの正義があったのかもしれないよ」 瞬らしい考え方だ。 瞬は、根っからの悪人はいないと信じ、悪魔でさえ 悪心だけでできているとは考えず、その善良な部分を探し、認めようとする。 確かに、天・地・冥、どの世界にだって、完全に悪だけでできている生き物はいないだろう。 そんなものになりたいと思っても、なれるものじゃない。 だが、善意より悪意、優しさより無慈悲な心の勝った人間はいくらでもいる。 にもかかわらず、『少しでも いいところがあるのなら、その人は悪い人じゃない』という くくりでまとめてしまうから、瞬は悪人のいない世界の住人になってしまうんだ。 ポセイドン戦後、瞬がソレントとのバトルの最中、敵に向かって『あなたは悪い人じゃない』と叫んだという話を聞いて、俺は目眩いを覚えた。 相手は、地上を水没させ 人類を根絶やしにしようとしている邪神の手先だぞ。 それが“悪い人”でないはずがない。 その上、瞬がソレントを悪い人じゃないと判断した根拠が、奴の吹くフルートの音色が美しいから、ときた。 ああ、瞬なら、あのカーサでさえ、『人間の大切な人を見付け出せる力は、良い方に使えば、きっと人の心を癒すことに役立てられる』とか何とか理屈をつけて、“完全に悪い人じゃない人”に分類することもできるだろう。 瞬のそういうところが好きな俺も、大概 かなりの甘ちゃんなんだろうが。 「だとしてもさ、だったら、正義と正義の戦いばかりで、悪者がいなくなっちまうじゃん。俺たちが悪者にされるのは御免だぜ。両方が自分を正義と信じて戦ってるんで構わないけど、どっちかが間違った正義だとか、誤解の上に成り立ってる正義だとかでなきゃ、正義の味方としての俺たちの立場がなくなる」 星矢の勧善懲悪志向も極端だ。 瞬が言うように、この地上に完全な正義と 完全な悪の戦いは起こり得ない。 厳密な意味で、勧善懲悪の正義の味方なんてものは、この世に(もちろん、あの世にも)存在し得ないんだ。 “地上で最も清らか”という神のお墨付きを持っている瞬だって、見る者が見たら邪悪な存在たり得るかもしれない。 瞬は“最も清らか”なのであって、“完全に清らか”なわけではないんだからな。 ハーデスは、俺たちが敵対した神々の中で 俺が最も嫌いな神だが、人を見る目と、用いる言葉の選択だけは確かだ。 瞬は、地上で最も清らかな人間。 完全に清らかな人間じゃない。 「僕たちに敵対する人たちは、自分の正義を貫くために、多くの罪のない人間たちに犠牲を強いるから……。僕たちの正義には、地上に住む多くの人間の命を犠牲にしないっていう事柄が含まれていて、その一点において、僕たちは正義なんだよ。もちろん、それは人間にとっての正義にすぎない。同じように、僕たちの敵である人たちには彼等なりの正義があって……難しいね」 瞬が清らかなのは、無知や無思慮によるものじゃない。 瞬は、俺たちの正義の限定性もわかっている。 瞬は、ちゃんと 自分が生きている世界の状況を見、考え、判断を下すことができる。 瞬なら、もしかしたら、悪を理解することも不可能ではないかもしれない。 決して、その悪を是として受け入れることをしないだけで。 「だから、おまえは、敵を傷付けることも嫌なのか」 星矢のようにシンプルな気持ちで戦いに臨めない瞬に同情している口調で、紫龍が瞬に尋ねる。 瞬のような考え方をしていたら、戦うほどに、敵に勝利するほどに、瞬は傷付くだけだ。 それがわかっているから、こいつは(俺をさしおいて)『二度と瞬に聖衣を着せないつもりだ』なんてことをほざいたりもできたんだ。 まあ、あの時まで 瞬は自分の戦いの方向性を掴めていなかったし、まさに その時、のんきに瞬の小宇宙の中で寝ていた俺には、紫龍のでしゃばりに文句を言う権利はないんだが。 「できれば、話し合うことで解決できたら、それがいちばんいいことだとは思うけど、自分の正義の実現のために 他の犠牲を顧みない人たちは頑なで狂信的なことが多くて――結局は、罪のない人たちを守るために、戦うしかなくなってしまう……」 「敵にも正義があると思っていたら、戦うのが つらいだろう」 「自分と違う正義の信奉者は悪だと信じることができたら、それは楽だろうけど……。そうだね、僕たちの敵になる人たちが本当に悪い人たちだったら、僕たちは とても楽だろうね。相手がどんなに強くても、その敵が完全に邪悪なものだったら、僕たちは迷う必要も躊躇する必要もなくなるもの。でも、どちらも自分を正義と信じてる場合が多いから、戦いっていうのは難しい。本当に難しい……」 瞬が その言葉通りに難しい顔をするのを、やはり難しい顔をして星矢が見やる。 もっとも星矢の場合は、難しいことを考えるのが嫌で、難しい顔になっているだけなんだが。 こいつは、瞬や沙織さんに『あれは悪者だから倒せ』と言われたら、それが正義の味方のウルトラマンでも仮面ライダーでも、自分では何も考えず 躊躇なく戦いを挑んでいくに違いない。 もちろん、星矢がそうするのは、瞬や沙織さんは そんな馬鹿なことは言わないという確信が 奴の中にあればこそ。 星矢は極めてクールに合理的に分業という制度を受け入れて、正邪の判断という作業を瞬や沙織さんに委ねているんだ。 「あ……」 星矢の難しい顔に気付いた瞬が、その顔を元に戻すため、慌てて 目許に微笑を刻む。 「そう、白鳥の湖の話だったね。だから、白鳥の湖のオデットとオディールも似たようなものなのかもしれないって思うんだ」 「どっちにも それぞれの正義はあるのかもしれないって? でも、世間では 黒鳥の方が悪者ってことにされてるんだろ? それはなんでなんだよ。王子を騙したから? けど、この場合は、騙された王子の方にも問題あると思うぜ。それこそ、氷河が おまえとブラックアンドロメダを見間違うようなもんじゃないか。王子は自分で選んで、黒い方に真実の愛とやらを誓ったんだろ?」 よりにもよって 何て例えを持ち出すんだと怒鳴りつけ星矢を殴ってやりたかったが、とりあえず その直前で、俺は踏みとどまった。 俺とそういう仲になる以前のこととはいえ、他ならぬ瞬がそういうことしでかしてくれていたからな。 俺とブラックスワンを――まさに、白鳥と黒鳥を――見誤った。 あの時、瞬は、一輝に加担するブラックスワンの中にも、ブラックスワンなりの正義を見ていたんだろうか。 きっとそうなのに違いない。 途轍もなく不愉快な例え話を口にした星矢を不快に思った気配すら、瞬は見せなかったから。 「僕たちには僕たちの正義があって、僕たちの敵にも彼等なりの正義がある。ただ この地上と人類を守るっていう大義名分があるから、僕たちは人類にとっての正義と見なされているのが実情でしょう? 白鳥の湖も同じ構造なんじゃないかな。オデットにはオデットの正義があって、オディールにはオディールの正義がある。ただ王子がオデットを愛しているから、オデットが正義と見なされる――」 「へ……?」 「オディールが黒鳥なのは、オデットを愛している王子の心を無視して、彼女が王子の目と心を自分に向けようとしたからなんじゃないかな。彼女は彼女の正義を貫こうとしているのかもしれないけど、王子の気持ちを考えていない。王子の幸せを望んでいない。むしろ、王子の心を犠牲にして、自分の正義を貫こうとしている。だから、彼女は邪悪とされる――」 「白鳥と黒鳥を見間違うような阿呆の王子が、オデットの正義の根拠かよ?」 「うん。もし 王子がオディールを愛していたとしたら、オデットが邪悪な黒鳥の立場に立つことだってありえるんだ」 なるほど。 オディールは――オディールもまた、王子を愛していたのかもしれない。 オディールは、愛する人に自分を振り向いてもらうために努力しただけなのかもしれない。 だからオディールは(完全に)悪い人ではないかもしれない――というのが、『白鳥の湖』における瞬の“悪い人はいない”理論というわけか。 ただ王子(人類)の意思を無視しているから、オディールは社会的に邪悪とされる――というわけだ。 瞬は、“悪い人じゃない人”を作り出す天才だな。 「……わかんねーな」 凡人の星矢には、天才の唱える理屈がわからないらしい。 というより、星矢は、一人の人間が白鳥にも黒鳥にもなれる事態を認めたくないのだろう。 敵がそんな奴だったなら、ややこしくて戦いにくいから。 自分の勧善懲悪の実行に支障をきたすから。 星矢は、『白鳥の湖』の白鳥と黒鳥を一人の踊り手が踊ることの意味をわかっていない。 それは、オディールがオデットに化けているからじゃないんだ。 オデットとオディールが 一人の人間の表と裏を表すものだからなんだ。 まあ、『白鳥の湖』の主旨なんて、これまで ただの一度も真面目に考えたことなんかなかったから、そのことに俺が気付いたのは たった今なんだが。 「つまり、極論を言うと、王子様に愛されてる方が正義で、愛されていない方が邪悪だっていうことだよ。王子様の心を重んじていないから」 「もてる方が正義ってことか?」 「そういうのとは ちょっと違うと思うけど……。たとえば、氷河が僕を好きでいてくれる間は、僕は白鳥でいられる。でも、もし、氷河が他の誰かを好きになって、僕が、よそを向いてしまった氷河の心を自分の方に向かせようとして あれこれ画策を始めたら、氷河の意思を無視している僕は黒鳥になるってこと。僕だって、黒鳥になれるんだ」 「おまえが『白鳥の湖』の一人二役のプリマドンナに?」 「 「……」 瞬が導き出した結論に、星矢はまた難しい顔になった。 星矢が難しい顔になったのは、瞬が『白鳥の湖』のプリマドンナになれる可能性を 奴が受け入れ難く思っているからじゃない。 瞬が黒鳥になれるという、その言葉が受け入れ難いからだ。 俺に愛されなくなったくらいのことで、瞬が邪悪の側に立つ人間になり得るなんて、星矢には想像するのも困難なことだろう。 瞬が黒鳥になるなんてことはあり得ないと、星矢は思っている――ほとんど確信している。 その件に関しては、俺も同感だった。 そして、実のところ、瞬自身も、自分が辿り着いた結論に あまり自信を持てていないようだった。 俺が、 「おまえは本当に自分が黒鳥になれると思っているのか」 と尋ねたら、瞬は迷う素振りを見せ、結局 最後まで首を縦に振らなかったから。 最後まで首肯せず、瞬は結局 小さく横に首を振った。 「人が黒鳥になる理屈はわかるけど、僕は黒鳥にはなれない。氷河に愛されていない僕なんて、考えたくもないし……。でも、そうなったら――氷河が僕以外の人を好きになったら……そうだね、僕は身を引くだろうね」 「俺が愛しているのが とんでもない性悪でも?」 「僕の正義を貫くために、氷河の選んだ人を倒すの? そんなこと、できないよ」 そうだろう。 瞬ならそうだろう。 瞬には それはできない。 瞬の恋人としては もどかしく悔しい限りだが、俺は 瞬のそういうところを好きになったんだから、これは俺が耐えなければならない もどかしさと悔しさだ。 「でも、そう。僕を白鳥にするのも 黒鳥にするのも、氷河の心次第だということだよ」 「責任重大だな」 星矢以上に 瞬が黒鳥になる可能性を信じていない紫龍が、明確に俺を冷やかし からかうための茶々を口にする。 結局、誰も信じていないんだ。 瞬に黒鳥の役が務まるなんて、そんな馬鹿げたことは。 『どれほど 善良な人間に見えても、腹の底では何を考えているか――』なんて、ありきたりなIF文を瞬に当てはめることの馬鹿馬鹿しさを、命をかけた戦いを瞬と共にしてきた俺たちは よく知っている。 「でも、逆に――氷河が僕を好きでいてくれるせいで、氷河は、どこかに黒鳥を作っているかもしれないよ」 紫龍のからかうような口調につられて、瞬が口にしたIF文の方が、可能性としては まだあり得る。 無論、俺は、その無意味な可能性でできたIF文を即座に否定したが。 「それはない。『女房の妬くほど、亭主 もてもせず』と言ってだな、そういう心配は、大抵が杞憂にすぎないんだ」 「てことは、もてない男が正義っていう結論かよ!」 星矢の声は弾んでいる。 まあ、星矢に限らず、大抵の男には、『もてる奴が正義』に比べれば『もてない男が正義』の方が、より受け入れやすい結論だろうな。 「その考えは、あながち 間違いではないかもしれん。その方が余計な波風が立たなくていいし、実際 俺は、瞬以外の人間にもてたことがないおかげで平和な日々を謳歌できているからな。もてない男というのは平和でいいぞ」 「だよなー!」 実は アナナの聖闘士たちの中で いちばんもてる男であるところの星矢が、全く その自覚なく、力いっぱい嬉しそうに頷く。 そんな星矢を見て、星矢以外のアテナの聖闘士たちは、少々 引きつった笑みを浮かべ――そして、力の抜けた嘆息を洩らした。 もちろん、瞬以外の奴に もてたことのない この俺も。 |