世界の北の果て――北の国ヒュペルボレアスにあるボレアスの神殿に連れてこられたシュンは、すべてに怯えているようだった。
大きな翼を持つボレアスの姿にも、その壮麗な神殿の巨大さにも、その壮麗さに比して 神殿の印象が あまりに寒々しいことにも。
だが、シュンを最も怯えさせているのは、自分がなぜ ここに運ばれてきたのかがわからないこと、自分をここに運んできた者が何者なのかがわからないことだったらしい。
普通の人間なら、突然 我が身に降りかかってきた災厄――災厄だろう――に動転し、口をきけずにいても致し方のない状況で、シュンは、果敢にも自分の怯えの原因を取り除くための作業に取りかかった。

「あの……あなたは神様ですか。お……お名前を伺ってもいいでしょうか」
大理石の太い柱が幾本も立っている広間の中央にある、まるで生け贄を捧げる祭壇のような佇まいで たった一つ 置かれている長方形の石の椅子。
そこに、ほとんど身体を押しつけられるようにして座らせられていたシュンは、その逃げ場所をふさぐように立っている白い翼の神に そう尋ねてきた。
シュンは、この尋常でない状況の中で 口をきくだけの胆力は かろうじて持ち合わせていたらしい。
だが、その声は頼りなく震えている。
その眼差しも、清らかというよりは、優しく気弱げ。
『おまえは すべての人間を滅ぼすために、北風の神によって この神殿に連れてこられたのだ』と、本当のことを告げられたら、それだけで この少年は その心臓の鼓動を止めてしまうのではないか。
シュンの細い肩を見おろして、ボレアスは そう思ったのである。
そこまでのことにはならなくても、気を失うくらいのことにはなりそうだと。

「俺は――」
どう考えても、北風の神の目的をシュンに知らせるのはまずい。
少なくとも、今はまずい。
性急に事を進めようとすると、シュンに拒まれることは必至。
シュンに自分が荒々しい北風の神だということを知らせるのは得策ではないと考えたボレアスは、だから、咄嗟にシュンに仮の名を告げたのである。
この北の大地を支配するものの名を、彼はシュンに名乗った。
「俺の名は氷河だ」
「氷河……」

当然のことだが、シュンは そんな名を冠した神を知らなかったらしい。
だが、人間のそれとは思えない氷河の・・・姿。
困惑を深めることになったらしいシュンに、ほとんど開き直って、氷河は・・・即興の作り話を語ってやったのである。
翼を持つ得体の知れない生き物への恐れを、シュンの中に生じさせないために。
「その……俺は、ヒュペルボレアスの国に住んでいた人間だ。海に船を出して漁をして生計を立てていた。数年前、北風の神ボレアスが起こした暴風のせいで、船が沈み、仲間を失った。その時に、翼があったら仲間を救うこともできたのにと嘆き、神への呪いの言葉を吐いたら、こんな姿にされてしまったんだ」
「え……」
「おかげで俺は人間の世界に戻ることができなくなった。どうすれば元の姿に戻ることができるのかと神託を伺ったら、地上で最も清らかな人間の愛を手に入れることができれば願いが叶うという答えが返ってきたんだ。それはおまえのことだと言われ、勝手にさらってきてしまった。乱暴だったとは思うが、俺にはおまえの力が必要なんだ。力を貸してくれ」
「あ……」

大理石の彫像のように硬く強張っていたシュンの身体が、生きている人間らしい やわらかさを取り戻したのは、彼の目の前に立つ若い男が人間と聞いて安堵したから――ではないようだった。
そうではなく、同情心が恐怖心を凌駕したためらしい。
氷河を見上げるシュンの瞳には、まるで ひどい怪我をした小動物を気遣い哀れむような水の色の光が浮かび始めていた。
「お友だちを亡くしてしまったの? お気の毒に。悲しくて無念だったでしょう。そんな あなたから故郷を奪うようなことまでするなんて、北風の神様は、傷付いているあなたに どうしてそんなに過酷な罰を与えたの……」
「あ……いや……」

容赦のない北風の神に呪いの言葉を吐いた人間に 更なる追い討ちをかけるようなことは さすがにしたことはなかったが、船を沈め、家を飛ばし、畑を凍らせて、人間たちを苦しめることは頻繁に行なっていたボレアスは、シュンの同情の言葉に些少でない気まずさを覚えることになったのである。
彼は これまで、人間たちにとっては理不尽な力で彼等に不幸を見舞うことで、自らの不遇に対する苛立ちを抑えようとしてきた。
それで、自らの苛立ちが消えるはずがないことは わかっていたのに。
自分が人間たちに為してきたことは、オリュンポスの神々が自分に対して為していることと同じ。
これまで自分はひどく見苦しい振舞いを続けていたのだということに、ボレアスは、シュンの同情の言葉によって 初めて自覚したのである。
“氷河”の正体を知らないシュンは、だが、そんなボレアスに あくまで同情的だった。

「そういうことなら、お力になってあげたいですけど、その……あなたの力になれる、地上で最も清らかな人間って、本当に僕なんですか」
「間違いない。その澄んだ目。これほど美しい瞳の持ち主を、俺は他に知らない」
『人間はもちろん、神々の中にも』と言いかけて、はっと我にかえり、その言葉を呑み込む。
シュンは、氷河の言葉に気後れしたように、その瞼を伏せることで、澄んだ瞳を隠そうとした。
「でも――僕は、身寄りのない ただの孤児で、いろんな人の情けを受けて生かしてもらっている非力な人間にすぎません」
「だが、尋常の人間とは思えないほど美しいし、清らかな心が備わっているのは間違いない」
「清らかって、どういうことでしょう。優しいということ? それなら、僕なんかより、僕を助けてくれた人たちの方がずっと清らかです」
「清らかというのは、汚れていないということだ」
無知で、我欲がなく、人を疑う心を持たず、人類の粛清を企む神の魂を抵抗なく その身に受け入れる者のことだ――とは言えない。
言えないことを言わなかったせいでもないだろうが、シュンは僅かに首をかしげて、氷河に重ねて尋ねてきた。

「汚れって何ですか」
「貪欲とか、憎悪とか、嫉妬、憤怒、そういう醜い感情のことだ。そういう醜いものに心身を支配されること――」
それは自分のことだと、シュンに説明しながら思う。
そんなことを誰かと語らったことがなかったボレアスは、自分が言葉を重ねるたび 自分がどんなものであるのかということに気付かされ、自虐的な気分になってしまったのである。

「それなら、生まれたばかりの赤ちゃんが 地上で最も清らかということになりませんか。僕は、憎しみも妬みも知る普通の人間です」
「憎しみや妬みを? おまえが」
「ええ。今は、あなたから 大切なお友だちを奪った悲しい運命を憎んでいます」
「ボレアスを?」
「そういうことではなく……。神様が気紛れで 罪のない人間に そんなひどいことをするはずがないですから、北風の神様にも、そうしなければならない事情があったのでしょうし……。僕は ただ、起こってしまったことが悲しいんです」
「……」

北風の神は、気紛れで 罪のない人間たちに“そんなひどいこと”をしていた。
北風の神が、神にも人間にも愛されず敬われないのは当然のこと。
次から次に 気付きたくないことに気付かされ、氷河の心は沈鬱になっていったのである。
そのせいだったかもしれない。
もっと上手い答えがあったはずなのに――もっとシュンを言いくるめるのに有効な答えがあったはずなのに、
「あの……愛って、どうすればいいの」
と、シュンに問われたボレアスが、
「あ……ああ。どうすればいいのか、俺にもわからん。どうすれば おまえに愛してもらえるのか……」
という正直な答えを、地上で最も清らかな者に返してしまったのは。

どうすればシュンに愛してもらえるのか。
どうすれば 粗暴で野蛮な神は、誰かに愛してもらえるようになるのだろう――?
ボレアスは、その答えを知らなかった。

「おまえは誰かを愛したことがあるのか」
「僕は、僕に親切にしてくれた人たち全部に感謝して、愛しています。人だけじゃなく、僕を励まして、僕を生かしてくれる、花も、お陽様も、雨も、風も」
「風も?」
北風の神の胸が、一瞬 大きく跳ね上がる。
そんな他愛もない、どんな深い意味もない戯れ言に、なぜ自分の心はこんなにも動じるのだと、ボレアスは自嘲し、そして、そんな自分を戒めた。
だいいち、シュンが愛している風というのは、春に吹く西風ゼピュロスや晩夏に吹く南風ノトスのことに違いないのだ。
すべてのものを凍えさせることしかできない北風ボレアスを、人間が愛することなどありえない。
だが、もし、その“ありえないこと”が実現したら どんなにいいだろう。
氷河は・・・、シュンの澄んだ瞳の中で、そんな夢を見始めていた。

「俺が おまえに親切にしてやったら、おまえは俺を愛してくれるようになるか」
粗暴な北風の神らしくなく、まるで未知の何かを恐れている人間の子どものように、氷河はシュンに尋ねた。
シュンが、氷河の前で、また少し首をかしげる。
「……よく わかりません。そういう気持ちって、自然に生まれるものでしょう。僕は、愛そうと意識して誰かを愛するようになったことはないので――」
「そうか……」
シュンの答えに、ボレアスが――氷河が――落胆する。
シュンは、自分が 仲間と故郷を失った不運で気の毒な人を落胆させてしまったことに罪悪感を覚えたようだった。
少し慌てた様子で、言葉を重ねてくる。

「あの、でも、あなたの側にいて、あなたをよく知るようになったら、そうなるかもしれないですし――。しばらく僕に時間をくださいますか」
「時間……? しばらく……ここにいてくれるのか? いいのか?」
シュンの提案は、氷河には驚くべきものだった。
いったい この“清らかな”人間は、己れの身に突然、しかも理不尽に降りかかってきた この災厄――災厄のはずだった――を どう考えているのか。
清らかな人間の心が読めないことに戸惑いながら、氷河がシュンに尋ね、シュンがそんな氷河に頷いてくる。
「はい。あの、それで、王女様に、僕がここにいるってことを知らせていただけますか。親切な人と一緒なので心配しなでくださいって」

「あ……ああ」
地上で最も清らかな魂を持つ人間は、どうやら、自分には何の益もないことのために、そして、今日初めて出会った得体の知れない化け物のために、その時間と力を割いてくれるらしい。
もしかしたら、その化け物が語った偽りの物語に同情心を刺激されて。
ボレアスは――氷河は――無知で、我欲がなく、人を疑う心を持たない人間に、ひどく混乱しながら頷いた。
夢路を辿っているように、ぼんやりした気持ちで。






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