瞬の隣りの位置をキープするのが習性になっている氷河が、今日に限って 瞬の後方を歩いているのは、瞬の退路(あるいは進路)をふさぐためだった。
いつも無駄に明るく元気な星矢の泣き言を聞かされたばかりなのである。
人のいい瞬は、それが好ましいことではないとわかっていても、結局 情に負けて星矢の許にUターンしかねなかった。
現に、星矢に『ちゃんと反省して』と厳命してきたばかりなのに、瞬の背中は 過酷な罰を受けている仲間の許に戻りたがっていた。

それにしても あの絵は、どういう立場にある者が、どういう資料にって描いたものなのか。
姿形やシチュエーションは事実のままなのに、名前だけが入れ替わってしまっている。
ボレアスがさらった相手はアテナイの王女という定説ができあがった経緯は わかるような気がするのだが、星矢が言っていた通り、ボレアスとオレイテュイアの姿が 氷河と瞬のそれに酷似しているのは不思議なことだった。
瞬の姿が 汚れなき処女の理想形だからなのだろうと言われれば、もちろん氷河は 素直に その意見に賛同することはできたのだが。

「俺が愛したのは、オレイテュイアではなくシュンだと 言いたげな顔ね」
女神アテナが、ふいに北風の神に話しかけてくる。
「伝説の形成というのは、そんなものだろう。ただ――」
つい油断して ボレアスとしての答えを返してしまってから、氷河は自分の舌を噛んで、己れの迂闊を戒めたのである。
慎重さに欠く この性質は、何千年の時が経っても治らないものなのかと自嘲しながら。
「ただ?」
アテナに重ねて尋ねられ、僅かに口許を引きつらせる。
大恩ある彼女を無視するわけにもいかなかった氷河は、氷河に戻り、氷河として、アテナに答えたのだった。
瞬に聞かれないように、声を低く ひそめて。

「ハーデスは愚かな神だったと思っただけだ。己れの魂で瞬の身体を支配し、瞬と一つのものになってしまったら、これほど素晴らしい魂の持ち主と愛し合うことができなくなるというのに、自ら その機会を放棄するような愚行を為すとは」
「賢いあなたは、すぐに気付いた」
『それは皮肉か』と、氷河はボレアスに戻って 嫌味を返しそうになったのである。
その直前で、たった今 自分に為した自戒を思い出し、かろうじて沈黙を保つ。
ボレアスが賢いか愚かなのかの判定はさておくとして、時間はかかったにしても その事実に行き着くことのできたボレアスは、救いようがないほどの愚か者というわけではないだろうと、氷河は胸中で自らを慰めた。
同時に、気付くことができてよかったと安堵もした。

と、ふいに、瞬が後ろを振り向く。
瞬を星矢の許に向かわせないため、氷河は即座に心身を緊張させ身構えたのだが、瞬は氷河の手をすり抜けて星矢の許に駆けつけるつもりはなかったらしい。
瞬は、瞬らしく、素直に馬鹿正直に 真正面から、氷河に その許可を求めてきた。
「あの……やっぱり星矢一人じゃ、全部は無理だと思うの。手伝いにいってあげてもいいかな」
「床掃除をか?」
「うん……」

瞬の態度は、あくまでも控えめで、どこまでも遠慮がち。
強気に出られると反発もしやすいが、瞬に こういう戦法でこられると、氷河はお手上げだった。
抵抗を諦めて 軽く肩をすくめてから、氷河は溜め息を一つ洩らしたのである。
「仕方がないな。紫龍、戻ろう」
「まったく、瞬は甘いんだから。星矢は一度 がつんと痛い目に合った方がいいというのに」
紫龍は、結局こうなるだろうことを 氷河より瞬より早く察していたようで、口では不平を鳴らしながら、床掃除に取り掛かる心の準備は万端という風情だった。

「沙織さん、いいですか?」
仲間の了承を取りつけた瞬が、今度はアテナに稟請する。
アテナはもちろん快く――不本意の極みという顔をしている氷河を楽しそうに横目で見やりながら快く――瞬と瞬の仲間たちに星矢救援の許可を与えたのだった。
「ま、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間の窮地ですものね。あなたたちの麗しい友情に免じて、特別に許可してあげましょう」
「ありがとうございます!」
アテナの許しを得るや 瞬が駆け出し、いかにも不承不承といった足取りの氷河と紫龍が その後を追う。
瞬は 氷河や紫龍にまで救援要請を出したわけではないのだから、彼等は別に瞬の後を追う必要はないのである。
にもかかわらず、不承不承とはいえ、そうするのが当たりまえのことのように 彼等は瞬に従うのだ。

清らかな気持ち、優しい気持ちは伝播する。
確実に、人から人へと伝わっていく。
すっかり お人好しの人間になってしまっている北風の神の後ろ姿を――北風の神だった者の後ろ姿を――アテナは微笑って見送った。






Fin.






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