waking dictionary

- I -







西アフリカ、セネガル。
ヒョウガは その赴任地に さほど不満はなかった。
両親を早くに亡くしたヒョウガを親代わりに育ててくれた叔父は、アフリカより、彼自身が若い頃に赴任したインドシナ方面をヒョウガの任地に望んでいたらしいのだが、どこに行こうと任期は1、2年。
そこで植民地経営の現実を学び、領事としての務めをつつがなく終えて帰国すれば、外務省か法務省の次官クラスに昇進、そこである程度の経験を積んで政界に進出、元老院議員となり、何がしかの大臣職に就く。
必要なキャリアを積むために若いうちに赴任する植民地がどこであろうと、その人生の予定が狂うわけではないのだ。

ヒョウガの両親が亡くなったのは、ヒョウガがまだ10代半ばの頃だった。
故国ロシアを離れ、フランス国立行政学院に進学するためにパリ政治学院に在籍していた頃。
学業を途中で投げ出すのはよろしくないという理由で、叔父にフランスに引き留められ――もっとも彼は、彼にとって唯一の肉親であるヒョウガを政情不安定なロシアに戻すことに不安を覚えて、そんなことを言ったのだったかもしれないが――それ以降、一度も故国には帰っていない。
というより、帰れなくなってしまったのだ。
ロシアで革命が起こり、帝政が打ち倒されてしまったせいで。
革命前までは叔父が間接的に管理していてくれたペテルスブルクの館も領地も革命軍に没収され、ヒョウガは、彼が継ぐべき爵位も財産もすべて失ってしまったのである。

とはいえ、それでヒョウガが生活に困窮するようなことはなかった。
ヒョウガの母の弟である叔父はフランスでも有数の資産家で、当時は外務省の次官職にあり、その彼が甥であるヒョウガを我が子同然に慈しんでくれていたから。
決して女性に好意を持たれないタイプの男性ではないのだが――むしろ、彼の妻になることを望む女性は腐るほどいたのだろうが――なぜか彼は独身主義を貫き、ヒョウガを自分の後継者にすると公言していた。
ちなみに、彼は 現在は外務省の副大臣職にある。
叔父の引きがあれば、生粋のフランス人でないことが、ヒョウガの立身の障害になることもない。
そういう優雅な身の上だったので、しばらくパリの わずらわしい社交界の付き合いや 頻繁に流れてくる故国の あまり愉快ではない情報から逃れて、自由で心穏やかな時間を満喫できるのなら、その場所はどこでもいいと、ヒョウガは思っていた。


20世紀も20年が過ぎた。
1世紀ほど前から、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス等、いわゆる先進国と呼ばれる国々は、自国の外に新たな領土や天然資源を求め、強大な軍事力を背景にして、アジア、アフリカ、アメリカの地域を次々に植民地化していった。
フランスは、7年戦争でイギリスに破れカナダを放棄することになりはしたものの、西アフリカの広大な部分とインドシナ等を植民地とし、それらの国々に宗主国として君臨している。
植民地獲得競争に明け暮れた帝国主義の嵐も ある程度 収まりかけ、現在は ほぼ大勢が決した状態だった。

ヒョウガが領事職を任じられたセネガルは、19世紀初頭にフランスが持ち込んだ落花生栽培が主産業という、のどかな農業国。
ある程度の秩序は既にできており、政情も比較的 安定している。
それを守り通し、プランテーションの生産量を落とすことなく 本国に戻ってくれば、その後の立身の道は叔父が用意済み。
大恩ある叔父の期待を裏切ることは許されず、もちろんヒョウガは叔父の期待に応えるつもりだった。
決して降りることのできないレールの上に乗る前の、束の間の自由、息抜き。
ヒョウガにとってセネガルへの赴任は、そういう意味合いのものだった――その程度のものでしかなかったのである。
現地の言葉は全くわからないが、通訳がつくはずだったし、ヒョウガはどんな心配もしていなかった。
しばらくの間 第二の故国を離れることを、少し 遠い場所に長期の旅行にでるくらいの気持ちで、ヒョウガは花の都をあとにしたのである。


セネガルには船で渡った。
ダカール港から上陸し、サンルイ=ダカール鉄道で少し内地に入る。
特に急ぐこともなく、パリから1週間ほどの時間をかけて到着した赴任地。
欧州にいて、『植民地』という言葉から想起する光景とは違う光景がそこにはあった。
街の大通りには、フランス風の建物がずらりと立ち並び、フランスの地方都市と何ら変わるところがない。
通りを歩いているのも5人に1人は白人で、小型軽量車の姿さえある。

駅までヒョウガを迎えに来ていたのは さすがに馬車だったが、道が舗装されているので、へたにフランスの田舎道を行くより 揺れは少なく、乗り心地は至極快適。
想像以上に発展し文明的な町並みを、ヒョウガはゆったりと眺めることができたのである。
街の一等地に、これからヒョウガが暮らすことになる領事館があり、それは白亜の館だった。
新任の一領事でこれなら、総領事は いったいどんな宮殿に住んでいるのかと思うほど、家屋は大きく、庭も広い。
手入れの行き届いた庭には樹木だけではなく、小さな噴水まであった。
屋内の家具調度も すべてフランス風。
フランスの地方都市の城館と さほどの違いはない。
フランスの城館と違うところは、ほとんどの部屋の天井に巨大な送風機が取り付けられていることくらいのもの。
ここがアランスではなく、サハラ砂漠と大西洋の間にあるアフリカの町なのだということを、絶えることなく ゆったりした風を生む それらの機械だけが 遠慮がちに主張していた。

この辺りは、日中の陽光はきついが、夜はかなり涼しくなるらしい。
湿気が少なく乾燥しているので快適に過ごせるでしょうと、館でヒョウガを出迎えた通いの管理人は言い、おそらくそうなるのだろうとヒョウガも思った。
館には、その現地人の管理人の他に、小間使いや料理人、庭師等、30人以上の使用人がいるという話だった。
フランス本国では考えられない贅沢である。
国の副大臣を務めるヒョウガの叔父の館にさえ、使用人は10人もいなかった。
人件費が ただ同然に安いのだろう。
もしかしたら、本当に ただなのかもしれないと、ヒョウガは思った。

ヒョウガより2、3日早く到着していたヒョウガの荷は既に解かれ、それぞれが収まるべきところに収まっていた。
すぐさま日常生活を始められる状態の領事館の居間の椅子に腰をおろし、ヒョウガが一息ついた頃、こちらから挨拶に行かなければならないだろうと考えていた総領事の来訪が、先ほどの現地人の管理人によって知らされた。
着任早々 息つく間もなく仕事に取り掛からなければならないのかと、ヒョウガは うんざりしたのだが、それは全くの杞憂だった。
来訪した総領事の目的は、正しく 新任の領事への ご機嫌伺いだったのだ。

形式的にはヒョウガの上司にあたる総領事は、ヒョウガより15歳ほど年上、40代に入った あまり風采のあがらない気の弱そうな男だった。
アフリカの地に長くいるはずなのに、ほとんど日焼けしていない。
そんな男が白い麻の上下、白い帽子を身につけている様は、ヒョウガにアスパラガスを思い起こさせた。
もちろん、遮蔽栽培したホワイトアスパラガスである。
そのアスパラガスに似た総領事が、挨拶もそこそこに、自分はいつ本国に呼び戻してもらえるのかと、しきりにヒョウガに不安を訴えてくるのだ。
彼は、7年前、30も半ばを過ぎてから家族と共にセネガルに赴任してきたらしい。
彼は、帰国命令を出してもらえるように、外務省の副大臣であるヒョウガの叔父への口添えを求めてきた。
新任の一領事に――というより、外務省副大臣の甥に。

植民地での赴任期間が7、8年を超えるということは、本国で必要な人材とみなされていないということだった。
帰国しても閑職しか与えられないことは 彼もわかっているらしいのだが、フランス本国に両親を残してきたので帰国して安心させたいと、彼は いかにも同情を買おうとしているような顔でヒョウガに訴えてきたのである。
彼は、どうやら上司風を吹かせるタイプの男ではないようだった。
明日 こちらに滞在している主だった貴紳と夫人を招いての晩餐会を総領事館で催すので、ぜひ出席してほしいと言って、彼は帰っていった。
それ以外は何も言わずに。
つまり、ヒョウガのこれからの仕事の内容を、彼は全く語らなかった。
これは本当に、こちらに滞在している間、有閑に耐えることが自分の仕事になるのかもしれないと――そのつもりでやってきたにもかかわらず――ヒョウガは嘆息したのである。






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