フランスでは、『美しいフランス語が最大の持参金』と言われるほど、美しいフランス語を話せることには価値があった。 どれほど財力や権力があっても、美しいフランス語を話せない者は尊敬されず――むしろ、蔑まれる。 逆に、あまり豊かな家の出でなくても、美しいフランス語を話すことができれば、それを持参金代わりに、出身家より家格の高い家に嫁ぐこともできた。 美しいフランス語を話せるということは、教育に それだけの金と時間をかける財力がある家の出だということ、もしくは それだけ努力家だということ、あるいは 高い知性を持っているということの証左。 彼は、美しいフランス語で、だが、自分が それを持参金として利用できない性の持ち主だと、ヒョウガに告げてきたのである。 「なに?」 驚きすぎて、反応が遅れた。 そして、つい、 「なんて もったいない……」 と呟く。 シュンと名乗った美少女 改め美少年が、ヒョウガの その呟きをどう捉えたのかはわからない。 意味を理解できたのか、できなかったのか。 不快に思ったのか、思わなかったのか。 たとえヒョウガの呟きを不快に感じたとしても、その感情を表に出すことは 彼には許されていないのだ。 おかげでヒョウガは、自分の失言を弁解することもできず――少々 苦みの混じった気まずさを覚えることになってしまったのである。 彼は使用人で、ヒョウガはその雇い主。 ヒョウガは彼に対して気まずさなど覚える必要はなかったのだが。 どれほど高名な言語学者の教示を受けた良家の令嬢でも ここまではと思えるほど美しいフランス語を話す少年は、実際、ヒョウガに、『どんな ご命令にでも従います』と、その美しいフランス語で告げてきた。 『旦那様が こちらでどんなご不便も不自由も感じることがないようにするのが、僕の義務です』と。 彼は通訳であり、ごく私的な秘書であり、そして 日常の細々とした用事を片付ける小間使いも兼ねた者として、ここにやってきたらしい。 「言葉がわからないのでは、召使いに用を命じたり、農園で働く者たちに指示を出すこともできないでしょう。どんなことでも ご遠慮なく」 「この子は旦那様から片時も離れんで、旦那様の世話することになってるんで、いつでも何でも好きに使っていいんで」 シュンの美しいフランス語のあとで聞く 管理人の だみ声が、以前より耐え難く感じられる。 耐え難くはあったが、その発言の内容には実に興味深いものだった。 『片時も離れず』 『いつでも何でも』 つまり、この可憐な通訳は、通いの使用人ではなく、この館に常時 待機、おそらくは、呼ばれれば夜中にでもヒョウガの許に飛んできて、その指示に従う――ということなのだろう。 それも、もしかするとヒョウガの任期の間中ずっと。 が、どう見ても、シュンはまだ十分に 親に守られていていい年齢の子供である。 いかに語学が堪能でも、他に代わる人材がないといっても――この歳の少年に それは過酷な仕事であるように、ヒョウガには思われた。 「何もそこまでしなくても……。君はまだ家族と離れて暮らすのは寂しい年頃だろう」 「お優しい旦那様。そのような ご心配は無用です。僕には家族はありませんから」 「なに?」 「ですから、自分がその時 暮らしている場所が僕の家で、その時 僕の側にいる人が僕の家族です。今日から この館が僕の家、旦那様は 家族より大事なお方です」 「……」 自分には帰る家はないと、シュンは言う。 それが事実なのであれば、ヒョウガとしても、無理にシュンをこの館から追い帰すことはできなかった。 だが、やはり この歳若い少年に24時間体制で 言葉を話せない異邦人の世話を命じることには抵抗がある。 迷ったあげく、ヒョウガは、 「俺に つききりでいる必要はない。呼んだ時にだけ来てくれれば十分だ」 とシュンに告げることで、自分の中の抵抗と折り合いをつけたのである。 もっとも、フランス語を解する使用人が一人もいない館で、ヒョウガは シュンの通訳なしには何をすることもできず、聞き苦しいフランス語を話す管理人が館を辞去したあとは、結局 ヒョウガはシュンに つききりで側にいてもらうことになってしまったのだが。 シュンがヒョウガの側を離れたのは、ヒョウガが夕食をとっている間と入浴中のみ。 その間に、シュンは自分の食事やシュン自身の細々とした用事を済ませたらしい。 ヒョウガが浴室を出ると、そこには、テーブルの上にワインの用意をしているシュンの姿があった。 「旦那様に ご挨拶をしたいとおっしゃる方々からの面会の申込みが5件ほど入っています。明日 お返事を差し上げると答えておきました。おそらく、お国のお話を伺いたいのでしょう。義務ではありませんが、お気が向かれましたら お相手してさしあげるのもよろしいかと」 「……ああ」 「ご気分は? 夜になって気温は下がってきましたが、もし ご不快でしたら、送風機の強さを調節いたしますが」 「いや、この程度なら平気だ。もっと暑いのかと思っていた。大丈夫。今日はもういい」 「はい」 夜の10時。 子供は寝ていて いい時刻である。 ヒョウガは、下がっていいとシュンに言ったつもりだったのだが、シュンはヒョウガの寝室のナイトテーブルの側から離れない。 直立不動のシュンを訝り、ヒョウガは、飲みかけたワインに口をつけず、そのままグラスをテーブルの上に戻すことになった。 「食器の片付けは明日でいい。それとも、この上、子守歌でも歌ってくれるのか」 「旦那様がお望みでしたら」 シュンが真顔で答えてくる。 冗談なのか真面目に言っているのかの判断に迷い、ヒョウガは試しに、 「では望む」 と答えてみた。 冗談だったとしても真面目に言っているのだとしても、出てくるのはアフリカの子守歌だろう。 ヒョウガは そう考えていたのだが、ヒョウガの求めに応じたシュンの唇が歌い出したのは、なんとモーツァルトの子守歌だった。 夜になって 日中の暑さが嘘のように涼しくなったアフリカの夜の微風の中に、ひそやかなシュンの声が染み込んでいく。 『この地の言葉は、この地で生まれ育った者以外の者には習得が難しい』と、あの管理人は言っていた。 当然、シュンは この地で生まれ育った者――ということになる。 おそらく、この地を出たこともないのだろう。 そんなシュンが、子守歌とはいえモーツァルトを知っていることに、決してこの地の者を侮るつもりはなかったが、ヒョウガは驚きを禁じ得なかった。 「驚きだな。では明日はシューベルトの子守歌でも歌ってもらうことにしよう。今日はもう下がっていいぞ」 「はい。ですが」 『 ヒョウガが何を言っても、シュンは必ず『 シュンは決して『 必ず『 おそらく、シュンは、決して彼の“旦那様”に逆らわないように命じられて――あるいは教育されて――いるのだ。 大人の言うことには『 Non !』ばかり言いたがるフランスの子供たちのことを思い起こし、ヒョウガは少々 切ない気分になったのである。 もちろん、共和国フランスにも、確とした身分制度はある。 そこには、有産階級に属する者と無産階級に属する者、富者と貧者、そして、支配者と被支配者がいた。 だが、共和国フランスには貴族はいない。 そのフランスが支配する この国には、しかし貴族制度があるのだと、ヒョウガは思ったのである。 宗主国フランスからやってきたフランス人が貴族、昔からこの地に暮らしてきた者たちが平民。 上から与えられた自由と平等ではなく、市民自らが勝ち取った自由と平等を誇りにしているフランス人たちが、他国では 貴族として君臨しているのだ。 ヒョウガは、その状況を ひどい矛盾だと思わないわけにはいかなかった。 その平民であるシュンが、貴族であるヒョウガに尋ねてくる。 「下がれというのは ご命令ですか」 「なに?」 「あの……やはり、僕がお気に召さなかったのでしょうか」 「何を言っている」 「僕は何でもします。ここで僕が旦那様に追い返されてしまったら、罰を受けるのは僕だけではないんです。僕の先生たちまでが罰を受けることになります。僕に お気に召さないところがあるのでしたら、すぐに直します。どうか僕をここに置いてください」 どう考えても、シュンが言っている『ここ』というのは この館のことではなく、この部屋のことである。 「おまえはいったい何を言っているんだ」 シュンの美しいフランス語の意味が理解できないことに戸惑いながら、ヒョウガはシュンを問い質した。 そうして、ヒョウガは、シュンから とんでもない話を聞くことになってしまったのである。 |