自分と そのスリーピング・ディクショナリーが特別な仲になっていないことを いずれ誰かに見破られた時のことを危惧して、ヒョウガは その際の言い訳を考えたりもしていたのだが、それは全くの杞憂に終わった。
領事館に起居している使用人たちはもちろん、聞き苦しいフランス語を話す 例の管理人も、総領事も、本国から この地に来ているフランス人、この地に生まれ育った者たち――要するに、すべての人間が、ヒョウガとシュンの親密を疑うことをしなかったのだ。

フランス人はよほど好色な国民と思われているらしいと、当初 ヒョウガは 彼等の思い込みに 内心で苦笑していたのである。
もっとも、まもなくヒョウガは、人々が二人の親密さを疑わないのは、ヒョウガが好色なフランス人と見なされているからではなく、自分の主人を見詰める際のシュンの眼差しのせいだと気付くことになったのだが。
人格高潔な主人を見詰めるシュンの敬愛の眼差しが、二人の事情を知らない者たちには、初めての男に身体だけでなく心まで奪われてしまった 幼い恋人の恋する眼差しであるように映るらしい。
そんなシュンを見詰め返すヒョウガの眼差しは、シュンの魅力に かろうじて身体だけは抵抗できている男のそれ。
二人の仲が清らかなままだと疑えという方が無理な話なのかもしれなかった。

噂はどうあれ、二人は潔白なままだったし、シュンは 人格高潔な“ヒョウガ”のために非常に熱心に職務に励んでくれた。
たまにまわってくる報告書に目を通したら、特に重大な陳情があがってくることでもない限り、のんびり過ごそうと考えていたヒョウガに、シュンは熱心に農場の視察を勧め、時には シュン自身が考えた改善策を提示することさえした。
『農園経営に問題なし。収穫量は例年通り』という報告書しか提出されない農園は、実際に見てみると、これを悲惨と言わずして何を悲惨と言うのかと問い返したくなるような様相を呈していた。

大規模農園で働く農民たちは、木と漆喰で建てられた古ぼけた長屋のようなところに、かなりの高密度で押し込められていた。
住居、衣類、食事はどれも衛生的とは お世辞にも言えず、事実 病人も多くいた。
死亡した農民の代わりは奥地から いくらでも調達・・できたので労働力不足になることはなく、それゆえ問題にされないだけのことだったのである。

フランスやロシアとは違って、なにしろ常夏。
栽培しているものは栄養価の高い豆類とあって、さすがに凍死者や餓死者が出ることはないようだったが、栄養の偏りが農民たちの健康と意欲を著しく殺いでいる。
休日を与える規則がないのも問題。
賞罰のルールが明確でないために、上手く怠けた者ほど得をする状況も問題。
5、6歳の子供が農作業に駆り出されているのも問題。
『問題なし』の報告書とは裏腹に、現場には問題以外の何も存在しなかった。

問題を根本から解決するには、やはり教育が必要に思われた。
そもそも農民たちは、自分たちが不衛生な環境の中に置かれているという自覚がなく、何が不衛生なのかも わかっていない状態なのだ。
病人は増える一方、しかし、医学の知識を持つ医者は皆無、まじないで病を追い払おうとするありさま。
悪質な伝染病が流行ったら、農場で働く農民が数日で全滅ということもありえないことではなかった。
目的意識もなく、ただ白人に通じた監督官たちの仕置きへの恐怖だけで農作業を行なっているため、作業効率も悪い。
農園経営には全くの素人であるヒョウガでも思いつくような簡単な工夫さえ、現場を誰よりよく知る当事者たちが気付いていない。
彼等には知識が――教育が――決定的に欠如していた。
そして、意欲と休息が。

即座に教育の仕組みを整えることは容易なことではなかったので、ヒョウガはまず彼等の中にある不公平感の撤廃を試みてみたのである。
性別、年齢、体力等で農民を分類し、それぞれに一日の作業目標を設定する。
目標分の作業を完了したら、その日はもう働かなくてもいいことにした。
「黒人たちは、物事を理解する頭がないですから、そんなことをしても何も変わりませんよ」
と、これまで農園の労働環境の改善など考えたこともなかったらしい総領事は ヒョウガに助言(?)してくれたが、そこはシュンが上手く根回しをしてくれた。
シュンは、
「決められた分の仕事を手早く済ませれば、そのあとは、恋人と語らうのでも、家族と過ごすのでも、自分の家の仕事を片付けるのでも、もちろん寝転がって過ごすのでも、何でも好きに時間を使っていいの。手際よく作業を終えれば、半日遊んで暮らすこともできるようになるでしょう」
というように、仕事を効率的に済ませることの有益を、農民たちが暮らす すべての集落に赴いて、噛み砕くように説明・宣伝してくれたのである。

その成果は素晴らしいものだった。
一日の作業目標は、決して目標設定前の作業量より少ないものではなかったのだが、彼等の仕事は極めて迅速に進み、空いた時間で住居の整備や家族の世話ができるようになったため、ゴミ溜め同然だった彼等の住居も少しずつ良い方向に変わっていったのである。
恋人や家族と過ごす時間を作るため、彼等は様々な工夫を考案し実行した。
仕事の遅い仲間に助言する者や協力する者も現われた。
農園で働く農民たちには、確かに学習能力と知能があった。






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