できることなら、今すぐ叔父の許に飛んで行き、これはいったいどういうことなのかと 彼を問い詰めたかったのである。
それが不可能なことだったので、ヒョウガはその手紙をのせいで生じた興奮をシュンにぶつけることになった。

「なぜ、あの叔父が」
「あの変化を嫌う堅物が」
「植民地のことになんか興味もなさそうだったのに」
あまりに突然で、完全に想定外のことに驚き、興奮し、最初 ヒョウガは、順序立てて彼の叔父のしたことをシュンに説明することができなかったのである。
ヒョウガが鬱憤晴らしに書いた手紙を受け取ってから、叔父が そんな法案を思いついたはずはなかった。
もしそうなのだとしたら、彼は たった1日かそこいらで法案を練り上げ、議会に提出できる形に整えたことになる。
どれほど有能な政治家でも官僚でも それは不可能なことで、その事実を考慮すると、ヒョウガの叔父は以前から その法案の草稿を温めていたのだ。
そうとしか考えられなかった。

「植民地改善法案……ヒョウガの叔父様が? いったいなぜ……」
ヒョウガの説明――というより、ヒョウガに見せられた彼の叔父の手紙で、ヒョウガの興奮の理由を理解することになったシュンが、狐につままれたような顔で 独り言のように呟く。
あいにくヒョウガは、その呟きに返す答えを持っていなかった。
「それは俺にも わからん。叔父は、これまで 植民地経営に興味があるような素振りを見せたことはなかったし、残念ながら、彼は身内の憤りに心を動かされ 私情で そんなことをするような男でもない。本国に 植民地の現状が正確に伝わっているとも思えないし……」
「否決……されるでしょうね」
「なに?」

自分以上に、叔父の快挙を喜び興奮してくれるだろうと思っていたシュンの唇から、ひどく冷静な言葉が漏れ出てくる。
ヒョウガの興奮は、シュンのその一言で、嘘のように冷め、やがて消え去ることになった。
シュンが、少し気まずそうな様子で、その瞼を伏せる。
「だって……植民地の現状をどう改善したって、それは宗主国の得にはならないんだもの。宗主国が植民地に期待しているのは、最小の投資で最大の利益をあげることでしょう。宗主国にとっては、現状が最善の状態なんです……」
「……」

それは確かに シュンの言う通りだった。
植民地の環境改善や そこで働く労働者の待遇改善のために投資すれば 今以上の利益が確約される――というのでもない限り、白人だけで構成されているフランス議会が その法案を採択するわけがないのだ。
支配される側、搾取される側に身を置く人間であるがゆえに、シュンは この事態を手放しで喜ぶことができないでいる。
まるで希望を持つことを恐れているように冷静なシュンの判断が、ヒョウガは悲しかった。

「諦めるな。そうなったら――もし叔父の法案が否決されることになったら、その時には俺が叔父の意思を継ぐ。植民地の変革は必要なことなんだ。長期的な目で見れば、それはフランスの益にもなる。俺が必ず、おまえの人権を獲得してやる。いや、取り戻してやる。それは、おまえに――すべての人間に与えられた当然の権利なんだからな」
「ヒョウガは僕を人間と認めてくれるの」
「当たりまえだ。おまえまで何を言っている」
「……」

シュンが切なげな目をして――もしかしたら、シュンは、ヒョウガの楽観をこそ 切なく思っているのかもしれなかった――ヒョウガを見詰めてくる。
「……ごめんなさい。ヒョウガを信じていないわけではないの。ただ、それはとても困難なことだろうと思うだけで」
「困難でも……!」
困難でも、それは成し遂げられなければならないことだと断言しかけ、だが、結局 ヒョウガはその言葉を喉の奥に押しやることになった。
あまり楽観的に浮かれすぎると、それは一層 シュンの心を切なく・・・しかねない。
今 シュンに必要なものは、地に足のついた冷静な希望だった。
大きすぎ 急激すぎる希望を持ち、その希望が打ち砕かれることを、今 シュンは恐れている――。

「もし……いつになるかは わからないが、もし、おまえの故国が おまえの思い描く通りの国になったら――おまえとおまえの同胞が宗主国の者と同じ権利を約束され、誰にも虐げられることなく、一個の人間としての尊厳を持って生きていけるようになったら――おまえは俺を愛してくれるか? いや、俺におまえを愛する権利を与えてくれるか?」
「ヒョウガ……」
シュンの希望はヒョウガの希望でもあった。
シュンが希望を持てるようになれば、その状況は ヒョウガにも希望を運んでくる。
だからこそ――ヒョウガは、シュンに希望を持っていてほしかった。

希望を希求している宗主国の人間の姿を、シュンが、その澄んだ瞳に映し出す。
その瞳にヒョウガの姿を閉じ込めたまま、シュンは小さな声でヒョウガに問うてきた。
「それは いったい いつになるの」
「……わからん」
そんな不確かな答えをしか与えることのできない悔しさ、己れの無力。
空しく短い答えを呟き、その唇をきつく噛みしめたヒョウガの前で、シュンが小さく首を横に振る。
「いつになるかわからないものを待つことはできません」
「そうか……そうだろうな……」

シュンの答えは、至極当然のもの。
力ない声で呟き、ヒョウガは一度 固く その目を閉じた。
希望を手に入れたくて告げた言葉が、逆に失望を運んでくる。
確かに安易に希望を持つことは危険な行為だと、ヒョウガは苦い気持ちで思ったのである。
そして、そう思った直後だっただけに、
「待てないから、今 愛してください」
というシュンの言葉が、ヒョウガには、希望どころか奇蹟のように感じられた。
否、ヒョウガは、シュンに告げられた その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

シュンを支配している傲慢な白人は、シュンに ささやかな希望を与えることさえできないでいるというのに、シュンは いつ実現できるかわからない希望どころか、現実のものになった奇蹟を、口先ばかりの白人の前に差し出してみせる。
それは、ヒョウガには すぐには信じられないほどの僥倖、幸運。
不平等この上ない幸運だった。
自分には その幸運を受け取る権利があるのだろうかと、ヒョウガは(一応)迷おうとしたのである。
だが、ヒョウガがその作業に取りかかる前に、彼の腕と手は、あろうことかシュンの身体を抱きしめてしまっていた。

「シュン……!」
優しく 小さく 温かいシュンの身体。
一度 抱きしめてしまったら、ヒョウガはもうシュンを離せなくなっていた。
一層 強く抱きしめ、唇で その髪の感触を味わう。
自分の腕の中にいるシュンの身体が小刻みに震えていることに ヒョウガが気付いたのは、彼が シュンの唇に自分の唇を重ねようとした時。
安易に希望を持つことの危険を学んだばかりだったヒョウガは、慌てて冷静さを取り戻し、他の誰でもないシュン自身のために、シュンに尋ねていったのである。

「なぜ震えているんだ。おまえは、職務で、俺に身体を任せようとしているんじゃないだろうな」
「そんなこと……。職務なら――ヒョウガに会う前から覚悟はできてたよ。恐がったりなんかしない。ヒョウガが好きだから……ちょっと恐いの」
小さくて か細いシュンの声。
それが いつもの正確な文法と正確な発音でできた意見や報告ではなく、震え頼りない声でできた不安の訴えだったので、シュンが自身の心を偽ってはいないことを、ヒョウガは信じることができたのである。
ほっと安堵の息を洩らしてから、
「恐くなどない」
と、シュンの耳許に囁く。
安易安直な発言は良い結果を生まないということを学習したばかりだったヒョウガは、その囁きのあとに、
「多分」
という、用心深い一言を付け加えた。






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