一晩 考えても、氷河は“朝の数時間だけでも叶えば嬉しい願い”というものを思いつくことはできなかった。
氷河が欲しいものは、瞬と瞬の心なのである。
そして、それは、朝の数時間だけ手に入れて満足できるようなものではないのだ。

結局どんな願い事も思いつけなかった氷河は、翌日、瞬を朝顔の鉢の前に連れていった。
朝顔は、今日もピンク色の小さな花を一つだけつけていて、その花と同じ色のワンピースを身につけた朝顔の精が、その花の陰から顔を覗かせている。
その小さな姿を横目で確かめてから、氷河は瞬に尋ねたのである。
「瞬。おまえ、今日の朝の数時間だけ願いが叶うとしたら、どんなことを願う?」
と。

「今日の――朝の数時間だけ?」
氷河の質問の意図を量りかねたのだろう。
瞬は首をかしげて、氷河の顔を見上げてきた。
「数時間だけだ。だが、どんな願いでも叶う」
「……」
瞬は、それを話のための話と思ったようだった。
しばし考え込んでから、夏の青空を見上げ、笑顔で時間限定の願い事を告げてくる。
それは、氷河には思いつけない、ごくごくささやかな願い事だった。
今日の朝の数時間と限れば 魔法に頼らなければ叶えられないが、その時間制限さえなければ普通に人間の力で容易に叶えられるような。
瞬は、
「そうだね。今日も暑くなりそうだから……シベリアに行きたいな。シベリアの海が見たい」
と言ってきたのだ。

氷河は、瞬のその願い事を聞いて、内心で低く唸ってしまったのである。
『願い事を叶えてやる』と言われたら、瞬は地上の平和でも願うのかと 氷河は思っていた。
しかし、願いの叶う時間が ほんの数時間となると、そんな願いを願っても無意味と、瞬はわかっているらしい。
たった数時間しか叶わない願いとわかっているというのに、“いちばん欲しいもの”を願ってしまった自分が愚かだったのだと、今になって氷河は気付いたのだった。

「瞬の願いを叶えろ」
花の陰に隠れている朝顔の精に、瞬の願いが自分の願いだということを知らせる。
次の瞬間、瞬と氷河はシベリアにいた。
「ええっ !? 」
突然、周囲の気温が10度は下がり、しかも目の前に広がる北の夏の海。
瞬は幾度も瞬きを繰り返し、それから、驚嘆の眼差しを氷河に向けてきた。
「ど……どうして?」
「事情はあとで ゆっくり説明する。ここにいられるのは せいぜい3、4時間だからな」
「あ、朝の数時間だけって言ってたね」
「そう。これは そういう魔法なんだ」
「数時間だけの魔法? 素敵。わあ、人が誰もいない。この季節に、日本の海なら考えられないね!」

瞬が魔法を信じる人間でよかったと、氷河は心の底から思ったのである。
朝顔の精の魔法の力で生じた この状況を、瞬は恐るべき順応性で受け入れ、履いていた靴を脱ぎ捨てると、頬を上気させて波と戯れ始めた。
「氷河、水、冷たい!」
「この季節でも、ここの海の水温は10度もない。整備された海水浴場とは違うから、怪我をしないように気をつけろ」
「自然のままの海はアンドロメダ島で慣れてるよ。クラゲがいない分、この海は安全!」
聖闘士になって日本に帰国してから、そういえば海で遊ぶなどということを、アテナの聖闘士たちはしたことがなかった。
瞬はすっかり この魔法が気に入ったらしく、クラゲの代わりに浜に流れ着いてくる長い昆布や奇妙な形の流木を拾いあげては歓声をあげている。
楽しそうな瞬の笑顔を眺めながら、氷河は、自分の力で成し遂げるのではなく他人に叶えてもらう望みなど この程度のものでいいのだと、反省の気持ち混じりに思ったのだった。

初めて朝顔の精の力を有効に使うことができた瞬の望み。
それは魔法の時間が終わっても全く空しさを覚えない望みだった。
実際、自分と氷河とシベリアの浜に置いたはずの自分の靴が いつのまにか暑い日本の夏の中に戻ったあとにも、瞬の瞳は輝いたままだったのである。

「氷河ってば、すごい! どうしてこんなことができるようになったの?」
「それは朝顔の精に――」
瞳を輝かせたままの瞬に尋ねられ、氷河は一瞬 真実を瞬に告げることをためらったのである。
正直に『これは朝顔の精の魔法だ』と答えたら、普通は狂人扱いそれることになるだろうと、氷河は 極めて常識的なことを極めて常識的に懸念した。
が、瞬は氷河が口の端にのぼらせた片言を聞き逃さず、興味津々といった目をして氷河の顔を覗き込んでくる。
その澄んだ瞳は、瞬がメルヘンを信じる人間だということを如実に物語っていて、氷河の懸念が杞憂にすぎないことを彼に知らせるものだった。
だから、氷河は正直に真実を告げたのである。
この奇蹟は、朝顔の精の魔法の力によって起こるものだと。

「朝顔の精? どこ? どこにいるの?」
「どこって、そこにいるじゃないか」
氷河が鉢植えの、ついさっき萎んだばかりの花の横の蔓の上を指差す。
しかし、瞬は、氷河の指の先の蔓を見詰めながら首をかしげるばかり。
どうやら朝顔の精の姿は、瞬には見えていないようだった。
こんなメルヘンな存在が、自分には見えているのに、瞬には見えないということが、氷河には信じられなかったのである。
妖精や小人といった類のものは、純真な心を持った子供にだけ見えるものと、相場が決まっている。
だというのに、“地上で最も清らか”という神のお墨付きを持つ瞬に、その姿が見えないとは。
これは、自分が瞬より子供だということなのかと、氷河は大いに落ち込むことになったのである。
同時に、瞬に自分の話を信じてもらえないことを恐れ、逆にまた、自分に妖精の姿が見えないことで瞬が傷付くことを、氷河は恐れた。

もっとも、瞬は、そのどちらの反応も示さずに、
「氷河は特別なんだね、きっと」
と、得心したように微笑しただけだったが。
そして、瞬は、
「でもどうして氷河の願いを叶えてもらわないの? 氷河にだって、叶えたい願い事はたくさんあるでしょう?」
と尋ねてきた。
まさか 願い事が思いつかなかったのだと、本当のことを言うわけにもいかなかった氷河は、咄嗟に、
「いや、おまえの喜ぶ顔が見たくて」
と答えて、事実を隠蔽したのである。

「え」
瞬が、氷河のその返答に一瞬 瞳を見開き、やがて ぽっと頬を上気させて瞼を伏せる。
それから瞬は、朝顔の精の声よりも小さな声で、はにかむように、
「ありがとう」
と、氷河に礼を言ってきた。
氷河は、想定外の展開にどぎまぎし、そして少々 胸をときめかせることになったのである。
「花が咲いている間しか 願いは叶えられないんだが、明日も何か願いがあったら言ってくれ」
「うん……でも……氷河は本当に それでいいの? 氷河の願い事はないの?」
「だから、おまえの喜ぶ顔を見るのが、俺の望みだと言ったろう」
「氷河……」

瞬の頬が ますます朱の色を濃くする。
氷河を見詰める瞬の瞳の中には、氷河が これまで見たことのない熱と輝きが生まれ始めていて、瞬のあからさまな(しかし無言の)好意に、氷河は感動さえしてしまったのである。
なにより瞬の瞳の中にある好意が朝顔の精の力で無理矢理植えつけられたものではないことが、氷河の胸を熱くした。
少しばかり想定していたものとは違う道を辿ることになったが、朝顔の精の力で 氷河の願いは叶いつつある。
瞬の好意が感じられるようになったことは、朝顔の精に対する氷河の気持ちを大きく変化させた。

「おまえ、なかなか使えるじゃないか」
瞬が恥ずかしそうに どこか駆けていき、朝顔の精と二人きりで残されたテラスで、氷河は上機嫌で朝顔の精に声をかけた。
それから彼は、今日生まれた新たな謎の答えを彼女に尋ねてみたのである。

「それにしても、おまえは なぜ瞬には見えないんだ? 俺なんかより、瞬の方がよっぽど 妖精なんて非現実的なものを見ることのできる目を持っているような気がするんだが」
「私にもわからないわ。私、どうして自分が生まれたのかもわからないんだもの。本当のことを言うと、いつ生まれたのかも憶えてない。多分、最初の花が咲いたときだったんだと思うんだけど……。とにかく、気がついたら、あなたが目の前にいて、私を引っこ抜いてやるって 怒鳴ってたの」
「――」
多くの植物は――もちろん朝顔も――種から生まれる。
当然 彼等には彼等を育ててくれる親はいない。
そんな“子供”が生まれて最初に出会ったものが、凶悪な顔をして『こんな花、引っこ抜いてやる』と怒鳴る人間だったのである。
この小さな妖精を、自分はどれほど驚かせ、怯えさせたのか。
氷河は、今になって、朝顔の精に対する自分の振舞いを反省することになったのだった。

「ああ、悪かった。おまえを引っこ抜くのはやめる。おまえの魔法を瞬が喜んでくれたからな。おまえのおかげだ。俺も嬉しい」
「ほんと !? 」
氷河の言葉に安堵したのか、朝顔の精が 明日咲くのだろう小さな蕾の上で嬉しそうに ぽんぽん跳ねる。
それで調子づいたというわけでもないのだろうが、朝顔は翌日から次から次に花を咲かせた。
そして、そのたび氷河の(=瞬の)願いを叶えてくれたのである。
朝顔の精の力を体験した瞬の願い事は、二度目から微妙に変化していったが。






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