翌朝、氷河は、瞬と一緒に朝顔の精の許に向かった。 瞬には見えない朝顔の精。 だが、瞬も今日は昨日までとは何かが違うと察しているようだった。 氷河が告げた、 「今日は俺の願いを願う」 という言葉に、瞬は理由も聞かずに無言で頷いた。 瞬が氷河を置いてきぼりにして買ってきた朝顔の最後の花。 ピンク色の小さな花は、健気で可憐で、どこか頼りない。 最初に咲いた花もそうだった。 小さく、頼りなく――氷河は、瞬が その頼りなさに同情して この鉢植えを選んだのではないかと疑ったのだった。 だが、小さく頼りない その花が 他のどんな花より強く優しい花なのだということを、今では氷河は知っていた。 「あなたの最後の願いは?」 小さなピンク色の妖精が、静かな笑みをたたえて 氷河に尋ねてくる。 昨夜一晩考えて、他に思いつけなかった最後の願いを、氷河は朝顔の精に告げた。 「おまえの願いが叶うように」 「え」 「何かあるだろう。空を飛びたいとか、どこか こことは違う世界を見てみたいとか、人間のサイズになって 人間のすることをしてみたいとか。どんな小さな願い事でもいいんだ。誰かのための願いじゃなく、おまえ自身の願いを叶えろ」 「私の願い……?」 朝顔の精は、氷河の願いに驚いたようだった。 氷河は朝顔の精に、『誰かのための願い事ではなく、自分自身の願いを叶えろ』と言ったが、それは つまり、氷河自身の願いではなく、他人の願いが叶うことを願うこと。 自分の願いが 矛盾でできていることに氷河は気付いていた。 だが、それは、本当に氷河自身の願いだったのだ。 おそらく朝顔の精は その矛盾に気付き、そして微笑した。 「きっと どんな花でもそうなのだと思うけど、私の願いは、私を見た人が 私を綺麗だと思ってくれて、そして、優しい気持ちになってくれることよ。それで短い間だけでも幸せになってくれれば、私はとても嬉しいの。そして――」 花を見た者が その花を綺麗だと思い、幸せになること。 それが“おまえ自身の願い”なのかと、それは“おまえ自身の願い”と言っていいものなのかと、氷河は朝顔の精に問いたかった――瞬に問いたかった。 瞬に改めて聞くまでもなく、答えは わかっていたのだが。 「そして?」 「そして、咲いてくれてありがとうって言ってもらえたら、私は生まれてきてよかったと心から思えるわ、きっと」 そんなささやかな報いしか求めない健気な花を、『俺の気分を害した』などという詰まらぬ理由で、氷河は引っこ抜いてやると脅したのである。 朝顔の精の力を知ってからは、日々の願いを叶えることに夢中になり、ゆっくりと花の姿を眺めたこともなかった。 だから――それが彼女の ただ一つの願いなのなら、いつまでもその姿を見詰めていてやろうと、氷河は思ったのである。 彼女が咲かせた最後の花を見詰め、彼女に告げる。 「おまえは綺麗だ。俺や瞬やガキ共を幸せにしてくれた。ありがとう」 「嬉しい。ねえ、私、瞬を好きなあなたを いつも羨ましいと思っていたのよ。そんなふうに大切にしたい人がいるって、どんな気持ちなんだろうって、いつも思っていた。あなたに会えてよかった。本当に いい夏だったわ。ありがとう」 私の願いは叶ったと、私は幸せだったと告げる朝顔の精の上で、太陽は中天を目指して少しずつ動いていた。 朝の気配が薄れていくにつれ、朝顔の精の姿が少しずつ透明になっていくのがわかる。 やがて最後の花が萎み――朝顔の精の姿は、いくら目を凝らしても見ることができなくなった。 「おい」 声をかけても答えは返ってこない。 それで氷河は、朝顔の精が その生を終えたことを――その つらい事実を知ったのだった。 氷河が、きつく唇を噛みしめる。 その様子を見て、それまで何時間も無言で朝顔の花を見詰めている氷河を 黙って見詰めていた瞬が、気遣わしげに その名を呼んできた。 「氷河……」 「最後の花が萎れてしまった。今日が最後だったんだ」 「そう……。やっぱり、これが最後の花だったの……」 瞬はやはり、今日がどういう日なのかを察していたらしい。 氷河に その事実を知らされても、瞬は あまり驚いた様子を見せなかった。 代わりに、この日がくることを10年も前から覚悟していたような声で、 「……花って――ううん、命って そういうものだから」 と、独り言を呟くように言った。 瞬の その言葉を、消沈している仲間を慰めるためなのだとしても冷たい言葉だと、氷河は思ったのである。 消えていった朝顔の精同様、瞬は花の心で生きているから、そう思ってしまうことができるのかもしれない。 だが、氷河は、人間の心で生きている人間だった。 「こいつは、こいつを見た人間が こいつを綺麗だと思って、優しい気持ちになってくれたら、それが自分の幸せだと言っていた。人のために咲いて、自分のことは何も望まず 死んでいくなんて、こいつは本当にそれでよかったのか?」 言葉にはせず、『おまえは本当にそれでいいのか?』と、瞬に問う。 瞬は、ただの一瞬も迷った様子を見せず、すぐに小さく頷いた。 「命って そういうものでしょう。誰だってそうだよ。僕だって、僕のしたことで 誰かが生き延びて 幸せになってくれたら、それが僕の命の意味だと思える」 『誰だってそう』と、事もなげに言い切ってしまう瞬に、氷河は心から賛同することはできなかった。 瞬が そう断言できるのは、瞬が花の心で生きているからにすぎないとも思った。 だが、もはや 氷河は瞬に頷くことしかできなかったのである。 瞬の心を変えることは、おそらく 誰にもできないだろう。 「……そうか。それが おまえの願いで、おまえの幸せなのなら――そうだな。そういう花のような生き方もあるだろう」 「僕は、僕より氷河の方が花のようだと思うけど」 「なに?」 いったい それはどういう発想なのか。 自分は花の美徳を持ち合わせていないという自覚があった氷河は、その言葉に面食らった。 瞬の誤解を解くべく 口を開きかけた氷河を、瞬が 本当に花を見ているような目で見詰めてくる。 その眼差しに、氷河が言おうとした言葉は遮られてしまった。 「種をとっておいて、来年 植えたら、また綺麗な花を咲かせてくれるかな」 「もう一度 あいつに会えたら、おまえは綺麗だと 毎日言ってやるのに――」 自分は いつのまにか生まれたと、朝顔の精は言っていた。 自分が種だった時のことも、その種を生んだ花のことも憶えていないようだった。 花の精というものは――花の命というものは、そういうものなのだろう。 「その時には、あいつは もう違う花になっていて、俺のことなど憶えていないんだろうな」 「それはどうかわからないけど――この花の精の姿が、氷河には見えて 僕に見えなかったのは、この花の精が氷河を好きだったからなんじゃないのかな」 「――」 本当に、どうしてそんな突飛なことを、瞬は思いつくのか。 氷河は慌てて、そして確信に満ちて、瞬の推察を否定した。 「それはない。この花に出会って俺が最初に言ったセリフは、『こんな花、引っこ抜いてやる』だったんだぞ。その上、最初に俺がこの花に願った願いは、『瞬が俺を好きになるようにしろ』だった」 「え」 懺悔を兼ねた氷河の告白に、瞬が大きく瞳を見開く。 笑われるのか、怒られるのか、逃げられるのか――。 告白してから覚悟を決めた氷河に、瞬は、氷河が想定した どの反応も示すことはなかった。 瞬は ただ 微かに目許に笑みを刻んで、 「来年、一緒に種を植えようね」 と言っただけだった。 「一緒に? 俺と?」 「そうしたら、とっても綺麗な花が咲くような気がするんだ」 そう告げる瞬の眼差しは ひどく優しく温かく、だが、氷河は その優しさや温かさの意味するところがわからなかった――量りかねた。 まっすぐに、自分を見上げ見詰めてくる眼差しに、どぎまぎすることしか、氷河はできずにいた。 そんな氷河の許に、どこからか、 『瞬は あなたのことを好きだと言ってるのよ。早く、瞬の手をとって!』 という、ピンク色の花の精の声が響いてくる。 多分、それは空耳だったのだろう。 あるいは、氷河と瞬の胸に残っている 朝顔の精の心が告げた言葉だった。 花の命や花の心は、彼女が その姿を失ったあとも、そんなふうに 彼女が幸せにした者たちの心に残り、受け継がれていくものなのかもしれない。 その声に背中を押されるように、氷河は瞬に手を差しのべたのである。 二人の手が触れ合った時、ピンクの朝顔が最初に咲かせた花がつけた種が数粒、二人の足元に 弾けるように零れ落ちた。 Fin.
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