アテナイの王は弟に甘い兄らしく――というより、弟に逆らえない兄のようだった。
瞬に人払いを求められると、即座にすべての兵を陣幕の外に追い出し、二人分の椅子を求められると、弟とその連れのために、王自ら 二脚の椅子を引きずってきた。
そういうわけで、氷河は、兵の姿のなくなった広い陣屋の中央で、瞬とアテナイの王と 膝を突き合わせて、アテナイの王の弟が“地上で最も清らかな魂を持つ者”としてギリシャの人々の前に登場することになった経緯を聞くことになったのだった。

「僕と兄が両親を失ったのは、今から6年前のことです。僕がもう少しで10歳になる頃だった。アテナイは大国だし、軍事力も強大だけど、領土や人口が多いと防衛は難しい。すべての土地に強力な軍を置くことは無理だし、アテナイの国境はいつも 領地領民を掠め取ろうとする略奪者侵略者に脅かされていた。そんなアテナイの王の最大にして唯一の仕事は、長い国境線をあちこち転戦し、領土と領民を守るための戦いをすることなの。その戦いの中で父は亡くなり、母も悲しみで後を追うように亡くなった。父は滅多に母の許に帰ってこれなかったし、母は寂しさには慣れていたんだけど、待っていれば帰ってきてくれると思えば寂しいことにも耐えていられたのに、待つこと自体ができなくなってしまったら、耐える力が尽きてしまったんでしょう。僕と兄に、ごめんなさいと何度も言いながら、母は死んでいった」

では、瞬は、父のみならず母までをも、争いのせいで失ったことになる。
アテナイほどの大国、圧倒的な軍事力を持つ国の、しかも王家の者でも、戦乱が生み出す悲しみの外にいることはできないのだ。
略奪者の暴力から我が子を守るために死んでいった母の姿を思い出し、氷河はきつく拳を握りしめた。
母にとって、子にとって、どちらの母の死が より不幸な死なのか。
考えるまでもなく、どちらも悲しく不幸なことだった。

「父が亡くなると、アテナイを守る仕事は兄の仕事になった。それまでは いつも僕の側にいてくれた兄さんが、年に一度数日間だけ城に戻ってこれればいいような状態になって、僕はずっと寂しい思いをしていた。でも、それはアテナイとアテナイの民を守るためなんだからって自分に言いきかせて我慢していたんだ。なのに、ある日、兄が陣内で暗殺者に襲われたという知らせがきて――幸い 賊はすぐに取り押さえられて、兄も無事だったんだけど、その話を聞いて、僕は思ったんだ。いつか僕は 両親に続き兄までを失うことになるんじゃないだろうかって。そうなったら、僕も母のように死んでしかないだろうって。僕は――両親を失った時と同じ悲しみはもう味わいたくなかったし、一人になるのは恐かった。だから、神殿に行って祈ったの。アテナイに、ギリシャに、平和をくださいって。僕みたいな子供を生まない世界をくださいって。そうしたら、アテナが現われて、僕はアテナによって、オリュンポス山の神殿に運ばれたの」

祈ったら、神が現われた。
何ということもない事実のように瞬は言うが、それは氷河には十分に驚くべきことだった。
祈れば神が現われて何らかの力を示してくれるというのなら、俺は百万回でも神に祈っていただろうにと、氷河は思ったのである。
神は何もしてくれない、人間が招いた乱世は人間が人間の手でどうにかするしかないのだと決めつけて、氷河は神殿に足を踏み入れたことなど、これまで一度もなかった。
少なくとも、神に祈り すがるためには。
氷河のその考えは、ある意味では誤りで、ある意味では正しいもののようだった。

「アテナは、神々の総意で僕をあの神殿に運んだのだと言ったよ。そして、神々の力で手に入れた平和は真の平和ではない。平和っていうのは、人間が人間の手で実現するものでなければ無意味だと言った。でも、今のままではギリシャから争いはなくならず、いつかはすべての人間が死に絶えてしまう。それは神にとっても不都合なことで、だから、機会を与えるって。平和を願う僕の祈りに免じて、神の力ではなく、神の威光だけを貸す。それをどう活かすかは僕次第。アテナは、これは神々の賭けなのだとも言った。そして、僕は、神々に認められた“地上で最も清らかな魂を持つ者”として、あの神殿に立ったの」
「おまえはなぜ……すぐ山を下りて兄の許に行かなかったんだ。アテナイの武力と神の威光。アテナイなら、その二つを用いてギリシャを統一することも容易にできただろうに、なぜ 俺のものになった――」
アテナイの王子なら、そうするのが自然で当然の行動のはずである。
神に与えられた力を持って、故国に帰ることが。

だが、瞬は、アテナイの王子である前に、ギリシャの不幸な子供の一人だったらしい。
瞬は、氷河に、縦にとも横にともなく首を振ってみせた。
「何度か そうしようと思ったよ。でも、神々がそのつもりだったのなら、神々は僕をあの神殿に運ぶようなことはしなかったろうと思ったの。僕を元の場所に戻していただろうって。僕があの神殿に運ばれたのは、僕が誰かと出会うことを期待してのことなんだろうと。神々が望んでいるのは、アテナイの平和や隆盛ではなく、ギリシャ世界全体の平和なんだから、きっと そうなんだろうと思った。それは もちろん、もし兄が来てくれたら、僕は兄と共にアテナイに帰るつもりだった。でも、待っていたら、兄より先に氷河が来たの」

「俺はアテナイの都に戻って、おまえを捜していたんだ……!」
苛立った口調で、瞬の兄が口を挟んでくる。
アテナイの王には、ギリシャ全土を支配できるかもしれない力を手に入れることより、弟の身の安否を確かめることの方が より重要なことだったのだろう。
彼には、ギリシャを争いのない平和な世界にすることより、弟の方が大事だった。
おそらく彼の戦いは 彼の国と肉親を守るためのもので、ギリシャの平和などというものは、彼には二の次三の次の問題だったのだ。
幸せな男、幸せな王、幸せな兄だと、氷河は思った。

「僕は……それまで、氷河みたいな考えを持っていなかったの。きっと、アテナイみたいに大きな国の王子に生まれたせいで。僕は、戦って――戦って勝つことでしか、国と民を守ることはできないのだと思っていた。でも、どれほど懸命に戦っても、何度侵略者たちを倒し勝利しても、そのために父が死んでも、母が死んでも、もしかしたら兄さんが死んでも……この世界から戦いがなくなることはないんじゃないかっていう予感があって、だから僕は いつも空しい気持ちでいっぱいだった。戦うのではなく自分を犠牲にすることで平和を手に入れられるなんて、そんなことを僕に言ったのは、氷河が初めてで、氷河だけだった。誰もが、戦い続け勝ち続けることでしか、大切なものを守り切れないし、生き延びることもできないって思ってる。倒される前に倒さなきゃならない、殺される前に殺さなきゃならないって思ってる。氷河だけが 別の道を示してくれたんだ。戦って勝ち続ける以外の道を。だから、僕は氷河を選んだの」

「それは単に――俺には、戦い続け、勝ち続けるだけの力がないと わかっていたからだ。俺がアテナイくらい大きな国の王だったら、俺だって そんな考えは抱かなかったかもしれない。俺や俺の仲間たちは、もともと戦いで肉親を失った、虐げられる側の人間だったから――」
それは、“地上で最も清らかな魂の持ち主”に選ばれる理由になるほど 美しく価値ある考え方ではないと、むしろ負け犬の考え方なのだと、言いたくはなかったのだが、氷河は瞬に告げた。
瞬に買い被られるのは嬉しいことだが、それでギリシャの平和が成らなかったとしたら、それは全く氷河の望むところではなかったのだ。

「そうだったの? でも、それは、僕には――そして、多分ギリシャの多くの人々には考えつかない道だった……」
氷河が全く価値を置いていない考え。
だが、瞬は、そうは思わなかったらしい。
今も、そう思ってはいないらしい。
まるで この世に二つとない宝石のような心が宿っている人間でも見詰めるような目で、瞬は氷河を見詰めてきた。
嬉しくないことはないのだが――どう考えても、瞬は瞬の目の前にいる男を買い被っている――買い被りすぎている。
瞬の その眼差しを受けて、氷河は、気まずさと、気恥ずかしさと、気後れで、背中にむず痒いものを感じることになったのだった。

「それに――僕に そう言ってくれた氷河の瞳は とても綺麗で――綺麗で、悲しそうで、寂しそうで――僕は氷河から離れたくないって思ったの。氷河の綺麗な目をずっと見ていたいって思ったの。氷河と一緒に行くことに迷いはなかった。アテナは――神々は、神々が僕に与えた立場を どう活かすかは僕の好きにしていいと言っていたし、僕は氷河が好きになっていたから」
「お……おまえが俺を好き? まさか……」
瞬がアテナイの王の弟だと知らされた時より、氷河は瞬のその言葉に驚いた。
否、驚くというより、あまりの思いがけなさに、氷河は驚くことも忘れて ぽかんとした。
瞬が、そんな氷河を切なげに見詰めてくる。

「やっぱり知っていてくれなかったの……。毎晩一緒に眠っていたのに、そんなことにも気付いてくれないなんて、ひどい……」
傷付いたような声で瞬に責められ、氷河は慌ててしまったのである。
慌てすぎて――瞬の兄がそこにいることを、氷河は忘れた。
瞬の兄が、弟の告白に顔面を引きつらせていることに、氷河は気付かなかった。

「し……しかしだな! 俺は、おまえに出会って、一瞬でおまえの瞳に恋をして、自分がおまえを好きだということしか考えられなくなったんだ。自分の気持ちの相手をするので手一杯で――。おまけに、俺は、愛情ではなく 平和の実現のために自分の心を犠牲にして、おまえを俺のものにするんだなんてことを言ってしまったし、そんな俺がおまえに愛してもらえるなんて、到底考えられなかった。おまえを俺のものにしてから、実は会った時から おまえを好きだったんだと告白しても、とても信じてはもらえないだろうと思ったから……だから、俺は言えなかったんだ。おまえに、何も」

言えるものなら、言ってしまいたかったのである。
だが、その事実を瞬に知らせてしまったら、氷河が瞬を手に入れるために用いた理屈と建前が嘘だったということになってしまう。
事実を瞬に知らせれば、自分は瞬に卑劣な嘘つきと憎まれ軽蔑されることになるだろう。
そう思わないわけにはいかなかったから、そう思われることを恐れて、氷河は沈黙を守ることしかできなかったのだ。
だが、瞬は、氷河が言わずにいたことに、とうの昔に気付いてしまっていたようだった。

「氷河が“地上で最も清らかな魂を持つ者”を自分のものにするのって、一度だけでよかったんだよ。そうでしょう? なにも毎晩毎晩 律儀に僕を抱きしめてくれなくてもよかったの。なのに、氷河はそうしてくれた。氷河は少なくとも僕を嫌っていないんだって思った僕は うぬぼれがすぎるかな」
「そ……んなことはないが……いや、断じてない」

まさか、そんなことで心を見透かされていようとは。
とはいえ、ここで『おまえの身体を一度でも知ってしまったら、大抵の男は また抱きたいと思わずにはいられないだろう』と、本当のことを言ってしまうわけにもいかない。
そして、確かに瞬の言う通り、氷河は瞬を毎晩抱いてやる義務を負ってはいなかった。
知ってほしいことと 知られたくないことが胸中で ないまぜになり、氷河の舌は瞬の前で少々 もつれることになってしまったのである。

「弟が随分と世話になったようだな」
最愛の弟の可愛らしくも大胆な告白と、氷河のしどろもどろ。
それで二人の事情と実情の おおよそのところを かなり正確に察したらしい瞬の兄が、ふいに二人の間に割り込み、冷たく憎々しげな目で氷河を睥睨してくる。
「あ、いや、それほど大した世話は――」
氷河の返事はかなり間が抜けていたかもしれない――否、完全に間が抜けていた。
だが、氷河には他に答えようがなかったのだ。
『毎晩、ご賢弟のお世話になったのは、むしろこちらの方で――』と、礼儀正しく謝意を告げたところで、瞬の兄の不快と憤りが静まることはなさそうに見えたから。

「できることなら、貴様を殺してやりたいが」
その気持ちは、氷河にもわかった。
痛いほど わかる。
おそらくは 弟を無傷で取り戻すためだけに5万もの兵を動かしてのけるほど、兄は弟を大切に思っていたのだ。
その最愛の弟を、神々が“地上で最も清らかな魂の持ち主”の肩書きを与えるほど清浄無垢だった弟を、どこの馬の骨とも知れない成り上がりの小国の領主に汚されてしまったのである。
瞬の兄のはらわたが煮えくり返っていたとしても、それは当然のこと、むしろ冷静でいられる方がおかしいとさえ、兄から弟を奪った当の氷河でも思った。

「そうして、俺が瞬を連れてアテナイに帰れば、俺がギリシャの覇者だ」
「……」
瞬の兄の言う通りだった。
そうなることを覚悟して 氷河は ここに来たし、今では 瞬の兄になら、そうする権利があると――彼だけに、“地上で最も清らかな魂の持ち主”に選ばれた男の命を奪う権利があると――氷河は思っていた。
アテナイの王の陣屋に赴く決意をした時に決めた覚悟とは違う覚悟を――アテナイの王に殺される覚悟ではなく、瞬の兄に殺される覚悟を――氷河は、自身の胸に刻んでいたのである。
そんな氷河の上に降ってきたのは、しかし、鋭い剣の切っ先ではなく、
「だが、瞬のために耐えよう」
という、瞬の兄の言葉だった。

「兄さん、ありがとう!」
兄なら必ず そう言ってくれると信じていたように嬉しそうに瞬が兄の首にしがみついていき、まるで小さな子供のように兄の膝に乗ってくる弟を、瞬の兄が抱きとめる。
兄弟の そんな姿を眺めながら、血のつながった実の弟よりも 赤の他人の自分の方が、今は瞬の兄の真情を理解できているに違いないと、氷河は思ったのだった。
神にも認められる清らかさを持った最愛の弟。
その弟を汚し、兄から奪った男など八つ裂きにしても飽き足りないと、瞬の兄は 本心では思っている。
だが、彼は そうすることができないのだ。
弟を愛しているから。
愛する者を傷付け 悲しませるようなことはできないから。

もしかしたら、平和というものは、こういうふうにして形成されるものなのかもしれないと、氷河は思うともなく思ったのである。
命を、心を、一生を捧げるなどという大上段に構えた大仰な犠牲ではなく、愛する者に一粒の涙を流させないために憎しみを抑えることで、平和というものは築かれるものなのかもしれないと。
瞬の兄は、愛する弟のために、いっそ見事といっていいほど鮮やかに、そういう犠牲を払ってみせたのだった。


ギリシャ最大の国アテナイが、“地上で最も清らかな魂の持ち主”に選ばれた男と組んだという情報は、瞬く間にギリシャのすべての国に伝わった。
天上の神の威と、地上の力の結合。
無形精神的な脅威と、有形感覚的な脅威。
その二つに迫られて、ギリシャの国々は さすがに心底から恐れをなしたらしい。
今は目立つ動きをするのは得策ではないと考えた彼等は、即座にすべての争いを中断し、新たな争いを控えるようになった。
少なくとも、自分から他者に争いを仕掛けていくことはしなくなった。

最初は、それは 恐怖と脅威に抑えつけられての我慢だったかもしれない。
だが、人間というものは、慣れる生き物、そして、学習する生き物である。
彼等はやがて、争いのない平穏な日々に慣れ、同時に、平和の中にあった方が国は栄えるという事実に気付くことになったのである。
人間の あらゆる営みは平和の中で為された方が効率的であり、有益だということに、彼等は気付いた。
農業、工業、商業等の すべての産業、そして、幸せになるための努力。
すべての営みが、平和な世界で為された方が報われやすいということを、彼等は学習したのである。

知ってしまったことは忘れ難いもの。
まして、それが自分に有益で、自分に利をもたらすことであれば。
そうして、戦乱のギリシャは、徐々に平和による繁栄の時代に移行していったのだった。


誰の犠牲がギリシャの平和に最も大きく貢献したのかがわかっていたので、氷河は、全く そりが合わない瞬の兄に、それでも一応 敬意を払い続けた。
事あるごとに投げつれられてくる皮肉にも嫌がらせにも、懸命に耐え抜いた。
なにしろ 自分が瞬の兄と争いを始めてしまったら、瞬が泣く――瞬を悲しませることになってしまうのである。
瞬を悲しませるような事態だけは、氷河は何があっても絶対に避けなければならなかったのだ。
たとえ瞬の兄に『色狂いの無能男』と ののしられても、たとえ会食の席で わざと脚の長さの違う椅子を与えられても、たとえ その椅子が 結局氷河の体重に耐えかねて倒壊し 無様に床に尻餅をつくことになっても、氷河はにこやかに笑って その苦難に耐えなければならなかったし、実際 彼は耐え抜いたのである。
平和とは、そういうふうにして築かれるものなのだと、怒りと屈辱に燃える自らの心を 繰り返し なだめながら。






Fin.






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