ヒョウガが彼の妻となった王女と初めて顔を合わせたのは、誓約書による結婚が成立してから10日後。サン・ルーの領地に向かってパリを発つ日の朝だった。
人目を避けるため 夜が明けるか明けないかのうちに、それまで住んでいた館を出てきたのだろう。
彼女は男装した姿を 更に、フードつきの長いマントで覆っていた。
ヒョウガの叔父の執務室に通されて初めて、そのフードを外す。
不幸な王女は、ヒョウガの叔父に彼女の夫を紹介されると、ヒョウガの前に深く腰を折り、頭を下げた。

「シュンと申します。よろしくお願いいたします」
白い麻のシャツに、薄茶色のチョッキ。
髪も、男子のように黒いリボンで一つにまとめているだけ。
一見したところ、その姿は、貴族の家に仕えている使い走りの少年といったところだった。
物腰は、服装に似つかわしくなく、宮廷で身分ある者に小姓として仕えている貴族の子弟なみに品を備えていたが。
丁寧な挨拶のあと、使用人の少年に身をやつした王女が ゆっくりと顔をあげる。

そうして。
王女の顔を初めてまともに正面から見て、ヒョウガは仰天してしまったのである。
白い結婚を人に疑われることのない醜女。
そう信じていた王女――ヒョウガの妻は、実に とんでもないほどの美少女だったのだ。
ドレスや宝石を身につけていなくても――むしろ身につけていないからこそ、その清楚、その可憐が際立っている。
ヒョウガは自分の迂闊に、その段になってやっと気付いた。

ヒョウガは、権力者が――それも 一国の王が――自分の愛人に醜い女性を選ぶはずがないという、考えるまでもないことを考えていなかったのである。
女嫌いの国王が心を動かされただけあって、王女の母親は かなりの美女だったのだろう。
もしかしたら、あまり女性的ではない、中性的な。
たとえば、狩猟の女神か戦いの女神のように野生的な趣のある美女、あるいは、自然そのままの谷間の白百合のような美女。
いずれにしても、王女の母親が 宮廷の脂粉にまみれた貴婦人たちとは次元の違う美しさを持った女性だったことには疑念を挟む余地がない。
王女は――ヒョウガの妻は、美しかった。
彼女は、春という季節が あらゆる祝福を与え尽くして生んだ白い花のように、清楚で優しく可憐な姿と澄んだ瞳を持っていた。

「こ……こんな美少女とは聞いていなかったぞ……!」
「ほう。美少女なのはわかるのか。おまえの目には、義姉上以外の女性は皆、カボチャに見えているのだと思っていた」
震える声で呻いたヒョウガに、彼の叔父が愉快そうな揶揄を返してくる。
叔父の無責任な態度に、ヒョウガは腹立ちを覚え始めていた。
「叔父上! 俺は確かに重度のマザコンだが、健康な成人男子なんだぞ。こんな美少女と夫婦として暮らすなんて、危険極まりないことだとは思わないのか! 不自然だ! こんな綺麗な妻と白い結婚なんて――」
「ああ、その点は大丈夫。いや、私はおまえの自制心と騎士道精神を信じているぞ、ヒョウガ」
騎士道の華と謳われたランスロット卿も、主君アーサーを裏切り、王妃グィネビアと過ちを犯したではないか。
そんなに安易に甥の騎士道精神を信じられてしまうのは、ヒョウガには大迷惑なことだった。

美しいということ以外、母にはどこにも似たところはないというのに、王女は どうしようもなくヒョウガの好みだった。
というより、王女は、春という季節が誰からも望まれ愛されるように、いかにも優しく、いかにも無垢な様子をしていた。
世の中には、春の野に咲く可憐で小さな花の健気さに気付く男と気付かない男がいるだろう。
王女は決して派手な存在感のある少女ではなかった。
だが、気付いてしまったら、人は その清楚な佇まいを愛さずにはいられないだろう。
そして、ヒョウガは気付く男――気付いてしまう男だったのである。

「あの……本当にすみません。ご迷惑をおかけします。でも――」
ヒョウガの顔が引きつるのを認めて、王女は自分がヒョウガを不快にしてしまったのだと思ったらしい。
心苦しそうな目で、王女はヒョウガを見上げてきた。
「で……でも?」
「でも、どうか いいお友だちになってください」
「……!」
いったい王女は、叔父は、国王は、神は、何を考えて、一介の哀れなマザコンの健康な成人男子に これほど過酷な試練を課すのか。
美しかった母の切ない思い出に浸りながら過ごす、静かで平穏な日々。
ヒョウガが胸中に思い描いていた未来図は、時ならぬ春の嵐の到来によって崩壊しかけていた。






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