新しい衣服と書籍を持ったアヴリーヌ伯爵が 前触れもなくサン・ルーの城にやってきたのは、バラデュール侯爵夫妻がパリを離れて1ヶ月が経った頃。
二人が、城の庭で剣の練習をしていた時だった。
荷物を積んだ馬車が庭に入ってきたことにも気付かないほど、彼等は その遊戯に夢中で、馬車から降りた途端に来客を歓迎してくれた剣と剣がぶつかり合う音に、アヴリーヌ伯爵はぎょっとして目を剥いてしまったのである。
仮にも王女、仮にも人妻が、嬉々として剣を振るい、しかも かなりの腕前になっていることに、彼は驚き呆れないわけにはいかなかった。
そして、シュンが、パリの館に閉じこもっていた頃とは別人のように溌剌としていることに。

「叔父上」
叔父の来訪に気付いたヒョウガが、剣でシュンの剣を止める。
その視線の先を辿り、そこにいる人の姿を認めると、シュンは ぱっと瞳を輝かせた。
「アヴリーヌ伯!」
思ってもいなかった場面を見せられたヒョウガの叔父は、その時 決して笑ってはいなかったのである。
むしろ、難しい顔をしていた。
剣を振るい合う領主夫妻を、城中の召使いたちはどう思っているのか。
まかり間違って、フランス国王の血を引く者が怪我を負ってしまったらどうするのか。
ヒョウガの叔父は、甥の軽率を叱るつもりでいた。
が、瞳を輝かせたシュンに――否、全身と その周囲の空気までを輝かせているようなシュンに 嬉しそうに駆け寄られてきてしまったアヴリーヌ伯爵は、それで、ヒョウガを叱る気は失せてしまったのである。
ここで甥の軽率を責めてしまったら、この明るい笑顔を曇らせることになるだろう。
アヴリーヌ伯爵は そう考えた――そう思わないわけにはいかなかった。

「いったい いつから練習を始めたのです。まるで4、5年は鍛錬を積んだ者のように お上手です」
「2週間前から。ヒョウガは、僕は飲み込みが早いって褒めてくれました」
「そのようです。驚きました」
アヴリーヌ伯爵の その言葉に、シュンが、まるで“おあずけ”の命令を守り通して飼い主に褒められた子犬のように嬉しそうな顔になる。
そんなシュンを目を細めて見詰め、頷いてから、王子の後見人は彼の甥の上に視線を移した。

「やはり、ばれたか」
「当たりまえだ。いくら見た目が少女以外の何ものでなくても、正真正銘の男子を王女で通そうなんて無理がありすぎる」
「そうだな。で?」
「まあ、美形の弟ができたと思えば――シュンは素直で、気が利いて、控えめないい子だし。シュン、客間にお茶の用意をするよう命じてきてくれ」
「はい」
シュンを妻として遇するわけにもいかず、王子として対峙することもできず、ヒョウガはシュンに対して、弟か年下の友人に対する態度で接していた。
兄か目上の友人に対するように、シュンがヒョウガに素直な返事を返してくる。

甥とフランス王国の王子の間で、そんなやりとりが ごく自然に行なわれていることを喜べばいいのか、嘆けばいいのかがわからない。
そんな複雑そうな顔で 叔父が自分たちを見詰めていることに、ヒョウガは気付いていた。
だが、ヒョウガは、叔父のために、王子に仕える忠臣の振りをしてみせるわけにはいかなかったのである。
シュンがそんなことを自分に望んでいないことを知っていたから。
叔父の望みとシュンの望み。
その二つのどちらを優先させたいかといえば、それはシュンの望みの方だったから。

「ああ、シュン、叔父上は――」
「ガレットとマカロンですね」
「そうだ。よく知ってるな」
「僕のパリの館に、いつもお土産で持ってきてくださったの」
「自分が食うために?」
そうだと認めることは ヒョウガの叔父の立場を悪くすることと思ったのか、シュンはヒョウガのその言葉に頷くことをしなかった。
ただ 楽しそうに笑って、シュンは軽快な足取りで城中に向かって駆け出した。

「驚くほど明るくなられた。よかった」
城の入口に向かうシュンの後ろ姿を見やり、王子の陰の後見人が 心から嬉しそうに呟く。
そうしてから、彼は、フランス王室の忠臣の顔になって、小声でヒョウガに注意を促してきた。
「もしかしたらフランス国王になるかもしれない お方だ。お怪我などさせぬよう、お守りしてくれ」
「……」
やはり叔父は その可能性を考えているらしい。
叔父のその言葉を、ヒョウガは不快な思いで聞き、受けとめることになった。

「それを狙ってるのか? 不遇の時に王子に恩を売っておいて、国王になった時、あわよくば――」
「そういう下心がないわけではないが――守ってさしあげたいのだ。あの美しさ、聡明、優しさ、そして、王室の血。本来なら 殿下は、誰からも愛され、大切に守られ、宮廷の中心で華やかに輝いているはずの お方なんだ。だというのに、殿下は 父君である国王陛下にはほとんど会うこともできず、母君はとうに亡く、王妃の目を気にして 長い間 パリの町に罪人のようにひっそりと隠れ暮らしていた。そんな境遇で、殿下は――殿下が あれほど素直で優しい心の持ち主に育ってくださったのは奇蹟なんだ。私は殿下に幸せになってほしい」
「……」

叔父の言葉に嘘はないのだろうとは思う。
だが、叔父が思い描くシュンの幸福と、シュン自身が夢見る幸福は、必ずしも同じものではない。
ヒョウガは、そんな気がしてならなかった。
「シュンは……フランス国王になることなど望んでいないと思う。国家の血の正統を守りたいという叔父上の気持ちはわかるが、シュンは――シュンが望んでいるのは――」
シュンが王位などというものを望んでいないことは、アヴリーヌ伯爵も わかっているようだった。
だが、国王の血を引く王子が他にいない今、現国王の血を未来につなごうと思ったら、シュンに王位に就いてもらうしかないのだ。

「王妃は今、30代半ば。これから王子を産む可能性も皆無とは言えないしな」
たとえば摂政の地位、たとえば宰相の地位を、彼に与えることのできるシュンが 望まぬ王位に就かずに済むのなら、それにこしたことはない。
アヴリーヌ伯爵は そう考えているようだった。
彼が望んでいるのは、あくまでもブルボン王家の血の正統が守られることであって、彼自身の栄達ではない。
だが、であればこそ――叔父が俗な欲を持っていないからこそ、事は面倒なのだと、ヒョウガは思った。

フランス国王の子として生まれてしまったせいで、心のまま自由に生きることがシュンには許されない。
それはわかっていたのだが――わかっているからこそ そんな現実に反発して、ヒョウガはシュンに 可能な限りの自由を与え、シュンが望むことはどんなことでも叶えてやった。
もっとも、シュンが望むことといえば、ヒョウガと遠乗りに出たい、ヒョウガに剣の手合わせをしてもらいたい、ヒョウガと川遊びをしてみたい、ヒョウガと葡萄摘みをしてみたい――そんな ささやかなことばかりだったのだが。

そんな ささやかな望みを口にすることすら、城内の者たちや領民の目を気にして――そんなことを妻に許してしまったヒョウガが彼等にどう思われるのかを気にして――シュンはいつも遠慮がちだった。
ヒョウガ自身は 人目というものを全く気にしていなかったし、驚くほど短期間で剣術や馬術を身につけ上達していくシュンを見ているのが楽しく、川遊びや葡萄摘みに明るい歓声をあげるシュンの姿を見ているのが嬉しかったので、シュンの遠慮は全く不要のものと思っていたのだが。

パリに、宮廷に 戻りさえしなければ、このサン・ルーの領地にいさえすれば、シュンと自分は自由でいられる――幸せでいられる。
ここにいる限り、二人の自由と幸せは守られる。
ヒョウガがそんなふうに思い始めていた頃、その事件は起こった。






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