それがシベリアなら、星矢たちも納得がいったのである。 シベリアの海には 氷河の母が眠っており、シベリアの大地には、氷河が母と暮らしていた頃の思い出が――氷河が幸せな子供でいられた頃の思い出が――ある。 聖闘士になるための修行を積んでいた頃に世話になったコホーテク村の人々もいるだろう。 だが、氷河が時間ができるたびに向かうのは、北は北でも北欧アスガルド。 聖域支配を目論んだドルバル教主が その拠点としていたワルハラ宮周辺だったのだ。 そこで氷河は、一時的にとはいえ アテナの聖闘士としての記憶を奪われ、ドルバルの神闘士ミッドガルドとして、かつての仲間たちに拳を向けた。 その地に何か未練でもあるかのように 幾度も北に向かう氷河を奇異に思うなという方が無理な話だったのだ。 「おまえさー。明日からまた北欧に行くんだって? あんなとこ行って、何になるんだよ。あそこはもうワルハラ宮だってないんだろ」 氷河がアスガルドに赴くこと自体より、アスガルドに向かう理由を仲間たちに語ってくれない氷河に苛立ちを覚えた星矢が、彼にしては さりげなく氷河を問い質したのは、星の子学園の花壇でヒマワリとコスモスが並んでさくようになった季節。 氷河のアスガルド詣でが始まってから半年が過ぎた頃だった。 「ドルバルは、あの付近一帯に かなりの支配力を及ぼしていた。居城がなくなっても 残党がいるんじゃないかと思ってな」 深く考えなければ 十分にもっともらしく聞こえる氷河の答えを、 「いないだろ」 星矢は あっさり切って捨てた。 星矢はもちろん、何らかの根拠があって その可能性を否定したわけではない。 それは、いわゆる 聖闘士の直感、あるいは、生き延びる術に長けた野生動物の本能に連動した勘のようなもの。 論理的な裏づけは全くない。 だが、星矢の その野生の勘が外れたことがないというのもまた、厳然たる事実だった。 とはいえ、勘に導き出された結論に対して、人はどんな反論も賛同も与えることはできない。 そんな時、人は、信じるか信じないかを選択することしかできないのだ。 氷河は 後者を選んだようだった。 おそらくは、星矢が勘によって得た答えを 信じられないからではなく、信じたくないから。 が、自分の選択結果をわざわざ星矢に報告する必要はないと思ったらしく、氷河が星矢に返したのは沈黙でできた答えだけだった。 氷河を沈黙させることしかできなかった星矢に代わって、紫龍が、今度は理屈で 氷河の行動の無意味を説き始める。 「俺も おまえの心配は杞憂にすぎないと思うぞ。ドルバルは典型的な独裁者だった。自分一人が絶対的な権力を握り、有能な腹心もいなかった。神闘士たちは戦いのための駒にすぎなかったし、その神闘士たちも全滅した。ドルバルに忠誠を誓った者たちが生き残っていたとしても、彼等には何もできないだろう。あの国は、ドルバルのカリスマで成り立っていた国だったからな。そのカリスマがいなくなったら、組織としてはもちろん 集団として存在することすらできない」 「……」 紫龍の(星矢のそれに比べれば)極めて論理的な意見に対しても 氷河が沈黙だけを返してきたのは、どう考えても、氷河が龍座の聖闘士の考えを正しいものと思っているから。 アスガルドの勢力の復活など ありえないことを知っているからのようだった。 結局、紫龍に対する反駁の言葉が 氷河の口から発せられることはなかった。 代わりに彼は別の理由――おそらく、たった今 即席で思いついた理由を仲間たちに告げてきたのである。 「 「はあ !? 」 いったい氷河は正気なのか。 自分の発言の撞着に、氷河は本気で気付いていないのか。 星矢と紫龍は、最初に告げた理由と180度違う理由を平気で口にする氷河の神経を疑うことになってしまったのである。 「そんな安心気分なんて、ここにいたって十分堪能できるだろ。俺の優雅な おやつ風景を見学するとか、紫龍の延々と続く糞くだらない薀蓄を拝聴するとか、アテナじゃなくグラード財団総帥として働いてる沙織さんを見てたって、平和気分は味わえる。瞬を眺めてるって手もあるぞ。戦場じゃなく城戸邸にいる瞬なんて、春の野っ原に ちょこんと咲いてるレンゲ草や桜草みたいなもんだし」 「……」 氷河が黙り込むのが気に入らない。 氷河の沈黙を思い切り不快に感じ、そうして星矢は初めて気付いたのだった。 自分が氷河のアスガルド行きに いらいらするのは、氷河が彼の行動の理由を仲間たちに(正直に)打ち明けてくれないからではなかったことに。 そうではなく――もちろん、それもあったが――アスガルド詣でを始めてからの氷河が、瞬を見なくなってしまったからだった。 以前は平時も戦時も瞬の姿を追い、捜し、見詰めていた氷河の目が、最近は全く瞬を見なくなっていた――むしろ、視界に映すことを避けていた――せいだったのだ。 「ユグドラシルって、今はフレアが守役してるんだっけ。もしかして、おまえ、フレアが狙いなのか」 もしそうだったら殴ってやるという気持ちで かまをかけた星矢に、 「違う! 彼女じゃない」 期待通りなのか期待外れなのかの判断に迷う答えが、超高速で返ってくる。 「フレアじゃない――ということは、では、彼女以外の誰かなのか?」 すかさず紫龍が言葉尻を捉えるように問い、氷河が答えに窮する。 そんな可能性があることを考えてもいなかった星矢は、図星を指されて困惑しているようにしか見えない氷河を、顔を真っ赤にして睨みつけることになった。 いつも手と口が先陣を争っているような星矢が、拳も繰り出さず、怒声を響かせることもしないのは、それほど彼が驚き、また怒り心頭に発しているということ。 そんな星矢や紫龍を、嘘の理由ではごまかせないと観念したらしく、氷河はやっと嘘ではない本当の理由を仲間たちに告白する気になったようだった。 もっとも、氷河が語り出した“嘘ではない本当の理由”は、いきり立っている星矢の心を静めるものではなかったのだが。 氷河が仲間たちに告白してきた“嘘ではない本当の理由”は、なにしろ、 「……ミッドガルドでいた時、誰か大切な人がいたような気がするんだ」 というものだったのだ。 例によって理屈ではなく直感で氷河の言わんとするところを正確に感じ取り、憤りで口をぱくぱくさせ始めた星矢の代わりに、紫龍が氷河に念を押す。 「大切な――というのは、特別な好意を抱いた人という意味か?」 それが氷河の肉親であるはずはないし、友人ということもありえないだろう。 ワルハラ宮は、他者と友情を育むには不適切な空気で満ちていたし、なにより ただ一人の絶対者であろうとし 実際にただ一人の絶対者であったドルバルが、自分の下僕たちが個人的に親しくなることを許したとは思えない。 となれば、あの城の内外で氷河が親交を持つことが許される対象は、 そういう人間に対して、ごく短時間で これほどの執着を生み、“大切な人”と思うようになる動機は恋愛感情以外に まず考えられない。 要するに、氷河は、瞬を忘れていた時に、瞬ではない誰かに恋をしたと言っているのだ。 否定できないが、肯定もしにくい。 そういう表情で(つまりは無表情で)答えを返してこない氷河を、紫龍は、こちらはひどく複雑な面持ちで見やることになった。 「俺は、おまえは瞬が好きなのだと思っていたが」 「……俺もそう思っていた。いや、今もそう思っているし、今でも瞬が好きだ。だが、もし、瞬を忘れていた時に、俺が他の誰かと約束を交わしていたのなら、その間の記憶を失ったからといって放っておくことはできないと思う」 「……」 それは、一人の人間として、実に誠意ある態度、誠実な考え方である。 その点を責める気にはなれなかったが、しかし、その誠実が 有益有意義なものであると思うことは、紫龍にはできなかった。 「『ニーベルングの指輪』のジークフリートは、ブリュンヒルデと愛を誓い合っていたのに、忘れ薬を飲まされて彼女のことを忘れ、グートルーネを妻に迎えた。しかし、死の間際、記憶を取り戻した時、ジークフリートが愛していたのは、本来の自分を見失っていた時に妻としていたグートルーネではなく、ブリュンヒルデの方だった。結局、本来の自分が愛していた相手が真実の恋の相手だったということだ。ミッドガルドだった時に懇意にしていた相手と再会できても、ミッドガルドでいた時、おまえは本来のおまえじゃなかったんだから、結局 おまえが選ぶのは瞬だと思うぞ」 舞台も同じ北欧で、今の氷河に示唆を与えるために編まれたような悲劇の英雄譚。 『悲劇の主人公になりたくなかったら、ミッドガルドでいた時のことは忘れろ』という紫龍の忠告の意図が氷河に通じなかったわけではないだろう。 だが、北欧神話最大の英雄ジークフリートが置かれた立場と、氷河が置かれた立場の間には、決定的な相違があったのだ。 「だが、俺は瞬と特段の約束を交わしたわけではない」 「その誰かとは交わしたっていうのかよ!」 やっと何とか発声機能の復活が成った星矢が、妙に歯切れの悪い氷河を怒鳴りつける。 外れぬ野生の勘の持ち主は、敵のみならず味方への攻撃ポイントも無駄に的確に察知できてしまうという不幸な才能に恵まれていた。 そんな才能になど恵まれたくなかったと、星矢は我が身を呪うことになったのである。 言いにくそうな顔をした氷河に、 「……寝たような気がする」 と言われてしまった時には。 「おい……」 衆に優れた攻撃能力のせいで、星矢の顔が情けなく歪む。 星矢の的確な攻撃は、龍座の聖闘士の顔までを渋面にした。 「女の子に そんなことをして放っておくのは無責任だと――」 「女の子なのかよ!」 頼むから もう何も言わないでくれと、星矢は言えるものなら言ってしまいたかったのである。 聞きたくない その言葉を氷河に言わせたのは自分なのだという自覚があったので、星矢は 氷河を黙らせることも、自分の耳をふさぐこともできなかったが。 「瞬が特別なだけで、俺は本来ノーマルだ。瞬でない誰かに好意を持つなら、その相手は普通に女だろう」 「おまえみたいな極度の面食い男が、瞬以外の誰かを好きになるなんて、たとえ女でも ありえねーよ!」 外れたことのない野生の勘が、事実にだけは――事実なのだろう――太刀打ちできない。 それでも星矢は、氷河の告白を否定したかった。 「しかし、あの辺りは――ドルバルの城がなくなった今は 小さな村が一つあるきりだろう。探すのは容易だと思うのだが、なぜおまえは半年もアスガルドに通い詰めなんだ」 「全部探した。それらしい人はいなかった」 氷河は、問題の人物を半年かけても見付け出せずにいるらしい。 全部探して見付けられなかったのだから、そこで諦めればいいものを――と、紫龍は思ったのである。 氷河の不器用と諦めの悪さは知っているつもりだったが、人智を尽くしたあとの人間に いったい何ができるというのか。 それが、紫龍の本音だった。 「フレアではないのか」 「いや、彼女は違う」 「当人が違うと言ったのか?」 「フレアには訊いていない。彼女は俺のタイプじゃない。俺はもっとこう……控え目で、だが強い意思を持っている子に心を動かされるらしい」 「だから、瞬だろ!」 完全にふてくさった顔と声で、星矢が氷河を怒鳴りつける。 星矢の断言に 苦しげに眉根を寄せた氷河は、それ以上 口を開こうとはしなかった。 |