アテナが星矢と紫龍に引っ張られて行き、氷河と瞬だけが残されたラウンジ。
なぜ本当のことを言ってくれなかったのだという氷河の問いかけは、多分に形式的なものだったろう。
氷河は、それを、仲間に罪の意識を持たせまいとする瞬の思い遣りだと思っていたし、氷河がそう思っていることを、瞬は知っていたのだから。
なぜ“本当のこと”を言ってくれなかったのだと問われた瞬は、だから、氷河の誤解を解かなければならなくなってしまったのである。

「僕は――あの時の僕は、あれが氷河じゃないって わかっていたし、逃げた方が氷河のためだとも思っていたの。なのに……逃げようと思えば逃げられたのに逃げずに、僕は氷河にあんなことをさせてしまったの」
「俺に本当のことを言わなかったのは、金輪際 俺に抱かれるのは御免だと思ったせいではないのか?」
「そ……そんなことあるはずがないでしょう!」
できれば永遠に言わずにおきたかったことを、決死の覚悟で告白したというのに、話を ずれた方向に持っていこうとする氷河に、瞬は少なからず戸惑っていた。
瞬は氷河に責めてもらいたかったのである。
“本当のこと”を知られてしまった今、瞬は自分の卑劣と弱さを氷河に責めてもらわないことには、それこそ立つ瀬がなかったのだ。
しかし、氷河は あくまで氷河の話したいことを話し続ける。

「よかった……。この俺がおまえ以外の誰かに目移りするなんて、自分で自分が信じられなくなっていたところだったんだ」
「氷河……」
「本当に よかった……」
心から安堵したように そう言う氷河が、瞬をますます戸惑わせる。
瞬はほとんど慌てて、再度の訴えに及んだ。

「氷河……! でも、僕はあの時、氷河じゃない人に――」
瞬の必死の訴えを、氷河は、しかし、あっさりと切って捨てた。
「ああ、それは仕方がない。おまえは、とんでもない奇蹟を起こすアテナの聖闘士たちの力を知っていたんだから。ミッドガルドは どう考えてもアテナの聖闘士に倒される。へたをすれば、俺はアテナの聖闘士に戻ることなく命を落とす。俺がおまえに不埒な真似をした時が、俺たちが二人でいられる最後の時かもしれなかったんだ。おまえが俺を好きでいてくれたのなら、おまえの選択は 悲しいほど妥当だ」
「……」
“本当のこと”を知らされて、氷河はすべてが わかってしまったらしい。
瞬がアテナの聖闘士たちの強さを信じていたことも、アテナの聖闘士でなくなった白鳥座の聖闘士の弱さを信じていたことも。
仲間の侮りにプライドを傷付けられ憤るものと思っていた氷河は、だが、笑って言葉を継いできた。

「いっそのこと、実はおまえは面食いだったということにしてもいいぞ。ミッドガルドは俺の顔をしていたんだろう? 実はおまえは面食いだったんだ。あの一輝を慕っているから、皆誤解しているだけで」
「氷河……こんな時に冗談は――」
冗談で、幾つもの罪や嘘を隠蔽し糊塗するのはやめてくれと、瞬は氷河に訴えようとした。
氷河が、つらそうな目で、瞬の訴えを遮る。
氷河は冗談を言っているつもりはなかったのだ。
否、氷河は ほとんど命がけで、自分の人生をかけて、その冗談を口にしていた。

「瞬、俺を不幸な男にしたくなかったら、余計なことは言わないでくれ。俺を嫌いになったんじゃない、今も俺に触れられるのは嫌だとは思っていないとだけ、言ってくれ」
切羽詰まった氷河の声と表情が、氷河に責められることで楽になろうとしていた瞬の心を冷静にする。
一度 きつく唇を噛みしめてから、瞬は、氷河と自分自身の これからのために、切なく首を横に振った。

「金輪際 嫌だなんて思ったわけじゃないよ」
「もう一度 俺と寝てもいいと思ったか」
「……思いました」
「そうか!」
瞬の賢明な判断と決意に、今度こそ本当に安堵したのか、氷河が瞬を抱きしめてくる。
氷河に抱きしめられるのは、これが二度目。
その心と身体に氷の塊りを抱え込んでいるようだったミッドガルドとは違って、氷河の腕と胸は温かかった。
熱っぽいといってもいい。
腕や胸だけでなく、唇も声も言葉も何もかも、氷河は熱かった。

「おまえは何も悪くない。おまえが つらかったこともわかっている。おまえに ひどいことをしたのは俺の方だ。俺がドルバルの手に落ちさえしなければ、俺とミッドガルドは おまえを傷付けることもなかった。許してくれ」
「氷河……そんなことは――本当に悪いのは――」
「許してくれ」
氷河が再度 瞬の言葉を遮る。
それで、瞬は、氷河が求めているのは罪のありかを明確にすることではなく、二人が犯した罪を並べ立てることでもなく、二人が互いを許し許されることなのだと知ったのだった。

「僕は許されてしまっていいの」
「おまえは俺の罪と弱さを許し、俺にも許されるべきだ。そうして、自分と他人の罪を許さない潔癖な人間でいることをやめて、俺のために汚れてくれ。多分……それが 人が大人になるということだ」
「汚れて……大人に?」
「そう、汚れて大人に。おまえにそう言ってしまうことができなくて――俺のために人の弱さや汚れを許せる人間になってくれとは言えなくて、俺はこれまでずっと おまえに好きだと言うことができずにいたんだ」
「僕、氷河に好きって言ってもらうためになら……!」

氷河の胸の中で、ふいに瞬が その全身に力を込める。
「氷河に好きって言ってもらうためになら、僕、何だってするよ!」
瞬が平生の瞬らしくなく力んで そう言い切ることを意外に思い、氷河は僅かに自分の腕の力を緩めて、瞬の顔を覗き込んだ。
「おまえは 俺にそう言ってほしかったのか? そんなに?」
「当たりまえだよ! 清らかだの清楚だのって言われるより、好きって言われる方がずっと嬉しいもの!」
「……そういうものか?」
「そういうものだよ。だって、氷河がそう言ってくれたら、僕だって、何の遠慮もなく 氷河に大好きって言えるでしょ」
「確かに、嬉しい――が……」
二人が二人で過ごす これからの時間のために、瞬は瞬なりに必死で 慣れぬ冗談を言ってくれているのだと 氷河は思い、瞬に笑い返した。
だが、瞬の瞳があまりに明るすぎて――どんな小さな翳りもなく明るすぎるので、氷河は、それが瞬の懸命の冗談ではなく、瞬の本気の本心なのではないかという気がしてきたのである。

「瞬、おまえ、もちろん――」
「え?」
『もちろん冗談で言っているんだな?』と尋ねようとして、氷河はその言葉を呑み込んだ。
そんなことを確認しても どうなるものでもないと、氷河は思い直したのである。
人は、こんなふうにして、人と自分の弱さと罪を許し 許され、そして騙し 騙されながら大人になっていくのだ。
一途に、ただ幸せになるために。






Fin.






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