その夜、氷河が仮の自室として使っている客用寝室に 思いがけない客の来訪があった。
「大事な話があるの。僕の部屋に来てくれない?」
その客が、いつかどこかで聞いたことのあるセリフを、ドアの前で告げてくる。
否やを言わせぬ硬い感触に抗することができず、氷河は瞬の言葉に従った。
そこで、氷河は、更に、問題の、運命の、宿命の、 あの言葉を、瞬に言われてしまったのである。
自分のベッドを指差した瞬に、
「そこに座って」
と。
氷河の常識を、今では瞬も知っているはずだった。
だが(あるいは、だからこそ)、氷河は瞬のベッドに腰をおろすのを躊躇してしまったのである。
自分が瞬を押し倒すのはいいが、自分が瞬に押し倒されることは御免被りたいという、非常に重大な、あるいは非常に瑣末な理由のせいで。

部屋の主の指示に従わず、かといって他の椅子に座るでもなく その場に突っ立ったままの氷河に、瞬が催促するように尋ねてくる。
「どうかした?」
「あ、いや……」
「座るの? 座らないの?」
「……」
瞬の表情は硬く強張っていて、氷河は、そこから瞬の意図を読み取ることはできなかった。
とはいえ、いつまでも阿呆のように瞬の部屋の真ん中に突っ立っているわけにもいかず、氷河は恐る恐る自分の要望を瞬に訴えてみたのである。

「俺は、おまえを……その……押し倒したいんだ。押し倒される方は できれば避けたい。その……イメージの問題もあるし」
「イメージ? 氷河は、そんなことで勝手に僕の役割を決めるの? どうして僕が、氷河から一方的に手渡された脚本に従って、氷河が勝手に決めた役を演じなきゃならないの?」
「……」
瞬の主張は 至極尤も。
氷河は、どんな反駁の言葉も 瞬に返すことはできなかった。

「ベッドに座ったらOKだの、イメージがどうだのって、そんなあやふやなことで僕をどうこうしようなんて、氷河は そんな自分を横暴だとは思わないの?」
「……」
本音を言えば、『思っていなかった』が、氷河の答えだった。
たった今、瞬に糾弾されるまで、氷河は、自分が横暴だとか自分勝手だとか、そんなことは考えてもいなかったのである。

「そんなに押し倒されるのが嫌なのか」
「あたりまえです!」
瞬から即答が返ってくる。
いかに その外見が少女めいていると言っても、瞬は真っ当に生育した男子。
それは至って自然かつ当然の答えだった。
確かに自分は横暴で自分勝手な男だったのだと、氷河は 事ここに至って初めて、そして心から 思うことになったのである。
瞬が怒るのは当たりまえ。瞬には その権利があると、氷河は思った。
「そうか……そうだな」
呟くように言って 踵を返しかけ――だが、このまま この場を離れるのは卑怯なことだと、氷河は思い直したのである
氷河が瞬の方に向き直ると、そこには、横暴で自分勝手な男を見詰める瞬の澄んだ瞳があった。
争い事を厭い、人を傷付けることを恐れる優しい心根が そのまま表われているような瞬の少女めいた面立ち、表情。
氷河は、決して瞬の面差しが少女めいているからに恋した訳ではなかった。
しかし、瞬がこういう表情や瞳の持ち主でなかったら、自分は瞬に恋をすることもなかっただろうと思う。
たった今も好きでならない瞬の優しい表情を正面から見おろし、見詰め、氷河は切ない気持ちになった。

「悪かった。俺は……おまえを好きだという気持ちだけで、すべてが許されると 勝手に決めつけていた」
「え……?」
だが、そうではなかったのだ。
瞬には瞬の心があり、考えがあり、感情がある。
そんな考えるまでもないことに、なぜ自分は今まで考え及ばずにいたのか。
氷河は、瞬の“非常識”に立腹していた昨日までの自分が、全く理解できなかった。
そんな氷河に、瞬が急に妙なことを尋ねてくる。

「今、何て?」
「あ?」
「今、なんて言ったの?」
心から真摯に反省し、いっそこのまま瞬の前から自分の姿を消し去ってしまいたいとは思っていたが、謝罪の声のボリュームまで消していたわけではない。
突然 瞬の耳が遠くなったわけでもないだろうにと 訝りつつ、氷河は もう一度 その言葉を繰り返した。
「だから、俺は、おまえを好きだという気持ちだけで、すべてが許されると勝手に決めつけていたと――」
「氷河が僕を好き――って、ほんと?」
「今更、何を言ってるんだ」
「……ほんとにほんと?」
「俺はおまえが好きだ。知っているだろう」

瞬は知っていると思っていたから、氷河は“横暴で自分勝手な”行為に及ぼうとしたのだ。
瞬は、そんなことは とうの昔に知ってしまっている。
そして、自分に対して同じ気持ちを抱いてくれていると思えばこそ。
でなかったら、いかに横暴で自分勝手な氷河とて、『俺のベッドに腰をおろしてくれた』くらいのことで、サシで戦えば6:4の比率で自分が負けると思えるほどの相手を押し倒そうとしたりはしない。
いったい瞬は今更 何を言っているのだと、氷河は戸惑った。
戸惑う氷河の前で、瞬が その瞳から涙を一粒 頬に零す。

「最初にそう言ってもらえてたら、僕、氷河に何されてもよかったの……」
「……なに?」
本当に、それは今更なことである。
朝となく 昼となく 夜となく、暇さえあれば瞬を見詰め、パートナーを得るための求愛給餌にいそしむコアジサシのように、自分は食さないケーキを週1ペースで瞬に運び続けていた男を、瞬は何だと思っていたのか。
瞬はそんなことは とうの昔に知ってくれているものと、氷河は思っていた――決めつけていたのである。

「そんなことは、言わなくてもわかっていると――」
「そうなのかもしれないって思ってはいたけど、でも、そんなの、僕の うぬぼれかもしれないじゃない」
「そんなことがあるわけが――」
『ない』と氷河が言い終える前に、瞬は その顔を伏せてしまっていた。
そして、瞬らしく遠慮がちで控えめな、だが くぐもった声で氷河に告げてくる。
「ご……ごめんなさい……。僕、氷河に 大事な話があるって言われた時、そう言ってもらえるんだと思ったの。僕のことを好きって……。それで、嬉しくて、すごく緊張して、心臓をどきどきさせて 氷河のとこに行ったのに、言ってもらえなくて、がっかりして、悲しくなって――ごめんなさい。自分勝手だったのは、僕の方なの。僕が勝手に期待して、期待を裏切られたからって、一人で怒ってただけなの……」
「……」

脊索動物門・鳥綱・チドリ目・カモメ科コアジサシでも わかるあからさまな求愛行動の意味が、なぜ人間であるおまえにわからないのだと言って瞬を責めることは、さすがの氷河にもできなかった、
へたに言葉などを使えるせいで、人間の求愛行動は 鳥類のそれように単純にはいかないものらしい。
「俺が……最初に はっきり言えばよかったのか」
「……ごめんなさい」
「しかし、言葉なんてものは、いくらでも嘘をつけるものだし、言葉よりは行動で示すのが――」
「それで無言で押し倒される方の身にもなって」
瞬の言い分は至当順当。
氷河は、ここは、瞬の訴えを受け入れ、大人しく自説を引っ込めることしかできなかった。

「言葉を、嘘をつくために使う人もいるでしょう。でも、大抵の人は 真実を語ろうとして言葉を使うんだよ。氷河だって そうでしょう? そうだって信じてたから――氷河は 真実を語るためだけに 言葉を使う人だって信じてたから、僕、氷河に……あの……好きって言ってもらえなかったことが悲しかったの……」
『真実を語るためだけに 言葉を使う人』とは、いくら何でも買いかぶりが過ぎるというものである。
瞬に そう言ってもらえることが嬉しくないわけではなかったのだが、それはさすがに おもはゆい。
おもはゆすぎて、氷河はつい、言わなくてもいいことを言ってしまっていた。

「それは、俺が嘘をつくのがへただということか」
「へたなわけじゃなくて、嘘をつけないの」
「そんなことはないだろう」
「そんなことあるよ。じゃあ、ためしに、僕を大嫌いだって言ってみて」
瞬がまだ少し瞳に涙を残して、だがやっと笑顔になって、氷河に そう告げてくる。
瞬に『言ってみて』と言われた言葉を、氷河は言うことができなかった。
「……言えない。そんなこと、冗談でも言えるものか」
「うん。だから、信じてる」
「ほ……本当に、俺に押し倒されてもいいのか……? 俺に押し倒されてくれるのか?」

馬鹿なことを訊いていると自分でも思ったが、他にどう言えばいいのかがわからない。
氷河同様 言葉を使うことのできる瞬は、だが言葉を使わずに、氷河の常識にのっとって、氷河の質問に答えてくれた。
自分からベッドに座ることで。
だから、氷河も、瞬の流儀にのっとって、言葉で瞬に答えたのである。
「俺は おまえが好きだ」
その言葉を聞くと、瞬は、氷河も面食らうほど嬉しそうな顔になって、まるでそれ・・をせがむように、氷河の背に両の腕を絡めてきたのだった。


使い方を間違えさえしなければ、言葉ほど便利なツールはない。
『瞬、好きだ』と言いさえすれば、瞬は大人しく――むしろ喜んで積極的に、その恋人に押し倒されてくれるのだ。
言葉は 人類の最大最高の発明。
言葉を有効利用しないことは実に愚かな所業だと、翌日 事の顛末を星矢たちに報告し終えた氷河は、得意げに彼等に告げたのである。
「はあ、さいで……」

情けないほど低次元な認識の違いのために生じた対立によって 散々 仲間たちに迷惑をかけたあげくの結論がそれ。
人類の最大最高の発明である言葉を駆使する能力を有する星矢と紫龍は、言葉もなく、ただ 空しく乾いた笑いだけを氷河に返すことになったのだった。






Fin.






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