氷河は、突然 取り乱し始めた瞬の涙を止めることができなかった。 『俺は恋などしていない』と言えば、瞬の涙を止められるだろうことは薄々 察することができたのだが、そんなことを言えば、自分は瞬に嘘をつくことになる。 氷河は結局、オーダーしたお茶に手をつけることもなく、『恋なんかしちゃだめ』『氷河が死んじゃう』を繰り返し言い募る瞬を抱きかかえるようにしてタクシーに押し込み、城戸邸に戻ることになったのである。 幸い、二人を乗せたタクシーが城戸邸に着く頃には、瞬の嗚咽も混乱も少しは――完全にではないにしろ、多少は――落ち着いてくれていた。 「つまり、経緯を整理すると――何を勘違いしたのかは知らないが、瞬は氷河を天使だと思い込んでいた。それぞれの修行地に送られる際、瞬は氷河に好きだと告白された。にもかかわらず、氷河は死ななかった。その結果、瞬は、氷河が自分を『好きだ』と言う時、それは恋ではないのだと信じるに至った。当然、氷河の昨日の告白も オトモダチとしての『好き』だと思い、安心していた。なぜなら、恋をしない限り、氷河は死なないから。――ということでいいのか?」 瞬を落ち着かせがてら紫龍が聞き出した、瞬の混乱の理由。 素面で演じてしまった狂態に恥じ入っているのか、瞬は掛けている椅子の中で小さく身体を縮こまらせ微かに頷いた。 「だというのに、今日になって突然、氷河か誰かに恋をしていることが判明。おまえは大いに取り乱すことになった。氷河が死んでしまうと思ったから。そして、実はおまえは氷河に恋をしていたから」 「僕は――」 紫龍が整理した事実に、彼の推察が混じる。 瞬はその推察を否定しようとしたようだったが、結局 そうするのをやめてしまった。 代わりに深く項垂れて、 「そうです……」 と、蚊が鳴くように小さな声で答える。 そうしてから、瞬は、まるで自分の恋の言い訳をするように、 「だって……氷河に初めて会った時、僕には 氷河にだけ色がついているように見えたんだもの……」 という言葉を付け足した。 「……」 昨日 振られたばかりの相手からの恋の告白。 歓声をあげて喜びたいし、これは、そんなふうに喜んでも誰にも非難されることのない場面だろうとも思う。 だが、氷河には そうすることができなかったのである。 展開があまりに唐突すぎ、その上 支離滅裂で意想外すぎて、氷河は今は ただ、まるで重罪を犯した罪人のように顔を俯かせている瞬を まじまじと見詰めていることしかできなかった。 「そんな映画 観せられたことあったっけ?」 もたもたして一向に次の行動に出ない氷河に苛立ったように、星矢がテーブルの下で氷河の右脚の向こう脛を蹴り、 「悪の化身も正義の味方も出てこない映画だったからな。星矢は上映中ずっと寝ていたんだろう」 早く瞬に何か言葉をかけてやれと せっつくように、テーブルの下で紫龍が氷河の左の足を踏みつける。 仲間たちの手加減のない(足加減のない)友情の鞭を受けて やっと我にかえることができた氷河は、彼等の篤い友情に応えるため、慌てて自分の為すべきことに取りかかったのである。 重ねて星矢と紫龍に蹴られ踏みつけられる事態を避けるべく、掛けていたソファから立ち上がり、項垂れている瞬の前に移動する。 そうして、瞬に向かって右の手を差しのべて、氷河は瞬に二度目の恋の告白をした。 「俺は人間だ。そして、俺はおまえが好きだ。俺には、おまえだけが鮮やかに見えて、他の奴等は誰も彼も白黒の へのへのもへじに見える」 「あ……」 仲間たちの篤き友情に応える行為が、彼等を白黒の へのへのもへじに仕立てあげることだったというのは皮肉なことだが、それで やっと 氷河の『好き』の真の意味は瞬に通じたらしい。 一瞬、自分の理解は間違っているのではないかと逡巡したように不安そうな目になったが、氷河の真剣そのものの瞳を見上げ見詰めているうちに、瞬は確信に至ったようだった。 「僕も……氷河だけが鮮やかに見えるの。初めて会った時も、今も――今がいちばん……!」 少し ためらって、だが最後には力強く、瞬が明言する。 目の前にある氷河の手を取り、立ち上がり、瞬はそのまま氷河の首に 勢いよく しがみついていった。 ついに、やっと、明白な瞬の答えを手に入れることができた氷河は もちろん、彼の鮮やかで大胆な恋人の身体を しっかりと抱きとめたのである。 白黒の へのへのもへじにされてしまった星矢は、二人の仲間による あからさまな冷遇が大いに不満だったのだが、今ここで氷河と瞬のラブシーンに水をささずにいてやるだけの思い遣りくらいは、彼も一応 心得ていた。 というより、星矢(と紫龍)は、氷河と瞬が仲間たちの目の前で実に堂々とした態度でラブシーンに及ぶ理由を正しく理解できていたのである。 今の氷河と瞬には、今の自分たちが へのへのもへじの落書き程度にしか認識されていないのだという事実。 へのへのもへじが 脇で文句をわめきたてたところで、今の氷河と瞬には どこ吹く風の馬耳東風だろうという事実。 友情も正義もへったくれもない、恋とはそういうものなのだという事実を。 その日以降、氷河は、 「あの天使は、人間の世界で幸せになったと思う?」 と、瞬に問われた時には必ず、 「当然だ。俺がこんなに幸せなんだから」 と答えるようになった。 氷河のその答えを聞くと、瞬は安心したように笑って、恋人の腕にしがみついてきてくれる。 初めて天使に出会った その時から、おそらく瞬はずっと その答えを欲しがっていたのだ。 Fin.
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