秋の長雨は、日本国において 9月中旬から10月上旬にかけて降る雨のことで、 日本列島では、これを秋の長雨と言わずして 何を秋の長雨と言うのかと呻りたくなるような雨が、2日前から降り続いていた。 もちろん、青銅聖闘士たちが起居する城戸邸の周囲でも。 「敵の襲撃があったら、台風の最中にだって 敵を倒して来いって言うくせに、敵が来てないってだけで、外に出て遊ぶの禁止なんて、不条理なルールだよなー」 しとしとと雨を降らせている灰色の空を 窓の向こうに眺めながら、星矢が恨めしそうに ぼやく。 アテナの聖闘士たちに対して『雨の日は遊興のために外に出てはならない』というルールが制定されたのは、今から2ヶ月ほど前の梅雨の時期。 城戸邸の庭でリフティングの自己最高記録更新に挑んでいた星矢が、雨のせいでボールの制御を誤り、泥にまみれたサッカーボールを 外出先から帰ってきた沙織のドレスに命中させてしまったせいだった。 注意1秒、怪我一生。 たった1秒、注意を怠ってしまったために、星矢は、リフティング回数記録を500の大台に乗せ損ねたばかりか、雨の中での あらゆる遊戯・運動を 沙織に禁じられてしまったのである。 筋トレとサーキットトレーニングで 何とか午前中を潰すことはできたが、他に室内でできるような趣味を持たない星矢は、時間を持て余していた。 読書や音楽鑑賞で時間を潰すことのできる仲間たちを心底から羨ましいと思う。 もっとも、『読書や音楽鑑賞』といっても、氷河が先ほどから眺めているのは 世界各地で失われつつある氷河の写真集、瞬が読んでいるのはマーガレット・ブリッジズの絵本、紫龍が聞いているのは“音楽”ではなく、古今亭志ん朝の落語だったのが。 「なあ! 何か暇潰しになるようなことないかー !? 」 自分ひとりだけが時間を持て余していることに苛立ちを覚えた星矢が、紫龍のイヤホンを引き抜きつつ、ラウンジに大きな声を響かせる。 イヤホンをしている人間の注意を引くために大声を出すのは理に適った行為と言えなくもないが、イヤホンを引き抜いてから大声をあげることに どんな意味があるのか。 その場にいた星矢の仲間たちは、静かな部屋に 突如 響き渡った星矢の大声に驚き、あるいは顔をしかめることになったのである。 彼等が その件に言及せず、星矢の振舞いを たしなめることもしなかったのは、彼等の中に、『暇を持て余させておくと、星矢は何を始めるか わからない』という考えがあったからだったろう。 ここで仲間たちに無視を決め込まれると、臍を曲げた星矢は、邸内でサッカーボールを蹴り始めるくらいのことを平気でやりかねないのだ。 それで邸内の家具や調度品を壊したり、壁に大穴をあけるような不始末をしでかせば、城戸邸の所有者である沙織が烈火のごとく怒るのは必定。 その事態を懸念したからこそ、紫龍は大人しく(?)デジタルオーディオプレイヤーのスイッチを切り、氷河と瞬は 彼等が目を通していた書籍のページを閉じたのだった。 「さて。雨の日の暇潰しとなると、有名なものでは 雨夜の品定めというのがあるが」 「下品だ」 紫龍の提案(?)を、氷河が言下に切って捨てる。 「確かに あれは上品な娯楽とは言えないな」 紫龍が氷河の意見に同意して頷いたのは、彼自身 その下品なレクリエーションにいそしむつもりがなかったから。 そして、星矢が、その下品なレクリエーションに興味を示したのは、そのレクリエーションがいかに下品なものであるかを 彼が知らなかったからだった。 「なんだよ、その雨夜の品定めってのは」 決して星矢は好まないと わかりきっている暇潰しの術。 だが、それが自分の嗜好に合わないことを理解するために、人はまず それがいかなるものであるのかを知らなければならないという、至極当たりまえの矛盾に、紫龍は薄く苦笑することになったのだった。 「源氏物語の 「男が女の品定めして何になるんだ? 男なら、男はどうあるべきかを語るべきだろ? ご大層な身分の貴公子ってのは、随分 無駄なことに時間を費やすんだな」 予想通りの一刀両断。 素朴だが鋭いところを突いてくる星矢に、紫龍は心から同意した。 「まったくだ。種の保存というのは すべての動植物の最大の関心事ではあるだろうが、社会的地位によって女性を類型化しようとするあたり、貴公子たちの卑俗さは疑いようがない」 「その下品な女談議を真に受けた光源氏は、中流の女に手を出したあげく、それでも飽き足らなくて、幼女の若紫を 誘拐同然にして自邸に連れ込み、その幼女を自分の理想の女に育てあげようとするんだぞ。まさに下品の極みだ」 日本文学史上最高の傑作とされる物語を、氷河が重ねて『下品』と断じる。 華麗なる王朝絵巻の世界は、アテナの聖闘士たちの価値観とは相容れないものであるようだった。 「だが、それは古今東西の男の夢なのかもしれんぞ。ギリシャ神話にもピュグマリオンの例がある」 「なんだよ、そのピュグマリオンってのは」 「なに?」 雨夜の品定めを知らないことは笑って やりすごすことのできた紫龍が、星矢のその質問には さすがに渋い顔になる。 それも 故なきことではなかっただろう。 衣冠束帯で身を包み、牛車に乗った戦士たちが アテナの聖闘士たちの前に敵として現われることは まずないだろうが、ノミや金槌を手にしたピュグマリオンが アテナの聖闘士たちに襲いかかってくることは絶対にないとは言い切れないことなのだ。 「源氏物語はともかく、ギリシャ神話の有名エピソードくらいは覚えておいた方がいいぞ。その名を冠した者が いつ敵として俺たちの前に現われるかもしれないんだから」 紫龍に そう たしなめられて、星矢が両の肩をすくめる。 『そんなことを知らなくても、勝つ時は勝つ。負ける時は負ける』というのが、星矢の持論だったのだ。 その持論を星矢が口にしなかったのは、ピュグマリオンなるものが いかなるものであるのかを、彼が1秒でも早く知りたいと思っていたから。 星矢は、未知のものへの好奇心は至って旺盛だった。 その好奇心に衝き動かされて、見るからに危険な場所に足を踏み入れ、見るからに胡乱なものに手をのばし、あげく 様々な事件を起こしては、星矢は仲間たちを窮地に陥れてくれる。 もっとも、悲しいことに、星矢の仲間たちは これまでの幾多の戦いによって、今ではすっかり そういう展開に慣らされてしまっていたが。 「ピュグマリオンというのはキプロスの王だった男だ。現実の女に幻滅して、自分の理想通りの女性の彫像を彫り、毎日 その像を愛でていたんだが――」 「それって、人形フェチってやつ?」 「微妙に違うだろう。ピュグマリオンは確かに 「ふーん。アルゴルの石化技の逆パターンか。それって結構 恐い技だよな。もし、あの巨大アテナ像が動き出したりなんかしたら、聖域は大ピンチに陥るぜ。あのアテナって、俺の100倍くらい飯を食いそうだし」 「……」 星矢の発想はいつも突飛である。 突飛すぎて、ついていけなくなった紫龍は、疲れた顔で軌道修正に取りかった。 「まあ、そんなふうにして、世の男共は古今東西を問わず、理想の女を探し求めて努力精進してきたというわけだ」 「理想の女ねー。氷河、おまえの理想は、やっぱ、マーマかよ」 「なに……?」 星矢の発想は突飛なだけでなく、その方向性も落ち着きなく千変万化する。 巨大アテナ像の大食話が、一転して、白鳥座の聖闘士の理想のタイプの その激動振りに、氷河は一瞬、虚を衝かれた顔になった。 そんなことを、彼はこれまで ただの一度も考えたことがなかったのだ。 ほとんど反射的に、瞬の上にちらりと視線を投げ、それから氷河は無言で唇をきつく引き結んだ。 そこに、さりげなく紫龍のフォロー(?)が入る。 「それは、ある意味、最も正しい理想と言えるんじゃないか? 血のつながった母という絶対的な絆があり、しかも既に この世にない人。決して自分の手に入れることのできない女性であり、亡くなった人には幻滅のしようもないから、いつまでも理想であり続けることが可能。理想としては完璧だな。決して崩れることのない鉄壁の理想だ」 「あ、いや、それはそうかもしれないが、俺は――」 「でも、そんな完璧な理想があると、かえって大変かもしれないよ。紫龍たちも氷河のマーマの写真を見せてもらったことあるでしょ。氷河のマーマだけあって、すごく綺麗な人だった。あんなに綺麗な人は滅多にいないから――氷河はきっと そういうことでは かなり苦労することになるんじゃないかな」 「瞬……」 それまで星矢の暇潰しの相手をしてやっている(させられている)仲間たちを にこにこしながら眺めているだけだった瞬が初めて口を開き、告げた言葉がそれ。 瞬のその言葉に、氷河は そのあたりの事情に全く気付いていないわけでもなかった星矢が、慌てて 自分のしでかした不始末の収拾にとりかかる。 「別に苦労なんかしないだろ。氷河は、理想通りの女が見付からなかったら、それはそれで仕方がないって考えるタイプだし。いないもんはいないんだから、実際どうしよーもないもんな」 「その上、氷河は、光源氏のように、いないのなら自分の手で育成しようなどという意欲を持つこともしない男だ」 「要するに、面倒くさがりの怠け者なんだよな」 「であればこそ、身近に好みのタイプがいると、それを掴んで離すまいとする」 「そうそう。んで、一度 掴まえたら、それで一生 間に合わせようとするんだ。ズボラで ぐーたらだから」 星矢と紫龍が 氷河のために言い募る言葉が ことごとく仲間への非難雑言になる。 なぜこういうことになってしまうのかと胸中で訝る星矢と紫龍の前で、瞬は僅かに その眉を曇らせた。 「理想の人を自分で作りあげようとか 育てようとか、そんなことを考えるのは傲慢なことだし、実際にそんなことするのは相手の人権を無視した非道な行為だよ。面倒くさがりだの怠け者だの以前に、それは 人としてしちゃいけないことだもの。もちろん、氷河はそんなことはしないよ」 星矢たちの なぜか悪口になってしまうフォローとは異なり、瞬の擁護は一分の隙もなく完璧なものだった。 瞬が、更に氷河の方に向き直り、彼への慰撫と謝罪を口にする。 「理想の人には いつかきっと会えるよ。思い描いていた理想通りの人でなくても、好きになった人が理想の人になるっていう話はよく聞くし、星矢や紫龍の言うことは気にしない方がいいよ。僕も、氷河は苦労することになるかもしれないなんて、無責任なこと言って、ごめんなさい」 完璧なのに慰められない慰撫の言葉、完璧なのに受け入れられない謝罪の言葉――というものが、この世には確かに存在する。 氷河が今 瞬によって告げられた言葉が、まさにそれだった。 「いや、俺は、もともと そんなことは気にしていないし、理想の女になんて会いたいとも思わな――」 「でも、もし 理想の人に出会えたら、その時には 必ず その人の手をちゃんと取ってあげてね」 「……」 雨のために外に出ることができず、持て余した時間を潰すために始めた、正しく無駄話。 自分が自分のために始めた無駄話が、仲間を窮地に追い込んでしまったことに気付いて、星矢は口許を引きつらせた。 |