翌日。マイヤの帰国の日。
氷河は相変わらず瞬しか見ていなかったが、瞬は自分の勘違いを詫び、別れの言葉の代わりに感謝の言葉で、帰国の途につくマイヤを送り出してくれた。
態度や口調だけは申し訳なさそうに――事実、心底から申し訳ないと思っているのだろうが――幸せそうに輝く その瞳だけは隠しようがない。
瞬にそんな様子を見せられてしまっては、マイヤとしても もはや笑うしかなく――実際、明るく笑って、彼女は城戸邸に起居する個性的な青少年たちに別れの言葉を告げたのだった。


「沙織、私を出しに使ったでしょう」
空港に向かう車の中で、マイヤは 同乗している沙織に尋ねたのである。
グラード財団の総帥として、10代の少女とは思えない辣腕を振るう彼女が、知り合って間もない人間を 厚意だけで私邸に招き入れたりするはずがない。
そうすることによって何らかの益を得られるという確信がなければ。
今、満足そうな顔をして 友人を故国に送り出そうとしている沙織の様子を見るに、どう考えても彼女は彼女の目的を達したのだ。
そして、マイヤが城戸邸で成し遂げた仕事は、くっつきそうでくっつかず 星矢たちをずっと いらいらさせてた若い恋人同士を ほんの数日で くっつけたことだけ。
となると、沙織の目的は、まさに それだったことになる。

「ロシア正教は同性愛に厳しかったかしら?」
「私は、洗礼は受けていないの。ロシア正教徒ではないわ。しいて言うなら、拝金主義者で成果主義者よ」
「偶然ね。私も同じよ」
そう言って、グラード財団の若き総帥が にっこりと微笑む。
つられて自分も笑いそうになったマイヤは、だが すぐに思い直して、その表情を引き締めた。
「ごまかさないで、白状なさい。円高の日本で10日分の滞在費が浮いて、その上 車の運搬代も出してくれるっていうんだから、出汁にされようが酢の物にされようが、私は 怒ったりなんかしないわ」
「……」
ごまかされてくれそうにない友人に、沙織が短く虚ろな笑い声を洩らす。
一度長く吐息して、彼女は軽く口角を上げた。

「出しに使ったわけじゃないわ。出しに使い損ねただけ。私は、氷河が、生きている瞬と死んでいる母親のどちらを選ぶのか、興味を持っていただけよ。もし死んだ人を選ぶなら、氷河には危ういものがあるだろうから、何か対処方法を講じなければならないだろうと考えてはいたけど」
「まさか、その懸念の解消が あなたの目的だったの? だとしたら、随分と馬鹿な心配をしたものね。彼は、そんな危うい人間ではないわよ。彼はちゃんと大地に足をつけて生きている人間。もっとも、その大地は恋という土でできている大地のようだけど」
マイヤの呆れたような口調がおかしかったのか、僅かに沙織が口許を ほころばせる。
そうしてから、彼女はマイヤに頷き返してきた。

「ええ。本当に馬鹿な心配をしたものだわ。氷河が一つの目標を定めたら、その目標に向かって一直線、他の何ものも目に入らない視野狭窄な人間だということを、私はすっかり忘れていたの。恋をしている人間に、理想の価値も生死の意味もあったものじゃないわね」
「いいわねぇ。生きることに心底夢中って感じがするわ」
「ものは言いようね」
「事実よ。そして、そういう人間がいちばん幸せなの」
「えっ」
それまで、その意味はどういうものであれ 笑みを絶やさずにいた沙織が、初めて その笑みを消し去る。
決して不快なことがあったからではなく、彼女は ただマイヤの言葉に驚いただけのようだった。

「どうしたの、そんな驚いた顔して」
マイヤに尋ねられた沙織は、一瞬、彼女に答えを返すのを ためらったようだった。
しばし 何事かを考え込む素振りを見せ、やがて いかにも慎重に言葉を選んでいる様子を見え隠れさせながら、静かに語り始める。
「あなたは信じないかもしれないけど――いいえ、誰も信じてはくれないかもしれないけど、私が何より強く望み、命をかけても叶えたいと思っている夢は、彼等を――星矢たちを幸せにすることなの」
「それは……確かに、にわかには信じ難いことだわね。グラード財団総帥の夢が、そんな他愛もない人間くさいことだなんて」

沙織が慎重に言葉を選んでいるのは、彼女が、彼女と星矢たちの関係を余人に知られたくないと考えているからのようだった。
マイヤには そう思われた。
実際、マイヤはその件に関して、これまで幾度か沙織に尋ねたことがあったのだが、彼女はいつも お茶を濁し、星矢たちが何者であるのかを 決してマイヤに語ることはしなかったのだ。

「私は、幼い頃の彼等にもたとえようもなく つらい試練を課したの。今も、事情があって、彼等の自由を奪っている。私は、私が そのせいで彼等の幸福を阻害しているのじゃないかと、いつも考えていたのよ」
沙織が 人に知られたくないと思っていることを探るのは、無意味で無駄なことだろう。
彼女は重大な秘密を迂闊に他人に洩らすようなことはしない人間である。
そう考えて、マイヤは、沙織が触れようとしないことには触れず、彼女が知っている限りの情報に依って、沙織の気掛かりを打ち消そうとした。

「そんなことないでしょ。彼等は みんな いい顔をしていたわ。だいいち、自由を奪われたくらいで幸せになれない人間は、彼を縛るものが何もなくても幸せにはなれないわよ。現代人は皆、社会に縛られているようなものなんだから」
「それはそうかもしれないけど、私が彼等に強いている束縛は、そんな一般的な束縛ではないの」
「どんな束縛でも同じよ。あなた、ローザ・ルクセンブルクの『獄中からの手紙』を読んだことがあって? 彼女は、牢獄の小さな窓からしか見ることのできない自然の中にも美しさを見い出し、そうすることによって 自分が生きていることの幸福と喜びを感じているわ。自由なんて全くない牢獄の中でよ。そんなふうに、幸せって、結局は人の心の中で築くものなのよ。いいえ、人の心の中ででしか築けないものといっていいわ。何に束縛されていようが誰に束縛されていようが、そんなことは人の幸福の有無や大小とは ほとんど無関係なのよ」
「そういうもの……かしら」
「そういうものよ。彼等を信じなさい。彼等は幸福になる力を持っている子たちよ。この私を使って、恋を成就させるような不埒な真似をしてのけるくらいの子たちなんだから。人に ここまでコケにされたのは、私、生まれて初めてよ」

マイヤは 決して責める口調で言ったわけではなかったのだが、沙織は申し訳なさそうに彼女に謝罪してきた。
「ごめんなさい。氷河たちに悪気はないの」
「悪気なんてものがあったら、私、とっくの昔に あの子たちを投げ飛ばしてやっていたわよ。私、こう見えても趣味が柔道なの。二段を持っているわ」
「え」
マイヤの趣味を知らされた沙織が、その瞳を見開く。
次の瞬間、彼女は、何がおかしかったのか車中で盛大に吹き出していた。
「ええ。ええ、そうね。星矢たちも、あなたになら大人しく投げ飛ばされることでしょう」
いったい彼女は、何がそんなにおかしいのか。
マイヤが沙織に問い質そうとした時、車が空港に到着した。


結局、マイヤは沙織の爆笑の訳を確かめることができないまま、帰国の途に就いたのである。
彼女が帰国して数日後、日本から、氷河の母親の写真の複製が届けられ、マイヤはひどく驚くことになったのだった。
瞬が口述し、氷河が書いたらしいロシア語の、今どき新鮮なアナログの手紙には、
『マイヤさんに出会えて、本当によかった。僕たちは今とても幸せです。どうもありがとう』
と記されていた。
自分が盛大にコケにしてのけた人間に対して、しゃあしゃあと『幸せです』と書いてくる瞬の悪気のなさに感嘆しつつ、だが、その悪気のなさのせいで、マイヤは なぜか とても幸せな気持ちになることができたのである。
そして、そろそろビジネス以外の名を持つ恋人を作るのもいいかもしれないと、彼女は思ったのだった。






Fin.



■ ローザ・ルクセンブルク : ドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、革命家



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