The Phantom of the Opera






フレアは素晴らしく美しい声の持ち主である。
その声は、天使の声とさえ評されていた。
声量には難があり、劇場の音響技術が現在ほど発達していなかった百年前であれば、小さなサロンで ごく少数の恵まれた聴衆だけが その天使の声を堪能するのみだったろうが、幸い彼女は19世紀も終わろうとしているロンドンに生まれた。
彼女が この世に生を受けたのが、もし百年前であったなら、そもそも貴族の令嬢がオペラ座の舞台に歌手として立つことが許されていたどうかも怪しいことで、神はまさに彼女が彼女の才能を最大限に発揮できる時代と場所を選んで、彼女を人間界に遣わしたのだとしか思えない。
彼女は、神に、運命に愛されている。
神と運命は、愛する彼女に幸運だけを授けたのだ。
――というのが、世間に流布している彼女に関する一般的な見方だった。

フレアは、その姿も美しく、心根も優しい。
英国では名家といわれるフローリー男爵家に生まれ、男爵家令嬢に ふさわしい教養も身につけている。
その上、歌姫としての人気は絶大。
彼女は、彼女の家族や友人たちだけでなく、ロンドンの多くの市民からも愛されているのだ。
そんなフレアを、なぜ自分は愛することができないのか、ヒョウガはよくわからなかったのである。

その夜のロイヤルオペラハウスの演目は、ジャコモ・プッチーニの『ラ・ボエーム』だった。
これから1ヶ月続く公演の初日。
フレアはもちろん、ヒロインのミミを演じる。
『ローエングリン』のエルザ姫や『魔笛』のパミーナ等、高貴な身分の女性しか演じたことのないフレアが、庶民の娘の役を演じるのは これが初めてのことだった。

『ラ・ボエーム』――パリに暮らす貧しい詩人のロドルフォとお針子ミミの悲しい恋の物語。
二人は恋に落ちるが、結核を患ったミミと ロドルフォは互いのために別れを決意する。
最期の時、ミミはロドルフォの許に戻り、愛する恋人の腕の中で天に召されていく――。
『ラ・ボエーム』は、言ってみれば、貧しさが招いた不幸な恋を描いた、庶民の悲劇だった。

舞台で貧しいお針子のミミを演じるフレアの姿は、相変わらず美しく、その声もまた美しかった。
客席はすべて埋まっており、幸福な天使の声に観客は満足し、幕が下りても拍手は鳴りやまない。
しかし、ヒョウガの心は全く楽しんでいなかった。
悲劇なのだから、それは当然のことなのかもしれなかったが、悲劇なのに、ヒョウガはその舞台に 少しも悲しみを感じることができなかったのである。
それは彼以外の観客も同様らしく、彼等は一様に 美しい天使の声を聞くことができた自らの幸福に感激し、興奮し、頬を薔薇色に上気させていた。
悲劇を観て幸福な気持ちになることに、彼等は矛盾を感じないのだろうか。
冷めた気持ちでそんなことを考えながら席を立ち、ヒョウガは楽屋に向かったのである。

彼女専用の控え室は花でいっぱいだった。
花の中に部屋があるといっていい。
もちろん その中にはヒョウガが贈ったものもあるはずだった。
ヘレフォード子爵家の財力にふさわしい花。
それがどれなのかはヒョウガ自身も知らなかったが、おそらく部屋の中で最も大きな薔薇の花束がそれなのだろうと、ぼんやりと思う。
ヒョウガの役目は、彼女がオペラ座の舞台に立つ時、最も高価で最も目立つ花束を彼女に贈ること。
ただそれだけなのだ。
その務めを果たしてさえいれば、フレアも それ以上のことをヒョウガに求めることはしなかった。

楽屋に行き、お座なりの讃辞を述べ、早々に部屋を出る。
そっけなさすぎるとは思ったが、『君の声は美しいが、全く魂を揺さぶられない』と本音を言ってしまうよりは ましというもの。
フレアもヒョウガの そういう態度には慣れていて、不満そうな態度を見せることはなかった。
廊下には、フレアとの面会を求める若い男たちが群を成して、控えている。
いつも通り、フレアのマネージャーが、歌姫との面会を許していい者と 追い返す者の選別作業に追われていた。
賞賛の声は他の多くのファンがヒョウガの代わりに いくらでもフレアに捧げてくれるだろう。
周囲から結婚を急かされ続けているというのに、いつまでも煮えきらず、正式な婚約もしていない、つまりはただの友人など、さっさと席を外してしまった方が、彼女と彼女のファンたちのためになるのだ。

初演の舞台を観て、挨拶を済ませ、ともかく これで義理は果たしたと、肩の荷をおろす。
ヒョウガの父方の祖母にあたる前々子爵夫人がフローリー男爵家令嬢フレアとの縁談を持ち込んできてから、ヒョウガは 諾々と彼に課せられた その義務を果たし続けてきた。
高価な花束は彼女の舞台が続く限り 毎夜贈られるが、ヒョウガは、フレアが上がる舞台の同じ演目を二度 観たことはなかった。
同じ出し物に毎晩 通いつめるファンもいるらしいが、ヒョウガはそこまで熱烈な彼女のファンでもない。
フレアは悪意のない人間で、ヒョウガも彼女を嫌っているわけではないのだが、彼女の舞台は複数回観るほどのものではないと、彼は思っていた。
今回の『ラ・ボエーム』は特に、一度観れば十分な演目と、ヒョウガは考えていたのである。

これまでは それで済んでいたのだ。
同じ演目を二度見たことはない。
フレアもそれで不満を覚えてはいない。
そう、ヒョウガは思っていた。
幸福な彼女は、不満や怒りや嫉妬といった、自分を不幸にする負の感情には縁のない女性なのだと。

そんな彼女から、『席を用意したので、ぜひ』というカードが送られてきたのは、『ラ・ボエーム』の初演の日から2週間後。
『ぜひ』と言われた訳は、ヒョウガにはわからなかった。
演出を大きく変えたのかもしれないと思いはしたが、どんな演出方法を採用しても、フレアがミミを演じている限り、『ラ・ボエーム』は同じ舞台であり続けるだろうと思う。
少しも不幸そうに見えないミミを観ることにどんな意味があるのだと思いはしたのだが、祖母の手前、彼女からの招待をむげに断ることもできず、その夜、ヒョウガは しぶしぶオペラ座に向かったのである。

オペラ座の前は 馬車や自動車でごったがえし、それらの乗り物は次々に 観客を吐き出していた。
ヒョウガもそろそろ自動車を買いたいと思っているのだが、祖母が『そんなものは貴族の乗り物ではない』と言い張って許してくれないせいで、未だに扉にヘレフォード子爵家の紋章が打たれた馬車を利用していた。
英国が 栄光ある孤立を放棄し、アジアでの台頭めざましい日本と日英同盟を結んだのが 1902年。
翌々年には英仏協商締結、日露戦争を経て、1907年には英露協商が結ばれ、ドイツとの対立は いよいよ激しさを増している。
オペラ座の周辺は、そんな きなくさい世界情勢が別世界での出来事であるかのように華やかで きらびやかで、こういう人間たちなら“幸福なミミ”を違和感なく受け入れてしまえるのだろうと、ヒョウガは思うともなく思ったのである。
自分が そんな者たちの中の一人であるということに、少しく苛立ちを感じながら。

その夜、ヒョウガは 一幕目を観たら、用ができた振りをして劇場を出てしまおうと企んでいた。
席に着き舞台の幕があがるまで、どんな用ができたことにすべきかと、彼は そればかりを考えていたのである。
あいにく、その夜、ヒョウガは せっかくあれこれと考えた中座の理由を口にすることはなかったのであるが。


その夜のフレアは圧巻だった。
舞台の彼女は天使ではなかった。
声はこれまで通りに天使の声だったが、その声には、自分には責任のない貧しさという障害のために 身を切るような思いで恋を諦める女の悲しみ、痛み、やるせなさが 満ち満ちていた。
その夜、舞台の彼女は確かに、悲しい、血の通った人間だった。

観客も初演の時とは全く違う熱狂を示した。
幕が下りると、劇場は しわぶき一つない沈黙に覆われた。
やがて、何がきっかけだったのか、怒涛のような歓声と嵐のような拍手が湧き起こる。
婦人たちの多くは涙を流し、まるで自分の心臓の鼓動と速さを競うような勢いで、悲しくも美しい舞台の歌姫のために拍手し続けている。
これは、これまでの彼女の舞台では なかったことだった。
ヒョウガも、その夜は、彼にしては興奮気味に彼女の楽屋に急いだのである。


「今夜のミミは素晴らしかった。ラストのアリアは特に胸に迫るものがあった。いったい何があったんだ !? 今夜のミミは、恋をし、生きていた!」
もしかしたら、それは、フレアの舞台に対する、ヒョウガの初めての心からの賞賛だったかもしれない。
「初演のミミはどうだったの?」
そんなヒョウガに少なからず驚いたように、だが いつも通りの幸福な微笑を浮かべて、フレアが尋ねてくる。
ヒョウガは返答に窮した。

そう尋ねてくるフレアに、悪気はない。
彼女は、皮肉の言い方など知らない女性なのだ。
『ただの幸せな天使にしか見えなかった』と答えるしかない自分を知っているから、フレアの言葉が ヒョウガの耳には皮肉に聞こえるだけのことで。
彼女の声は いつも美しく、誰も彼女に対して批判めいたことは言わないし、新聞もそんなことは書き立てない。
フレアは賞賛しか知らない歌い手だった。
ヒョウガも、あえて今、彼女の以前の舞台への批判を口にするつもりはなかった。

ヒョウガが答えずにいると、自分が不幸にならない術を自然に我が身に備えているフレアは、自分の方から話題を変えてきた。
「先生を増やしたの」
「その先生にぜひ会いたい!」
間髪を入れずに 気追い込んで そう言ってしまってから、ヒョウガは そんなことを望む自分自身を訝ったのである。
ヒョウガは、オペラに関しては、あくまでも観客の一人としての興味しか持ったことがない。
ヘレフォード子爵家はオペラ座への高額出資者の名簿に名を連ねていたが、それはヒョウガが子爵家を継ぐ以前からのことで、ヒョウガの意思によるものではない。
だから、ヒョウガがフレアの新しい師に会いたいと思ったのは、音楽声楽の指導者としての彼(彼女)ではなく、フレアを人間にする指導力を有する人物に会ってみたいと願ったからだった。
残念ながら、その願いは叶えられそうになかったが。

「それは無理だと思うわ。私の新しい先生は、人前に出るのを ひどく嫌っている人なの」
「人前に出るのを嫌っている? では君は どこでレッスンを受けているんだ。男爵家に招いているのか?」
この劇場の舞台やレッスン室で指導してもらっているのなら、フレアの新しい師の姿が人目にとまらないはずはない。
オペラ座には、観客が入っていない時にも常時 裏方の者たちや警備の者たちが詰めていて、完全に無人になることはないのだ。

「内緒。誰にも言わないって約束したの」
フレアは そう言って いたずらっぽく笑ったきり、彼女が いつどこで誰にレッスンをつけてもらっているのかを、ヒョウガに語ろうとはしなかった。






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