エティオピアの都は 夕暮れの ただ中にあった。 道の両脇に並ぶ石造りの家々の壁が、一方は夕陽を受けてオレンジ色に染まり、その向かい側の家々は夕陽が作る紫色の影の色に染まっている。 まもなく日が暮れるだろう。 今日も兄を見付けることができないまま 一人暮らしの家に帰ることになりそうだと、細い風の吹く裏町の路地で、シュンは 夕暮れが作る影の中に溶け込んでいくような嘆息を洩らしたのである。 湊で漁師たちの顔役を務めていたシュンの兄が、大漁が続いても不漁になっても苦しい生活を強いられる漁師たちの窮状を見兼ねて、税制不平等の是正を求めた嘆願書を行政府に提出し、王室への反逆者の烙印を押されて 都からの退去を命じられて既に2年。 兄を失い一人きりになったシュンに、湊の漁師たちは『俺たちのために済まない』と申し訳なさそうに謝罪し、また慰めてもくれたが、そんな彼等の前でシュンは ひどく複雑な気持ちにならざるを得なかった。 シュン自身は、沖から戻り湊に入った その瞬間に漁獲物に重い税を課せられる漁師ではなく、むしろ税制の不平等の恩恵を受けている側の人間だったから。 その潜水の技術と幸運は 神の祝福を受けているに違いないと羨まれるほどの――シュンは、いつも誰よりも多く、誰よりも見事な真珠を採取する真珠採りの名人だった。 生きるのに必要な食糧を得るための漁労を生業にしている漁師たちに税が重く、裕福な者の身を飾るためのものを集める仕事をしている真珠採りへの税は軽い。 実は、実際に漁に出るわけではなく、船や漁師たちの管理監督を仕事にしていたシュンの兄も、国庫に納めるべき税は軽かった。 シュンの兄の税制批判は 自身の利益を求めてのことではなかったのだが、行政府は、むしろ そういう人物の方が体制にとって危険な存在だとみなしたらしく、彼等はシュンの兄に 都からの永久追放の罰を下したのだった。 その兄がエティオピアの都に舞い戻ってきているという噂を聞いたのが10日前。 それ以来、日々の仕事を終えると、街を徘徊して兄を探すのが、シュンの日課になっていた。 都に戻ってきているのなら、なぜ兄は弟に会いにきてくれないのか。 義侠心の強い兄のこと、また誰かのために何か危ないことをしているのではないか――。 そんなことを案じながら。 しかし、もう日が暮れる。 今日は諦めて家に戻ろうと考えて踵をかえした時、シュンは自分のすぐ後ろに二人の男がいたことに気付いた。 目立たない暗い色の、だが上等の布でできた 庶民は関わらない方がいい者たち――シュンの判断力は、すぐに そういう結論をシュンに提示してきた。 「あ、すみません」 ぶつかったわけではなかったが、シュンが詫びを入れて道の脇によける。 そのまま すれ違い、二度と会うことのない人たち――と、シュンが思っていた二人の男は、だが、シュンが家路に就くことを許してくれなかった。 「王宮まで、同行願いたい」 と、男たちが、乱暴ではないが 否やを言わせぬ口調で、シュンに要請してくる。 「王宮?」 思いがけない場所への招待状に驚きつつも、彼等の要請(あるいは命令?)にシュンが素直に応じたのは、自分が王宮への“同行”を求められる理由が、兄の行方に関係すること以外に考えられなかったからだった。 それ以外に、ささやかな真珠採りの子供が王宮に連行される理由を思いつけない。 それが良い知らせであれ悪い知らせであれ、シュンは 兄の“今”を知りたかった。 自分が王宮に召し出された理由が兄絡みのことではなかったことは、王宮に着いて すぐにわかった。 税の不公平の是正を求める嘆願書を行政府に提出した男の弟ごときのために、まさかエティオピアの国王夫妻が じきじきに接見することなどありえない。 さすがに正式な謁見ではなく、シュンが通された部屋は、外国の使節を威圧するような調度で飾られた広間ではなかったが、体積だけでいうなら、シュンが暮らす石造りの小さな家以上のものがありそうな部屋だった。 天井が、シュンの住む家の3、4倍――へたをすると5倍 高い。 エティオピア国王は、王冠は冠していなかったが、この国では王族しか身につけることが許されない巨大な緑玉の胸飾りで その身を飾っていた。 その王が、一介の真珠採りの子供の側に立ち――手をのばせば すぐに触れることができるほど側に立ち――その視線でシュンの顔を舐めまわす。 「姫より少々若いようだが、これは確かに姫に生き写しだ」 「あ……あの……」 「そなた、歳は」 「も……もうすぐ16になります」 「2つ違いか。子供の2歳は大人のそれより大きいが、この程度ならどうにかなりそうだな。身長もさほど変わらないし、何よりこの顔立ち」 何の説明もせずに勝手に話を進めていくエティオピア国王の前で、シュンは ただただ戸惑い、その場に立ち尽くしていることしかできなかった。 そもそも王への質問が許されるのかどうかがわからない。 王がシュンの困惑――むしろ混乱――に気付いて、事情の説明を始めてくれたのは、彼がシュンの意思を無視して何事かを決定してしまってから。 「我が国に この娘以上の適任者はおるまい。いや、この娘は、今日この時のために 神がエティオピアに遣わしてくれた者に違いない」 満足そうに そう言って、エティオピア国王は、事情説明を待つシュンに 逆に問いかけてきた。 「我が国が、ヒュペルボレオイの国――ヒュペルボレイオスと、既に60年近く戦を続けていることは、そなたも知っているだろう」 「は……はい」 この国に暮らす者で、その事実を知らない者がいるはずがない。 湊の漁師たちの――否、エティオピアのすべての民の生活が苦しいのは、シュンが生まれる前から続いている その戦のせいだというのが、湊の漁師たちの――――否、エティオピアのすべての民の―― 一致した意見だったのだ。 シュンが生まれた時には既に、大きな戦闘は行なわれなくなっていたが、今でも時々、海上で、陸で、戦の継続を急に思い出したような 小競り合いが起きる。 エティオピアでは、いつ再び全面戦争に突入することになるかもしれないという、尤もらしく不確かな理由で、ただ敵軍と睨み合っているだけの数万の常駐軍が陸と海のあちこちに配備され、その軍隊を養うために多くの税と人員が つぎ込まれ続けていた。 既に60年間の長きに渡って。 「でも、戦争は終わるって――」 「そう。終わることになった。我々の一人娘アンドロメダがヒュペルボレイオス王家に嫁ぐことを条件に」 「お姫様が?」 それは いわゆる政略結婚というものなのだろうか。 エティオピア王家に王女が一人いるという話はシュンも聞いたことがあったが、未婚の姫が人前に姿を現わすことなどあるはずがなく、アンドロメダ姫がどのような姫なのか、シュンは その姿はもちろん年齢すら知らなかった。 「そうだ。しかし、数日前、姫は病のために倒れてしまったのだ。命に別状はないのだが、極北の国までの船旅は耐えられそうにない。ここで輿入れの延期を申し出たら、ヒュペルボレイオス側に痛くもない腹を探られ、せっかく合意に至った終戦の約束が破棄される可能性も出てくる。私は、私の国の民に これ以上 負担をかけたくはない。戦はどうあっても終わらせなければならないのだ」 ヒュペルボレイオスとの戦が終わることは、シュンにとっても嬉しいことだった。 兄が都から追放される以前も、追放された今も、毎年50人ほどの漁師たちが 対ヒュペルボレイオスの軍に徴兵され、男手を失った家族が それでなくても貧しい生活を更に困窮させていく様を、シュンはこれまでに幾度も見てきたから。 だが、それが一介の真珠採りの子供に どういう関わりがあるというのか。 シュンには その点が皆目わからなかったのだが、それは一介の真珠採りの子供にも関わりのあることだったらしい。 他人の空似という、深い関わりが。 「姫の快癒に半年以上の時間がかかるという医者の診断が出た時から、我等はずっと 姫に似た者を探していたのだ。そなたは我が娘に瓜二つ。そなたに姫の身代わりを頼みたい」 エティオピア国王は、国の存亡がかかった この時に、娘の病という不測の事態に直面し、まともな判断力を失っているのではないかと、シュンは(そんなことが許されるのかどうかは わからなかったが)貧しい庶民の身で、一国の王の身を案じてしまったのである。 なにしろ、 「アンドロメダ姫の身代わりって……でも、僕は男子です」 だったのだから。 「なに? し……しかし、その格好は――」 シュンは もちろん男の格好をしていた――男子の着る服を着ていた。 膝が見える丈の質素な貫頭衣。 どれほど幼い子供でも、女子が人前に 膝より上の脚をさらすことはない。 もちろんシュンは男子の格好をしていたのだが、エティオピア国王はどうやら、たった今 シュンの申告によって その事実に気付いたようだった。 が、シュンが驚いたことに、エティオピア国王は、その事実に気付いても彼の決定を覆すことをしなかったのである。 「姫の病が癒えたら、人知れず交代させる。それまで何とかアンドロメダ姫の振りをし続けてくれ」 「ですから、お姫様の身代わりなんて、僕にはできないんです。まして結婚だなんて、無理なことです。僕は男子なんです」 どう考えても それは不可能なことと、シュンは食い下がったのだが、エティオピア国王は、 「いや、それは無理なことではない」 と、シュンに真顔で告げてきた。 「ヒュペルボレイオスの王子は、女嫌いで有名なのだ。実質的な夫婦生活はしなくていい。適当に、婚約期間を設けてほしいと言えば、向こうも喜んで受け入れるだろう」 「で……でも、それじゃ、アンドロメダ姫がヒュペルボレイオスに嫁ぐことに意味がないのでは――」 政略結婚というものが どういうものなのかは、シュンも知識として知らないではなかった。 それは、信頼関係が築かれていない二つの陣営に属する男女が、両陣営の血を受け継ぐ子を成すことによって、両陣営に信頼を築く事業のはず。 でなければ、遠い異国に輿入れする姫は、ただの人質と何も変わらないことになってしまう――。 シュンはそう思ったのだが、エティオピア国王は何が何でも、この政略結婚を遂行するつもりのようだった。 「その点も心配ない。我が娘は美しい。姫の病が癒えてヒュペルボレイオスに行けば、姫は必ずやヒュペルボレイオスの王子を その美しさの虜にするだろう。それまでの間、そなたはヒュペルボレイオスの王子と、決定的な決裂に至らぬ程度に仲良くしていてくれればいいんだ。友人のように」 それでも無理だと、つい半日前まで海に潜って真珠を探していた 根っからの労働者階級の子供に、一国の王女の優雅や気品を演じられるわけがないと、シュンは王に訴えようとしたのである。 だが、 「無論、何の見返りもなく、このような大変な仕事をしろと言うのではない。エティオピア王家は、そなたの願いを、それがどんな願いでも叶えてやろう。金でも宝石でも土地でも――都の真ん中に、そなたのための大きな館を建ててやってもいい」 という王の言葉が、シュンの心を動かした。 『どんな願いでも叶えてやろう』 王に そう言われた1秒後、シュンは王に向かって叫んでいた。 「僕の兄を探してください! そして、兄を許してください!」 「兄?」 王が怪訝そうな顔をして、シュンに問い返してくる。 シュンは気負い込んで、王に訴えた。 「僕の兄は、2年前、税の不平等の是正を求める嘆願書を提出して、王室への反逆者とみなされ、この都から追放されたんです。でも、兄は、反逆者なんかじゃありません。漁師たちの困窮を見るに見かねて、ほんの少し漁師たちの生活のことを考えてほしいと お願いしただけなんです!」 シュンの必死の訴えが王の胸を打ったのかどうかはわからない。 いずれにしてもエティオピア国王は、シュンの気が抜けるほどあっさりと、シュンの願いを叶えることを約束してくれた。 「そのようなことがあったのか。もちろん、そなたの願いは叶える。ヒュペルボレイオスとの戦が終われば、戦費調達のための徴税は不要になる。戦さえ終われば、そなたの兄の嘆願は実現されることになり、その行為は罪でも何でもなくなる。そなたの働きによっては、そなたの兄は憂国の英雄として、この都に迎え入れられることにもなるだろう。そなたがエティオピアとヒュペルボレイオスの和平を無事に成立させてくれさえすれば」 そう言われて、王の要請を断ることはシュンにはできなかった。 しかし、エティオピアのため、兄のためとはいえ、これはヒュペルボレイオス王家を騙すこと――壮大な詐欺行為である。 万一の時、偽のアンドロメダ姫の命に危険が及ばないと言い切ることは 決してできない。 それでも、シュンは、エティオピア国王に頷かないわけにはいかなかった。 |