不名誉の指輪が紫龍の指に収まってから5日後。
青銅聖闘士たちが聖域に赴いたのは、日本人向けに甘さを抑えたものではなく、げっそりするほど甘いシロップ漬けの本場のパクラヴァを うんざりするほど食いまくりたいと、星矢が急に言い出したからだった。
言い出したらきかない星矢のお守りをするつもりで聖域に向かった一輝と氷河は、まさかそこで、下働きの雑仕女や雑役夫、聖域の各宮のメンテナンスを生業とする工夫や石工、更には雑兵たち、黄金聖闘士たちにまで――つまりは聖域中のすべての者たちから―― 一斉に同情の目を向けられることになるなどということは考えてもいなかったのである。

「まあ、娘というものは――いや、可愛い弟というものは、いずれ他人の手に渡さなければならないようにできているものだ。気を落とすなよ、フェニックス」
シャカにそう言って慰められても、一輝には彼の言葉の意味が(ある意味、今更過ぎることでもあったので)全く理解できなかった。
「おまえ、あっちの方がよっぽど下手なんだな。中国4千年の秘儀に敗れたか。あの清純そうなアンドロメダが こんなに簡単に乗り換えるというのは意外だったが、まあ、おまえはまだ若い。これから精進すればいいだけのことだ。男というものは、振られて大人になるものだからな」
ミロにそう言って叱咤激励されても、氷河は、自分がなぜ彼に励まされなければならないのか、全く事情が飲み込めなかった。

「いったい何のことだ」
当然のことながら、二人は、訳のわからないことを言い出した黄金聖闘士たちに 彼等の慰撫と励ましの理由を尋ねたのである。
瞬の兄と瞬の(元)男に、シャカやミロより はるかにストレートな同情の眼差しを向けてきたのは、獅子座の黄金聖闘士アイオリアだった。
「隠しても、既に皆 知っている。『永遠にあなたのもの』と刻まれた黄金の指輪が、アンドロメダからドラゴンに贈られたんだろう? こういう言い方は何だが、見捨てられた兄と振られた恋人。聖域の者たちは皆、おまえたちに深い同情を寄せている」
「なにーっ !? 」

いったい何がどうなって、そんなことになっているのか。
紫龍がもし聖域の者たちにエリスの指輪を受け取ったことを非難されるようなことがあったなら、仲間として彼を擁護するくらいのことはしてやってもいいと、そんなことまで考えていた二人は、アイオリアの説明に一瞬 呆け、そして慌てて後ろを振り返ったのである。
余計な気遣いをしなくていいせいなのか、人は敗北者より勝利者の側にこそ集まるようにできているものらしい。
そこには黒山の人だかりができていた。
その中心にいるのは もちろん龍座の聖闘士で、彼は、平生なら決して聖闘士に対して気安く声を掛けることなどしない(できない)雑兵たちにまで、平生の彼なら決して掛けられることのないような軽口を投げかけられていた。

すなわち、
「よっ、この色男!」
「真面目そうな顔して、なかなか やるもんだ」
「畜生、この むっつり助平!」
等々の言葉を。
あげく、牡牛座タウラスのアルデバランが、
「アンドロメダを虜にしたおまえの秘儀、よほどのものらしいな」
と腹の底から感嘆したように呻り、牡羊座アリエスのムウが、
「紫龍、見直しましたよ。義だの何だのばかりにこだわる 不粋な堅物だと思っていたのに、実は やる時はやる男だったのですね」
と大絶賛。
聖域全聖闘士の重鎮にして紫龍の恩師である天秤座ライブラの老師は、
「わしも、おまえの師として鼻が高い。なにしろ、これまで わしは、融通のきかない頑固な弟子を育てた不肖の聖闘士と思われていたからの。師としての面目躍如とはこのことじゃ」
と、手放しの喜びようだった。

瞬の兄と瞬の男は、二人揃って呆然自失。
どうやら聖域では、エリスがもたらした争いは瞬の愛情争奪戦と見なされていたらしい。
想定外の大穴の勝利に、『どうせ賭けに負けたのは自分だけではない』という自棄やけの気運が重なって、聖域では 祭りの後の祭りの方が盛り上がるという奇妙な現象が起きているようだった。

当然、瞬の兄と瞬の男に そんな祭りを黙って見ていることができるわけがない。
二人は、ある意味、男の名誉、聖闘士としての誇りのために エリスの指輪の受け取りを拒否したのである。
だというのに、その結果 得られたものが、見捨てられた兄と振られた男への同情の眼差しというのは、どう考えても理に合わないではないか。

「紫龍、その指輪を俺によこせっ!」
「瞬は それを俺にもらってほしいと言っていたんだ!」
黒山の人だかりを かき分けて、瞬の兄と瞬の男が 紫龍に飛びかかろうとする。
しかし、彼等は、紫龍の指輪に到達する前に、紫龍の勝利を祝っていた人々の力によって、あっさり押し返されてしまったのだった。

「何ですか、みっともない」
「うむ、実に見苦しい限りじゃ。潔く敗北を認めろ。それが男というものじゃ」
ムウや老師は言うに及ばず、それまで氷河と一輝を慰撫し励ましてくれていた黄金聖闘士たちまでが、揃って紫龍の陣営に移動する。
『この指輪を授けられた者は、戦場においても戦場以外の場においても敗北を知らない最も幸運な聖闘士になるであろう』
エリスの呪いの言葉が(?)が、まさに今、氷河と一輝の前で実現していた。
腐っても神、邪神でも神。
争いの女神の力の絶大を 嫌になるほど思い知らされ、だが、戦って事態の解決を図ることもならず、氷河と一輝は これまで経験したことのない種類の敗北に ぎりぎりと歯噛みをすることになったのである。



「あーあ。とんでもないことになってるぞ。いいのか、瞬」
聖域の 祭りの後の祭りを見おろすことのできる高台で、星矢が瞬に尋ねる。
彼の手には、今回のギリシャ訪問の目的であるパクラヴァの包みが しっかり握られていた。
シロップとナッツで口許を飾っている星矢に、瞬が軽く両の肩をすくめて縦にとも横にともなく首を振る。

「あの指輪は、一度誰かに渡したら、もう僕にはどうしようもないの。注意書きに そう書いてあったよ」
「結局、注意深い奴が勝つんだなー。あの指輪に、そんな使用上の注意があったなんて、俺、ちっとも気付かなかった」
「でも、指輪の効力は1ヶ月だけで、あの指輪は1ヶ月後には自動消滅するんだって。エリスとしても、戦いに必ず勝利する聖闘士が聖域にいるのは まずいと思ったんでしょう。1ヶ月もすれば、騒ぎも落ち着くよ。その間、紫龍が誰かに負けることはないんだし」

紫龍は、幸運の指輪に守られている。
瞬が この騒ぎを気楽に眺めていられる理由は それらしかったが、星矢は瞬の気楽そうな声を聞いて、かえって不安になってしまったのである。
「1ヶ月後には消える? それってまじかよ? じゃあ、そのあとはどうなるんだ? 紫龍は、氷河と一輝を敵にまわすことになるんだぞ」
「紫龍は、僕が僕の命にかえても必ず守るよ」
瞬が、瞬にしては珍しく最初から本気のテンションで きっぱりと言い切る。
「ああ、それならだいじょぶか」
星矢は、瞬の断言を聞いて 浅く頷いた。

氷河と一輝でも――否、氷河と一輝だからこそ――二人は瞬に勝つことはできないだろう。
つまり、瞬に守られている紫龍は、最強の矛と盾の他に、瞬の鉄壁の防御力を手に入れたことになる。
まさに青銅最強、もしかしたら 紫龍こそが全聖闘士のうちで最強の男なのだといって いいのかもしれなかった。

注意1秒、怪我一生。
人は、たった1秒間の注意を怠ったせいで一生ものの怪我を負うこともあれば、たった1秒分の注意力を備えていたために、望外の幸運を得ることもある。
たった1秒間の注意で紫龍が得たものは、効力1ヶ月間の幸運の指輪、そして一生分の勝利の女神だった。
注意深い男には勝利と幸運がついてまわる。
人生を豊かで幸福なものにするために、自分も もう少し注意深くなろうと、星矢はしみじみ思ったのだった。






Fin.






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