テラスに出て外の空気に触れたからというより、仲間の側に戻れたことで、妙に澱んでいた瞬の気分と神経は 従来の軽快さを取り戻すことができた。
そうなると、女神アテナを守るという聖闘士の責務を遂行するための気力と闘志も湧いてくる。
「じゃあ、そろそろ沙織さん救出に向かおうか」
瞬が氷河に そう告げると、氷河は唇の端を歪め、その肩をすくめることをした。
「おまえも人がいいな。おまえに こんな災厄を運んできたのは、我等が女神その人だぞ」
「でも、それはいつものことだから」
「……ああ、そうだった」
言われてみれば その通りと、氷河は得心したのだろう。
緩めていたネクタイを締め直し、彼は、アテナ救出に向かう瞬に同道してくれた。

もっとも、沙織を中心に描かれていた輪は、氷河には、その輪の中に入ることを許してはくれなかったのだが。
どう見ても彼等のライバルにはなり得ない瞬のためにだけ、その輪は道を開いてくれた。
氷河を輪の外に残し、瞬が一人で ソファに腰掛けている沙織の側に寄り、
「こういう魂胆だったんですね。ひどい目に合った」
と、彼女の耳許に囁く。
「あら、瞬」
沙織は、瞬ほどには声の音量を落とさずに、いつのまにか しっかりと自由を取り戻している瞬に驚いたように尋ねてきた。
「あの人たちを追い払えたの? どうやって?」
「プーシキンの詩を そらんじられるような人となら お付き合いしてもいいって言ったら、皆さん、潔く引き下がってくれましたよ。氷河が完璧に そらんじてくれた」
「プーシキンの詩? それは いい考えね」

88星座の全聖闘士を統べるアテナでさえ、異質な紳士たちの かもしだす空気のせいで明晰な頭脳が鈍り、自らが戦うための武器を思いつけずにいたらしい。
彼女は、瞬が自らの自由を取り戻すために用いた戦法を聞くと、即座に同じ武器を用いて戦うことを決めたようだった。
沙織は、彼女を取り巻く男性陣に向き直ると、彼等に向かって改めて にこやかな笑みを浮かべ、言った。
「ところで、私は常々、人生を共にするパートナー同士には 同レベルの教養の共有が必要不可欠だろうと考えておりましたの。皆さんは、私より年長なわけですし、私以上に深い教養を備えておいででしょう。それを確認するために簡単なテストをさせていただきたいのですけれど、よろしいかしら」

学歴だけなら、相当のものなのだろう。
沙織を取り囲んでいた男性陣の中には、唐突な提案にもかかわらず、沙織に異議を唱えてくる者はいなかった。
彼等は逆に、沙織の提示する試験問題を歓迎するような様子をさえ見せた。
沙織が こほんと軽い咳払いをして、教養レベル確認のための問題を提示する。
「『あわれ秋風よ、こころあらば伝へてよ』。この詩の続きを そらんじられる方がいらしたら、私は今夜は その方とずっとご一緒させていただきますわ」
「沙織さん……。よりにもよって、そんな詩――」
沙織が提示した試験問題に最初に反応を示したのは、他の誰でもない瞬だった。
その問題選択に当惑したように、瞬は その眉根を寄せることになった。

戦況が大きく変わりつつあることに気付いて、料理が並ぶテーブルを離れ、沙織を中心とした輪の側にやってきていた星矢が、
「何の詩なんだ?」
と、輪の外にいる仲間たちに尋ねる。
「ヴェルレーヌあたりが書きそうな詩だが……瞬はなぜ顔をしかめているんだ」
氷河も、その詩は知らなかった。
輪の外で 瞬同様 顔をしかめていた紫龍が、その詩の出どころを 疲れた声で仲間たちに告げる。
「不倫中の佐藤春夫が書いた『秋刀魚の歌』だ。『サンマ、苦いかしょっぱいか』」
「なんだよ、それ。沙織さん、サンマなんて食ったこともないくせに」
「そういう問題じゃないだろう」

星矢の的外れなコメントは 龍座の聖闘士を更に疲れさせることになったのだが、幸か不幸か、苦いサンマを食した経験を有する者は、その場に一人もいなかったらしい。
おそらくは沙織の狙い通り、その場は完全な沈黙の中に沈むことになったのである。
「まあ、こんな有名な詩を誰一人ご存じないなんて、私、とても残念ですわ」
口では残念がってみせていたが、彼女の瞳や表情や所作は完全に その言葉を裏切っていた。

沙織の設問が受験生全員を不合格にするためのものだったことに気付いている者が皆無ということはなかったろう。
だが、なまじ育ちがいいだけに、しつこく食い下がるようなことができないのは、沙織を中心に描かれた輪の構成員たちも 瞬を取り囲んでいた紳士たちと同じらしい。
結局 沙織は、瞬と同じ戦法で、彼女に群がる敵たちに 穏便に引き下がってもらうことができたのである。
そういう経緯で、アテナとアテナの聖闘士たちは、プーシキンと佐藤春夫の力を借りて、無事に帰宅の途に就くことができたのだった。






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