鉄壁の防御力を売りにしているアンドロメダ座の聖闘士が攻撃に転じたのは、瞬が、自制を促す紫龍の忠告(扇動とも言う)を受けた その日の夕刻だった。
秋も終盤に入った城戸邸の庭を、すっかり数の減った赤とんぼが 寂しげに横切っていく。
そんなところで急に、とんぼより赤い顔をした瞬に、
「氷河、僕を好き?」
と問われてしまった氷河は、とんぼも驚いて眼鏡を落としてしまいそうなほど 大きく目を見開くことになったのだった。
前触れもなしに 突然そんなことを尋ねてくる瞬の意図はわからなかったが、瞬に嘘をつくことはもちろん、答えをごまかすことも思いつけず、事実を正直に、そして短く答える。

「好きだ」
「僕と、その……お付き合いっていうのをしたいと思う?」
「したい」
「じゃあね、僕が言う詩の続きを そらんじられたら、僕、氷河とお付き合いする」
瞬にそう言われて初めて、氷河は瞬の意図を理解した(つもりになった)のである。
瞬は、要するに、自分に好意を持っている男に対して抜き打ちテストをしようとしているのだ。
半月前の婚活パーティで プーシキンの詩を持ち出し、自分の意に沿わない男たちを視界の外に追い払ったように。

あの時と同じように、瞬は 瞬に思いを寄せる鬱陶しい男を追い払おうとしているのか――。
氷河は、全身を緊張させ 身構えたのである。
力の差が歴然としている強敵に丸腰で挑むことを余儀なくされた弱卒のように。
「瞬があんな試験を持ち出す時点でOKなんだってことが、なんで氷河には わかんねーんだよ」
「まあ、思い込みだろう」
白鳥座の聖闘士の人生がかかった試験の様子を、部外者ゆえの気楽さで 呑気に批評している仲間たちが、同じ庭のウツギの木の陰から盗み見ていることにも気付かずに。

「三木露風の詩だよ。僕、大好きなの」
瞬が、微笑とまではいかないにしても 穏やかに和らいだ表情で告げてきた、試験問題の出典に、氷河は青ざめることになった。
これまで氷河が目を通してきた詩集は、ゲーテ、ハイネ、リルケ、ワーズワース、キーツ等、主に日本国外の詩人のものばかりだったのだ。
不合格の予感に囚われ暗く重い気持ちになりかけた氷河の前に、瞬が運命の詩を提示してくる。
もっとも氷河は、それが自分に出題された問題だということに、すぐには気付くことができずにいたのであるが。

「夕焼け小焼けの赤とんぼ――」
「なに?」
「だから、『夕焼け小焼けの赤とんぼ』だよ。続き、知らないの?」
「知らないわけではないが――」
知らないわけではない。
母を失い一人きりになった氷河がロシアから この極東の島国にやってきた時、そして、この城戸邸で瞬に出会った時――氷河は他の誰でもない瞬自身に、その歌を教えてもらったのだ。
忘れるはずがない。
それは、氷河が初めて覚えた日本の歌だった。

「負われて見たのはいつの日か」
もちろん氷河は 正しい答えを答えた。
「正解」
その答えを聞いた瞬が、嬉しそうに笑う。
そんな問題と答えでいいのかと困惑していた氷河は、瞬のその笑顔を見て初めて、瞬が その詩を自分への問題に選んだ意図を理解したのである。
人を好きだと感じる心が、いつ、どこで、なぜ、生まれるのか。
そして、どんなふうに育まれるものなのか。
少なくとも、それは、一夜漬けで頭の中に詰め込んだ詩の文句によって生まれるものでも確認できるものでもないのだということを。

「それは、俺にとっても忘れられない大事な詩だ」
「うん」
深まる秋の中で、瞬の肩を抱き寄せ、抱きしめる。
その胸の中に同じ詩を大切に温めている人の身体は、まるで そのまま一つに溶け合えてしまいそうなほど優しく心地良い感触で、氷河の心に迫ってきたのだった。


「赤とんぼの詩なんて、俺だって余裕で答えられるぜ。俺には誰も知らないような難しい問題ばっかり出してたくせに、瞬の奴、依怙贔屓がすぎるだろ!」
氷河の一世一代の告白が上首尾に終わったことに安心して 愚痴を言えるようになった星矢の横を、1頭の赤とんぼが 楽しげに飛んでいく。
「それが瞬の答えということだ」
紫龍の言葉が とんぼの声に聞こえて、星矢は一瞬ぎょっとしてしまったのである。
すぐに 自分の錯覚に気付き、ゆっくりと相好を崩す。
詩というものが何のために書かれるのか、そして、それが何のために人々によって口ずさまれ続けるのか、星矢は その不思議の答えが、今 初めてわかったような気がした。






Fin.






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