「あの……僕みたいなのを家に置いて、村の人たちから何か言われたりしない?」
瞬が不安げな顔をした瞬が、氷河に そう尋ねてきたのは、氷河が瞬の飛翔を見た翌日のこと。
冬の間は家の中に閉じこもっていることが多かった村人たちが、春になり夏になってからは その行動範囲を広げていた。
瞬自身も家の中に閉じこもってばかりもいられず、氷河の仕事の手伝いをするために、家の外に出ることが多くなっていた。
その際、これまでに2、3度、瞬は村人たちに その姿を見られてしまっていたのである。
氷河が何も言わずにいたせいで、瞬はずっと そのことを案じていたらしい。
わざわざ知らせるほどのことではないと考えて、これまで何も言わずにいた自分の浅慮を、氷河は悔やんだ。
「誰だと問う者たちはいたが、母が神に頼んで遣わしてくれた天使だと答えておいた」
本当は『あれは誰だ』ではなく『あれは何だ』と訊かれたのだが、それは――それこそ、わざわざ言う必要のないことである。
当然 氷河は、その件については何も言わなかった。

「その人たちは、氷河の言葉を信じたの?」
「信じたようだったな」
氷河の その言葉を聞いて、とても信じられないというように、瞬が大きく瞳を見開く。
だが、それは瞬のために作った嘘ではなく、ただの事実だった。
村人たちは、氷河の説明を信じた。
善良さや信心深さのためというより、その素朴さのために。

「この村は、都会より200年くらい、時間の進みが遅れているんだ。神や天使や――聖人の起こした奇跡や迷信も、村の者たちは本気で信じている」
「奇蹟や迷信?」
「ああ。この辺りは、その手の言い伝えが多いんだ。たとえば――」
言って、氷河は、村の北方にある、今は濃紺の肌色をたたえている険しい山の頂の上に その視線を向けた。
「10年に1度、太陽の中心に黒い点が見える年がある。あの山の頂には、その年の冬至の日にだけ花をつける氷の花があると言われているんだ。その花が咲いている時、その花に自分の願いを願えば、その願いが邪悪なものでない限り 必ず叶えられるという言い伝えがある」
「それほんと?」
「250年前、イヴァン・モスクヴィチンがシベリア横断に成功したのは、あの山の麓で遭難しかけたモスクヴィチンが、危険を冒して伝説の山に登り、生きてオホーツク海を見たいと願ったからだと言われている。当時の未熟な装備でシベリア横断なんて、どう考えても不可能なことだ。モスクヴィチンのシベリア横断は、ロシアのために神が起こした奇蹟と言われているほどだから、あながち嘘とも言い切れん」
「10年に1度だけなの?」
「山に入って生きて帰った者もしないという話だがな。今年がその年だから、村の年寄りたちは 馬鹿な望みのために山に入らないようにと、今から若い者たちに真顔で言ってきかせている」
「今年がその年なの?」
「らしいな。まあ、そういうことが本気で信じられているような土地だから、俺の側に天使がいても、村の奴等は、俺の幸運を羨みこそすれ、村から追い出そうなんてことは考えない」

だから、ここにいれば安全だから、ずっとここにいてくれと、氷河が瞬に眼差しで訴えたのが、二人が出会って半年が経った夏の日のこと。

「俺は、おまえの翼が消えてしまえばいいと思う。それで おまえの心が癒されるなら。そして、おまえが俺と同じものになって、いつまでも俺と一緒にいてくれたら、どんなにいいだろうと思う」
「僕は、氷河の背に翼が生えてくれればいいのにと思うよ。そして、僕と氷河が同じものになって、いつまでも一緒にいられたら どんなにいいだろうと」
「俺たちは同じことを望んでいるのか、逆のことを望んでいるのか」
「ほんとだね」
二人がそんなふうに互いの願いを語り合ったのは、常緑樹以外の木々が その葉の色を変え、村や山や川を色とりどりに染めあげた秋。

そして、瞬が、
「……氷河。この翼は本物なの。作りものじゃないの。あとから人工的に植えつけられたものじゃなく、僕には生まれた時から翼があった。この翼は、僕と一緒に大きくなった。捨てることはできないの」
つらそうな目をして、氷河に そう告白してきたのは、二人が出会って1年が過ぎた初冬のことだった。

「……」
それが何なのだと、だからどうだというのだと、氷河が瞬に訴えることができなかったのは、その告白に続いて瞬が告げた、
「多分、僕と氷河は違うものなの。本当は一緒にいてはいけないんだと思う」
という言葉のせいだった。

都会と都会の文明から遠く離れた辺鄙な村では、瞬を自分たちと同じ仲間として受け入れることのできる者はいないかもしれないが、逆に瞬を虐げ排斥しようとする者もいない。
すべてが瞬の望むとおりではないかもしれないが、瞬の負い目を完全に消し去ることはできないかもしれないが、平穏に暮らしていくことはできる。
それだけでは足りないのかと、どうしても おまえは完全に同じものとして自分を受け入れてくれる仲間がほしいのかと叫び、瞬を責めてしまいそうになり、だが、そんなことをしても瞬を悲しませるだけだということに思い至って、口をつぐむ。
代わりに氷河は、懸命に憤りを抑えた、不自然なほど抑揚のない声で、瞬に告げた。
「俺は、おまえと一緒にいられるなら、この背に翼を生やして、他の人間たちと違うものになってもいい」
瞬が、同じような声で、彼の望みを口にする。
「僕は、氷河と一緒にいられるなら、これまで僕を傷付け守り、確かに僕の一部だった この翼を切り捨ててしまってもいい。僕を仲間と認めてくれなかった人たちと同じものになってしまってもいい」

その時、氷河は――そして、瞬も――自分がいつまでも一緒にいたいと心から願う大切な人が何を決意していたのか、気付くことができなかった。






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