「ヒョウガは本当はエティオピアの王になりたかったんでしょ。ごめんね、僕が嘘つきだったせいで」 二人がまた二人の個人に戻った時、シュンがそんなことを言い出したのは、それがずっとシュンの心に引っかかっていたことだったから――という事情もあったのだろうが、ヒョウガの愛撫と囁きの下で自分が演じた狂態を思い出して いたたまれない思いをしたくないという、一種の防衛機制がシュンの心に作用したせいでもあったかもしれない。 シュンをいじめて楽しむのは、もう少し二人の親密度が増してからの方が利口。 そう考えて、ヒョウガは、叶うならシュンに今すぐ伝えたい その肉体の美しさや官能の見事さへの賛辞を 無理に喉の奥に押しやったのである。 「おまえは嘘はついていないだろう。おまえは いつも正直だった。言わずにいた方がいいことは言わずにいる賢明さもあったな」 「隠し事は嘘じゃないの?」 「隠し事が嘘になるなら、おまえより俺の方が よっぽど嘘つきだということになる。信じるか? 俺はこう見えても、アルゴスの王子なんだぞ」 「えっ」 ヒョウガの告白を聞いて、シュンがぱちくりと2、3度 瞬きを繰り返す。 シュンが信じなかったとしても、ヒョウガはシュンを責めるつもりはなかった。 実際 彼は、これまで誰からも王子として遇されたことはなかったのだ。 「誰も認めてはくれないがな。おまえの兄と同じだ。母の身分が低くて、父がどこぞの王女を妻に迎えることになった際、母子共々 王宮を追われた」 「そんな……ひどい」 シュンが苦しそうに眉根を寄せる。 全く ひどい話だと、ヒョウガも思った。 それは もしかしたら格式の高い王家では ありふれた出来事なのかもしれなかったが、その出来事の犠牲にされる人間は、ありふれたことだからといって、我が身に降りかかった非情な運命を明るく甘受できるものではない。 「あ……だから、ヒョウガは王位が欲しかったの? 僕はそれを邪魔してしまったの?」 ヒョウガの腕に絡ませていた指を、自分がしてしまったことに怯えたように、シュンが ゆっくりと ほどいていく。 このまま逃げられてしまってはたまらない。 ヒョウガはシュンの身体を自分の胸の上に引き上げ、その腰に腕をまわして、シュンの逃亡を阻止した。 シュンを安心させるために、もう一度 視線で『愛している』と告げる。 「違う。俺は自由が好きだし、王族なんて面倒なだけのもののようだし――王だの王子だの、そんなシゴトが俺に向いていないこともわかっている。ただ俺は、父王に捨てられて死んだ母の無念を晴らしたかったんだ。それが俺の生きる目的だった。俺がメデューサの首で石にしてやろうと思っていたのは、俺の父、アルゴスの王――」 「ヒョウガ……」 肉親や国民の幸せだけを願って生きるという恵まれた生き方が許されていたシュンには、ヒョウガの考え、ヒョウガの生き方が、悲しく哀れなものに感じられたのだろう。 シュンの瞳は、見る間に涙の膜に覆われ始めた。 ヒョウガは、シュンの涙に少々慌てることになったのである。 ヒョウガは、シュンがこんなに涙もろい人間だとは思っていなかった。 こんな話を聞かされたら、シュンは、もっと建設的にもっと前向きに生きるべきだと、アルゴスの拗ね者に説教の一つも垂れてくるのだろうと、ヒョウガは思っていたのだ。 「今は、もう、そんなことは考えていない。今は、おまえと いつまでも一緒にいるにはどうすればいいかということだけを考えている。それが俺の新しい人生の目的だな」 てっきり、『そんな詰まらないことじゃなく、もっと壮大で建設的なことは考えられないの』と叱りつけてくるものとばかり思っていたシュンが、ぽっと その頬を上気させる。 その反応に虚を衝かれ、あっけにとられてしまったヒョウガに、シュンは更に彼の想像を絶する提案を提示してきた。 「ねえ、ヒョウガ。僕、これから、クレタ島のミノタウロス退治に行こうと思ってるの。一緒にいかない? クレタ島のミノタウロスには毎年14人もの子供が生け贄として差し出されてるんだって。クレタは金の国だよ。クレタのミノス王はミノタウロスの扱いに困り果ててるって話だし、ミノタウロスを倒せば ご褒美も たくさんもらえると思うんだ」 「ミノタウロス退治?」 「エリュマントスの猪でもいいし、レルネ沼のヒュドラでもいい。ネメアのライオン退治もいいね。たくさんの犠牲が出て、みんな困ってるんだって。もちろん、どの怪物も、倒した者には かなりのご褒美が出ることになってる」 「おまえ、男に戻って、自由になって、やりたいことはそれなのか?」 ヒョウガとて、本来の性に戻ることができたシュンが 女遊びに血道をあげ始めるようになるとは思っていなかったが、一見したところでは か弱い少女の姿の持ち主であるシュンが、まさか そんな危険な冒険の中に我が身を投じるようなことを企んでいたとは。 どこか静かな町に ささやかな二人の家を構えようなどという 小市民的なことを考えていた自分が、ヒョウガは ひどく温厚順良な男に思えてしまったのである。 そんな胆の小さい安定志向の男とは対照的に、シュンはどこまでも豪胆かつ果敢だった。 「せっかく命を授かったんだもの。世のため人のためになることをしなきゃ。それに実益が伴うなら、言うことはないでしょう。ねっ、一緒に行こ」 これまで多くの英雄志願者たちが命を奪われてきた怪物たちを、自分なら容易に倒すことができると、シュンは信じているようだった。 それが浅はかな うぬぼれでないことがわかるだけに、ヒョウガは、自分が恋した相手の傑物振りに 改めて感嘆してしまったのである。 「怪物を倒すたびに、おまえが俺に ご褒美をくれるなら、一緒に行ってやってもいい」 「え」 「怪物を倒すたび、おまえが俺と寝てくれるなら」 「そ……そういうことは、実際に怪物を倒してから言ってください!」 ヒョウガの軽口に腹を立てたように、シュンがぷいと横を向く。 そうしてからシュンは、ヒョウガに寄り添わせていた上体を起こし、いい加減に――身体を覆う程度に――身につけていた衣類の帯を結び、留め金を留め始めた。 そして、同じことをヒョウガに求める仕草を見せる。 「クレタに出る船、多分 今なら今日の最後の船に間に合うよ」 「これからか? そんなに急ぐことはあるまい。明日でもいいだろう」 恋し合う二人が初めて結ばれた夜――もとい、夕暮れ。 もう少し ゆっくりと余韻を味わっていたいというのが、ヒョウガの本音だった。 が、シュンはそうではなかったらしい。 シュンは、悠長に構えているヒョウガの腕を引いて、気ぜわしい口調でヒョウガを急かしてきた。 「そんな のんびりしていて、他の人に先を越されちゃったらどうするの! 怪物なんて、人間の数より ずっと少ないんだよ! 急がないと、ご褒美ができなくなっちゃうでしょ!」 不思議な文章でシュンに出立を促されたヒョウガは、だが、そう悪い気はしなかったのである。 シュンが ご褒美を 「早く早く! 今すぐ港に行けば、ぎりぎり今日の船に間に合うから!」 「はいはい」 恋する人が望んでいることが 自分の望むことと同じだということは幸福なことであるに違いない。 たとえ二人の主導権決定権をすべてシュンに握られてしまっていたとしても。 努めて前向きに そう考えて、ヒョウガは、シュンが差し出してくる手を取り、その場に立ち上がったのだった。 Fin.
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