時の神クロノスは、自分は 人間の運命を簡単に変えることができると言っていた。
そして、人間の存在のちっぽけさ、貪欲、醜さを見て、悦に入ることができると。
白鳥座の聖闘士は、真に偉大な神が誰であるのかを知り、神の力を恐れ震えながら一生を過ごすことになる。あるいは、時の神に感謝して一生を生きるだろう――と。

だが、今 氷河は、クロノスは人間を善良な存在と考えすぎている――と、内心で時の神を嘲笑っていた。
氷河は、偉大な神を恐れるつもりも、ましてや 彼に感謝するつもりもなかった。
クロノスは、時の流れを自由に操ることはできても、人の心を変えることはできない。
時の流れを操ることで人間の運命に関わることはできても、人の心を自在に操ることはできないのだ。
ギリシャの神々が――もしかしたら、この地上に存在する すべての神が――唯一できないこと。
それが人の心を変えることだった。
人の心は、時の流れからも 神が関わることのできる運命からも独立したものだから。
深く関わってはいるが、別個のものだから。

瞬は白鳥座の聖闘士のものになる。
白鳥座の聖闘士は、時の神を恐れることも 彼に感謝することもなく、ただ 自分の望みが叶ったことを喜び、己れの人生を生きていくだろう。
そう、氷河は確信していた。
自分は罪を犯したのか。
破ってはならないルールを破ってしまったのか。
そんなことを考え 罪悪感を感じても、それは全く無意味なことだと思うから。

龍座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士が恋に落ちる。
白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士が恋に落ちる。
あるべき運命がどちらだったのか、どちらが正しい運命だったのか、そんなことは誰にもわからないことなのだ。

「もし仮に おまえたちが この宮を抜け出ることができたなら、おまえたちは俺たちには構わず、まっすぐ次の巨蟹宮を目指せ。俺たちもそうする。俺たちに与えられている時間は短い」
その言葉を言うのが正しい運命だったのか、言わないのが正しい運命だったのか、誰に決めることができるだろう。
その言葉を言ったのも言わなかったのも氷河自身。
他からどんな力を加えられたわけでもない、氷河自身だった。
本当は最初から、白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士が恋に落ちることの方が正しい・・・運命・・だったかもしれない――正しい時間の流れだったかもしれないのだ。
運命とはそういうもの。その程度のもの。

だから、氷河は時の神を恐れるつもりも、彼に感謝するつもりもなかった。
人間が この世界に生を受けることと受けないことは 人間には変えることのできない運命だが、ひとたび生を受け、一個の人間として心を持ってしまったら、それは神にも変えられない力を持つ存在になる。
でなければ、人間が心を持つ他者から独立した存在として、この世界に生まれてくる意味がないではないか。

「瞬」
遠くない未来に 自分のものになるだろう美しい命の名を呼ぶ。
瞬は僅かに目許を朱の色に染め、恥ずかしそうに氷河を見詰めてきた。
白鳥座の聖闘士の心を変えることができるのは この優しい瞳と瞬の心だけだと、氷河は信じていたし、事実もそうだった。






Fin.






【menu】