信じ難い その展開に 星矢がぽかんとしている間にも、沙織は次から次へと決裁書類に判を押していく。
そのスピードは、光速の拳を見切ることのできるアテナの聖闘士たちの目をもってしても 追いきれないほど 素早いものだった。
「オーライ。じゃ、そういうことで。瞬、よろしくね。星矢、特に注文がないのなら、今年のクリスマスケーキは、スタンダードなイチゴのショートケーキにするわよ。それで文句はないわね?」
「沙織さん、ちょっと待てよ!」
「さ……沙織さん、ちょっと待ってください!」
沙織を引きとめようとした星矢は、沙織に華麗に無視された。
沙織を引きとめようとした瞬は、氷河に腕を掴まれた。

「瞬」
「はいっ!」
氷河に名を呼ばれた瞬が、大神ゼウスの雷霆に打たれでもしたかのように、全身を硬直させる。
身体を強張らせている瞬の両腕を掴み、振り返らせ、あろうことか、氷河はその場で 瞬を口説き始めた。

「俺では駄目か」
「だ……駄目っていうわけじゃないけど、これはそういう問題じゃないでしょう」
「他に好きな奴がいるのか」
「そ……そんな人はいないけど、これはそういう問題じゃないでしょう」
「俺が嫌いなのか」
「き……嫌いなわけないけど、これはそういう問題じゃないでしょう」
「俺をどうしても好きになれないと思うのか」
「す……好きになれないわけじゃないけど、これはそういう問題じゃないでしょう」
「俺とおまえが付き合うことに、何か問題があるのか」
「も……問題なんかないけど、これはそういう問題じゃ……えっ……」

思ってもいなかった展開――それも、かなりの急展開――に慌て、瞬は言葉の意味も ろくに考えずに、氷河が矢継ぎ早に問うてくることに答えていたらしい。
自分が口にした文章が論理的におかしいことに気付いて、瞬は、少し落ち着こうと考えたようだった。
そこに、瞬から考える時間を奪うように、氷河が強い口調で“結論”を突きつけてくる。
「俺は、おまえが好きなんだ」
「あ……の……」
氷河の素早い攻撃によって、瞬は ほとんど思考能力を奪われていた――おそらく。
「ぼ……僕は……」
そして、氷河に突きつけられた“結論”に、瞬は ただただ戸惑っていた――おそらく。

だが、その場にいる青銅聖闘士たちの中で最も驚き、呆れ、混乱し、思考能力が低下していたのは、実は瞬よりも星矢の方だった――かもしれない。
彼にとっては最悪最凶の陰湿で嫌味で執念深い いじめっ子が、自分の命と人生が瞬の返事ひとつにかかっていると言わんばかりに真剣な目をして、全身を緊張させ、瞬の前に立っている。
天馬座の聖闘士の可愛い女の子探しに ほいほいついてきた(と、星矢は思っていた)瞬が、そんな氷河の前で、嫌悪の表情も見せずに もじもじしている(ように、星矢には見えていた)。
そういう場面を見せられて、呆けることなく 明晰な思考力と判断力を保っていろと言われても、それは星矢には無理な話だったのだ。
そんな星矢に、紫龍が低い声で こっそり、
「おまえ、本当に気付いていなかったのか。氷河が瞬を好きでいること」
と耳打ちしてくる。
それで、星矢は はっと我にかえった。

「おまえは気付いてたのかよ!」
ならば なぜもっと早くに――せめて、今朝 自分が瞬より可愛い女の子探しに出掛ける前に、その重要な事実を教えてくれなかったのか。
星矢の声には、明白に紫龍に対する非難の響きが混じっていた。
紫龍が訳知り顔で、星矢の非難に答えてくる。
「おまえが瞬より可愛い女の子を探しに行ったことを知った時には呆れ顔だった氷河が、瞬も引っ張られていったと聞いた途端、ブリザードを発生させ、ガトリング砲を発射し始めたからな」
「つまり、今日気付いたんじゃん。偉そうにしてんなよ!」
そういう時系列なら、紫龍が今朝 仲間の外出を引きとめてくれなかったことを責めることはできないが、同時に、『おまえは気付いていなかったのか』と紫龍に呆れられる いわれもない。
半日 早く真実に辿り着いただけの仲間の訳知り顔を糾弾してくる星矢に、紫龍は肩をすくめ 微かに苦笑した。

「確かに、もっと早くに気付くべきだったな。おまえが氷河のヒスのターゲットになっていたのは、つまり、おまえがいつも瞬の側にいたからだったんだ。当たりまえの顔をして瞬の隣りにいるおまえが、氷河には目障りだったんだろう」
「えーっ !? 」
氷河のいじめの理由がそれだったというのなら、そのいじめから逃れるために、瞬の隣りの席を氷河に譲るくらいのことは いつでもしてやったのにと、今更 過去を悔やんでも後の祭り。
氷河の陰湿ないじめに じっと(?)耐えていた これまでの長い苦難の日々は いったい何だったのかと思うほどに、星矢の胸の中を乾いた木枯らしが空しく通り過ぎていく。
この空しさが癒される日は いつか来るのだろうかと思うほどに、星矢の空しさは募るばかりだった。

「氷河は、瞬以上に可愛い子となら付き合うと言ったんだ。瞬しかいないじゃないか。瞬がチョモランマの頂だと言ったのは、おまえだろう」
「け……けどよ。瞬はあれでもオトコだぜ?」
とりあえず、社会通念上の問題を一つ提示してみる。
それはかなりの大問題のはずだと星矢自身 思っていたのだが、その大問題を口にする彼の顔にも口調にも、ほとんど力らしいものは こもっていなかった。
沙織が“社会通念”なる単語を鼻で笑ってみせたように、氷河もまた、そんなものは歯牙にもかけないに違いない。
自分の“可愛い”の標準が瞬であることと、その標準を超える“可愛い”が存在しないこと。
氷河には、それ以上に重要なことはないのだ。

「その件については、俺はノーコメントを貫かせてもらう。だが、これだけは言える。氷河が瞬に振られるようなことになったら、おまえは これまでより一層 殺伐度を増した氷河に いびり殺されることになる。十中八九、間違いない」
「うえ……」
紫龍の予言は100パーセントの確率をもって実現するだろう。
星矢はそう思った。
そして、心の底から ぞっとした。
こうなると、社会通念も倫理も道徳も宗教的タブーもあったものではない。
人間の命は、社会通念より、倫理や道徳より、宗教的タブーより、重く かけがえのないものなのだ。

「な……なんとか、瞬に OKを言わせよう。瞬はアンドロメダ座の聖闘士なんだ。人類のために犠牲になるのは慣れてるだろーし。おい、瞬!」
今は、社会通念上 問題のある展開に呆けている時ではない。
己れの命を守るため、星矢は慌てて その顔を上げ、社会通念上 問題のある恋に戸惑っている(はずの)瞬の方に視線を巡らせた。
のだが。

己れの命に危険を感じ、臨戦態勢に入ろうとした星矢が、そこに見たものは、
「あの……氷河は、ほんとにそれで問題ないって思う……?」
いかにも『思う』と答えてもらいたそうな口ぶりで、氷河に そう尋ねている瞬の姿だった。
そして、もちろん氷河は その期待に応えたのである。
「おまえが俺を好きでいてくれるのなら、それで何の問題もない」
「そ……そうだよね! 誰に迷惑のかかることでもないし、僕が氷河の隣りにいたって、何の問題もないよね……!」
氷河に確認を入れているというより、自分に言い聞かせているような、瞬の その口調。
そこで展開されていたのは、瞬に『OK』を言わせるための第三者の画策など全く必要なさそうな、おめでたくも ほのぼのとした春の お花畑の光景だった。

「……そういや、瞬の“綺麗”の標準は氷河だって、瞬が言ってた……。氷河の顔だけ好きな女の子が氷河の側にいるのは嫌だとも――」
つまり、そういうことだったのだ。
その表現の仕方は、氷河も瞬も全く素直でなく、全く大らかでもなかったが、二人は最初から互いに互いを憎からず思い合っていた――らしい。

「瞬の標準値設定には 少々問題があるような気がするが、要するに、毎日見慣れている氷河がいいんだろう、瞬も。標準というのは人の心を落ち着かせ、安んじさせるものだからな。定番中の定番、標準中の標準、イチゴのショートケーキが廃れない理由も、そのあたりにあるんじゃないのか」
星矢より半日早く氷河の気持ちに気付いていた紫龍も、これほど早く、しかも あっさりと、氷河の恋が実ってしまうのは予想外のことだったのだろう。
星矢のぼやきを聞いて、紫龍は初めて 心から合点のいった顔になった。

が、紫龍と違って星矢は、そう単純に氷河と瞬の恋の成就を喜んでもいられなかったのである。
「何が標準のチョモランマサイズのイチゴショートだよ。もっと早くに氷河の気持ちに気付いてたら、俺は奴に いじめられずに済んでたんだって思うと、空しいっていうか、アホらしいっていうか……。俺、ただの いじめられ損のくたびれ儲けじゃん。ほんと、なんで俺、もう少し早く気付かなかったんだろ……」
「まあ、人は誰でも、どんな問題ででも、その判断には自分の標準値を用いるものだからな。おまえの中には、オトコの氷河がオトコの瞬を好きでいることはありえないという、道義上の“標準”があったんだろう」
「そんな標準設定は、本日ただ今、綺麗さっぱりリセットされたよ! オトコの氷河がオトコの瞬を好きになることは ありえないことじゃない、むしろそれが標準だってな」
「そうしておいた方が、俺たちも心穏やかに二人を見ていられるな。標準値の設定は、その人間の人生と幸不幸を左右する、実に重大かつ重要な作業だ」
「ああ、嫌になるくらい身にしみたよ!」

その標準設定を誤ってしまったために、星矢は、益のない いじめに合い、長い忍耐の日々を強いられ、あげく、楽しいクリスマス前の貴重な1日を完全に無駄に過ごしてしまったのである。
星矢には学習能力があった。
そして、星矢には、頑なに従前の標準に固執して、あえて自分の人生を つらく苦しいものにする被虐趣味はなかった。
星矢が速やかに 彼の中の標準設定を変更したのは、ごく自然にして当然のことだったろう。

人間の人生において、標準値の設定ほど重要なものはない。
その年のクリスマス。
定番中の定番にして標準中の標準であるイチゴのショートケーキを食べながら、星矢は心から そう思ったのだった。






Merry Christmass






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