「瞬、私、あの絵を他の人に譲り渡そうかと思っているのだけど、構わないかしら」
沙織が瞬に そう尋ねてきたのは、瞬が 本当に見ていたいものを好きなだけ見ていられるようになって数日が経った頃。
その頃には既に、瞬が青色の風景画に目を向ける時間は、外出時帰宅時の1、2分ほどに減っていた。
「青の風景画をですか」
「ええ。例の一目惚れの彼氏のご尊父の友人に、東山ブルーのものすごいファン――というか、マニアのコレクターがいてね。我が家に あの絵があることを聞いて、ぜひ譲ってほしいと何度も打診を受けていたの。あの絵はもともと あなたが気に入ったから買ったようなものだったし――。最初は私が買った値の1割増しと言っていたのだけど、どんどん値が上がっていて、今日 ついに5割増しの値を提示してきたのよ」
つまり、このあたりが そろそろ売り時と、沙織は判断したらしい。
沙織は一応 瞬に遠慮しているようだったが、沙織のその話を聞いて、瞬はむしろ安堵することになったのである。
自分の我儘で買ってもらったような絵で、沙織が利益を得られるというのなら、瞬にとって それは小さな救いだった。

「その方に譲ってあげてください。僕は、代わりの青を――いいえ、本物の青を手に入れました」
隣りに立っている氷河の顔を ちらりと見上げてから、瞬が沙織に頷く。
おそらく瞬はそう答えると確信していたのだろうが、瞬の返事を聞いた沙織は心を安んじたように、目許に笑みを刻んだ。
「よかった。マニア氏も喜ぶわ。あの絵、綺麗なんだけど、凛としすぎていて、今ひとつ来客を歓迎している感じがしないでしょう。年が明けたら、年始の挨拶の客が大勢くるのに、あれじゃ素っ気なさすぎるから、もっと親しみやすい絵に変えようかと思うの。あの絵は、多くの人を迎え入れる絵じゃなく、絵と絵の鑑賞者が一対一で向き合う絵なのよね。玄関に置くにはちょっと不向きだったのかもしれないわ」
「そうですね」

おそらくそうだったのだろう。
瞬自身、氷河の瞳を他の誰かと一緒に見ていたいとは思わなかった。
そして、氷河の瞳だけに見詰められていたいと思う。
あの青い絵は、そういう絵なのだ。
「いいのか」
あの絵に対する瞬の執着心を まだ忘れきっていないらしい氷河が、小声で瞬に尋ねてくる。
瞬は 心配顔の氷河に微笑を返した。
それで話は決まったものと、沙織は判断したらしい。
「よかった。今の瞬なら、そう言ってくれると思っていたわ」
彼女は晴れやかに笑って、今日にでも画商を呼び 年始の訪問客を迎えるにふさわしい明るい絵を新たに求めるつもりだと、瞬に告げたのだった。



――が。
20世紀屈指の日本画家 東山魁夷の青の風景画が 城戸邸のエントランスホールの壁から取り外された2日後、同じ場所に掛けられた“もっと親しみやすい絵”に、城戸邸に起居する青銅聖闘士たちは目を剥いてしまったのである。
それは、縦が3メートル、横が2メートルはあろうかという巨大な絵だった。
1950年代アメリカポップアート風、紅白を基調とした巨大な招き猫のコラージュ。
東山魁夷の青の風景画との あまりのギャップに、氷河は――瞬ではなく氷河が――激しい頭痛に襲われてしまったのである。

「い……いったいもこの絵のどこにグラード財団総帥の私邸の玄関に飾るほどの価値があるというんだ! 芸術性どころか、品位も格調もあったもんじゃないぞ、これは!」
氷河が沙織に問うと、グラード財団総帥にして聖域の女神アテナ答えて曰く、
「おめでたくていいでしょう。それにね、この絵、お値段が魁夷の青の風景の1万分の1だったのよ! 1万分の1!」
それは、グラード財団総帥にして聖域の女神アテナが嬉しそうに口にしていい『価値』なのだろうか。
氷河は、頭痛のみならず軽い目眩いまで感じ始めていた。


「どうして あの人は こんなに極端なんだ……」
懸命に頭痛と目眩いをこらえて、氷河は低く呻くことになったのだが、意外なことに、瞬は沙織の選択に 氷河ほどには衝撃を受けていないようだった。
瞬は、沙織が選んだ おめでたい紅白の巨大招き猫の雄姿を見上げ、にこにこ笑っていた。
「いいじゃない。沙織さんが この絵を気に入ったっていうのなら」
楽しそうに笑って そう言ってから、瞬が氷河の瞳を見詰めてくる。
自分が本当に見詰めていたいものを見詰めたまま、瞬は 小さな声で、
「僕、もう他の絵はいらないから」
と、呟くように言った。

瞬に そう言われると、氷河も悪い憑き物が落ちたように、絵のことなどどうでもいいような気分になってしまったのである。
グラード財団総帥の私邸の玄関先に飾られている絵が、巨大招き猫であれ、巨大七福神像であれ、確かにそれは どうでもいいことだった。
今 氷河の目の前では、自然が描いた人物画の最高傑作が 幸せそうに微笑んでいてくれるのだ。
氷河も、他の絵はいらなかった。






Fin.






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