城戸邸のラウンジの壁には100インチのディスプレイがビルトインで設置されているのだが、そこに映像が映し出されるのは、“格調高い”映画を鑑賞する時と、重大なニュースを見る時、あるいは 沙織が資料を映し出して何らかのレクチャーを行なう時に限られていた。 それ以外のことで テレビやパソコンの画像をディスプレイに映し出す際には、その場にいる者全員の許可を得るのが、城戸邸に起居する青銅聖闘士たちの不文律。 星矢がテーブルの上のパソコンの小さな――12インチの――ディスプレイを覗き込んでいたのは、つまり、それが星矢が個人的に見ているネット画像だったからだった。 その星矢が突然 顔をあげ、氷河と瞬に、 「なあ、おまえら、正月早々、二人でDランドにデートに行ってなかったっけ?」 と尋ねてきたのは、松の内も明け、世の中が通常営業に戻りつつある1月の とある日の午後のことだった。 瞬がすぐに、星矢の誤認の是正にかかる。 「聞こえの悪いことを言わないでよ。僕たちは、星の子学園の子供たちから 冬休み中にDランドに行きたいっていうリクエストがあったから、その下見に行ってたんであって、デートとか、そんなんで出掛けたわけじゃないんだから」 「言い訳はしなくていいの。別に俺は おまえらに置いてきぼり食わされたこと怒ってるわけじゃないから。そうじゃなくってさ、その日、Dランドの近くで事故を見なかったか?」 「え?」 「中型のトラックとフェラーリの衝突事故」 「あの赤い車、フェラーリだったかな……? 餅つき大会帰りの幼稚園バスの事故なら見たけど」 「ああ、それだ、それ」 星矢が、テーブルの上に置かれたパソコンの画面を一瞥してから、瞬に頷いてくる。 瞬は、だが、なぜ星矢が そんな事故の件に言及してきたのかが わからなかったのである。 事故が起こったのは何日も前。 派手な衝突事故だったにもかかわらず、深刻な怪我をした者も死者も出なかった。 それは、せいぜい地方新聞に掲載されるレベルの ささやかな(と言っては語弊があるが)事故だったのだ。 「それがどうかしたの。子供たちは全員無事だったはずだよ。Dランドの近くに住んでる子たちだけあってアトラクション慣れしてるのか、事故に巻き込まれたっていうのに、何だか興奮して楽しそうにしてた」 「なんで、おまえがそんなことまで知ってるんだよ」 それはもちろん、瞬が『そんなことまで』知ることのできる場所にいたからである。 星矢が その顔を嫌そうに歪めて問うてくるわけがわからず、瞬は首をかしげた。 「それって、Dランドの近くの、よりにもよって交差点のど真ん中で、花火を運んでるトラックとフェラーリが衝突して、その衝突を完全によけきれなかった幼稚園バスがトラックとフェラーリの間に突っ込んでって――」 「うん。バスは そんなに激しくぶつかったわけじゃなかったみたいだけど、ドアの開閉のためのバネが切れたらしくて、乗ってる子供たちが車外に出られなくなってたんだ。トラックの荷台には火気厳禁みたいな注意書きのプレートが貼られてたし、だから、万一のことを考えて、僕と氷河でドアをこじ開けて、乗ってた子供たちと運転者さんをバスの外に避難させたの」 「で、そのあと、トラックの運転手とフェラーリの運転手も車の中から引きずり出して、避難させてやった?」 「だから……トラックが爆発でもするのかと思ったんだもの。トラックも赤い車の方もボンネットがひしゃげてて、やっぱりドアがまともに開かなくなってたんだ。だから、氷河がトラックの運転手さんを、僕が赤い車を運転してた人を車内から外に引きずり出したの」 「やっぱり……」 星矢の嫌そうな顔がますます派手に歪んでいく。 当然、瞬がかしげる首の角度も 更に大きなものになった。 「事故の原因はフェラーリのスピードの出しすぎと、トラック運転手のよそ見」 「そうだったの?」 「ああ。ネットのニュースに出てる。フェラーリを運転してたのは、20代半ばのにーちゃんだったろ?」 「だったかもしれない。それがどうしたの。重症の人はいなかったはずだよ。フェラーリってすごいね。あんなにボンネットが潰れてたのに、運転してた人はほとんど怪我もしてないみたいだった」 「そう、みんな、軽症だった。ぶつかった車の処理と現場検証に時間がかかって、国道の通行止めが2時間続いたのが最大の被害といえば被害で」 「でも、お正月だったから、交通量はいつもより少なかったみたいで、そんな大きな事故じゃ――」 「大事故じゃないけど、大事件だったんだ。いや、大事件になったんだよ。そのフェラーリを運転してたのがJPN自動車工業の代表取締役社長のぼんぼんでさ。大した怪我人も出なかった事故だったけど、目撃者が多すぎて、さすがに揉み消すことができなかったらしい。事故は ぼんぼんだけの責任じゃなかったけど、聞こえが悪いだろ。自動車作ってる会社の社長の息子が自動車事故を起こして、その上 乗ってた車が親父の会社の車じゃなくて、高級外車。多分、それで批判を逸らそうとしたっていうか、目くらましを図ったっていうか――」 「目くらまし……?」 いったい星矢は何を言おうとしているのか。 何が不愉快で その表情を歪めているのか。 瞬には 本当に、全く事情がわからなかった。 ただ一つの仮説すら思いつかない。 困惑した視線を氷河の方に巡らすと、それは氷河も同様だったらしく、彼は彼に目で問うた瞬に 無言で肩をすくめるという答えを返してきた。 「目くらましってどういうこと?」 「目くらましは目くらましだよ。人様に見てほしくないことを見ないでいてもらうために、代わりの何かで人の目を引くこと。この場合は、自動車製造会社の社長の息子が交通事故を起こしたことを忘れてもらうために、事故の際 自らの命の危険を顧みず 人命救助に当たってくれた人の勇気を称え 礼をしたいから名乗り出てほしいと公に訴えること」 「え」 「当人に500万円、情報提供者に 提供情報の内容に応じて数万から数十万の謝礼金を支払う用意があるんだと。金にあかせて、ど派手なキャンペーンを張ってくれてる」 「……」 星矢の語る“目くらまし”の内容を聞いて、瞬は一瞬 あっけにとられた。 そして、星矢の言う通り、それは正しく“目くらまし”なのだろうと考えた。 そのキャンペーン自体が、瞬には全く意味のないものに思えたから。 「僕たち、そんな大したことをしたわけじゃないよ。車が炎上しなかったのなら、僕たちが助け出さなくても、いずれ警察の事故処理の人が車内から彼等を救出してただろうし。だいいち、僕たち、お礼がほしくて、あんなことしたわけじゃない」 それはそうだろう。 それは星矢にもわかっていた。 キャンペーンを張っている側の者たちも、もしかしたら わかっているのかもしれない。 金も人々の賞賛も 命あっての物種。 自らの命の危険を顧みず人命救助に当たるような人間が、そんなものを欲しているはずがない――と。 もしそうなのだとしたら なおさら、それは紛れもなく“目くらまし”である。 「人命救助に当たった人の靴が片っぽ 現場に残ってたって言ってるけど、それ、おまえんだろ」 「うん。そうなんだ、途中で脱げちゃって。取りに戻ろうとしたんだけど、爆発するかもしれないって氷河に止められて、そのあとひどい目に合った」 「ひどい目?」 「平気だって言ったのに、氷河が、靴をなくした僕を抱き上げて、運ぼうとするんだもの。恥ずかしいからやだって言ったのに、結局 駅前まで……ほら、何ていうの」 「お姫様抱っこ」 「やだなあ、その呼び方。その何とか抱っこで駅前のタクシー乗り場まで運ばれちゃって……」 「そのあとは、俺も知ってる。おまえらはタクシーで ここまで帰ってきて、氷河の奴、おまえを お姫様抱っこして、意気揚々と玄関に入ってきたんだ」 「タクシー代が4万円近く かかったんだよ。どこかでスニーカーでも買って電車で帰ってきた方が絶対 安くついたのに」 アジア随一の財力を誇るグラード財団総帥の私邸で、自分の1ヶ月間の生活費がどれほどの額になっているのかも知らないような生活を送っている人間にしては勘定高いことを言って、瞬は不満顔になった。 タクシー代の多寡は気にするのに、500万円の謝礼金は欲しいと思わない――というのは、大いなる矛盾である。 しかし星矢は、今はそんな矛盾に言及する気にはなれなかった。 彼は、それどころではなかったのである。 嫌そうな顔を、落胆のそれ、もしくは脱力のそれに変え、星矢は疲れた声で、 「シンデレラ姫はおまえか、やっぱり」 とぼやくことになった。 「シンデレラ姫? 何のこと」 「目くらましキャンペーンにそういう名前がついてるんだよ。シンデレラ城のあるDランドの麓で 人命救助に務めた美しいお姫様を探すシンデレラ姫捜索キャンペーン。おまえが事故現場に残してきた靴の写真がテレビやネットで出回ってる」 「なにそれ」 「だから、事故を起こした会社の社長が、息子と自分への批判逸らしのために張った目くらましキャンペーンの名称が――何度 同じこと言わせんだよ。あーあ、面倒なことになっちまったなー……」 「……」 何度 同じことを言われても、瞬には理解できなかっただろう。 なにしろ瞬は理解したくなかった――認めたくなかった――のだ。 歴とした男子である自分がお姫様呼ばわりされ、あまつさえ、その捜索のために大キャンペーンが張られているなどという馬鹿げた事実を。 |