「氷河が帰ってきてるって、ほんと? でも、氷河は、次の戦いが始まるまで日本には戻らないって……」 瞬がラウンジにやってきたのは、それから10分後。 あとで 騒ぎの結末だけを報告するようにと言い残して、沙織は彼女の仕事に戻り、星矢の頭痛は少し治まりかけていた。 ラウンジのドアを開けた そこに 白鳥座の聖闘士の姿を見い出して、一瞬 輝いた瞬の瞳が、だが、すぐに その光を消し去って暗く沈む。 「瞬。この阿呆な手紙、やっぱり氷河が書いたんだってよ!」 無期限シベリア隠遁を宣言して北の国に去っていった氷河が 仲間の許に戻ってきてくれたというのに、なぜ瞬の瞳は暗く沈んでいるのか。 その理由は星矢には わからなかった。 ともかく氷河の阿呆振りをネタに 場を明るくしようと考えて、星矢は わざと呆れた口調で その事実を瞬に告げたのである。 だというのに、告げられたシュンは、残念ながら一向に明るい表情にはならず、 「そう……」 という短い答えを返してきただけだった。 「そう……って、おまえ、この阿呆な手紙の意味が わかってんのか? だから、そんな、どよーんと暗い顔してるのかよ?」 星矢は、もちろん、手紙の謎を解きたかった。 つい数刻前までは、不可解な謎の存在それ自体が気持ち悪かったから。 今は、瞬の暗い表情を消し去りたいから。 氷河の手によって書かれた たった一つの文字が、なぜここまで瞬の頬を青ざめさせるのか、星矢には全く わからなかったのである。 声を発するのをためらっているような素振りを一瞬 見せてから、瞬が覚悟を決めたように 重い口を開く。 「……氷河は、新しい戦いが始まるまで帰ってこないって言って、シベリアに向かったんだ。僕、その前の夜に氷河と一緒にいたから、その時に僕が何か氷河の気に障るようなことをしてしまったんだと……。でも、氷河は何も言ってくれなくて――僕を責めてもくれなくて、だから氷河は 僕がしちゃった何か腹の立つことを封筒の中に封印して、シベリアに行ってしまったんだろうと――」 「前の夜に一緒にいた――って、おまえら、いつのまに……」 「馬鹿な勘繰りをするな! 俺は、雪の中にいる瞬を見ていただけだ!」 てっきり それで二人の間に何もなかったことはわかったのだが、おかげで星矢の中にある疑念は 更に大きくなってしまったのである。 何もなかったのなら、瞬は、“氷河の気に障るようなこと”をすることもできないではないか。 「まるっきり、意味がわかんねー。愚鈍な俺にもわかるように説明してほしいんだけど」 「だから……雪の中で楽しそうにしている瞬が綺麗で可愛かったんだ」 「へ……?」 「頭を冷やそうと考えてシベリアに行ったんだが、シベリアの寒気でも俺の頭は冷えてくれなくて、俺が瞬の側にいないうちに瞬に何かあったらと思うと、逆に頭が沸騰して、いても立ってもいられなくなって――」 「要するに、おまえは、ある意味、瞬の推察通り、瞬を封印してシベリアに逃げたというわけか。にもかかわらず、瞬と離れていることに耐えられたのが たった1週間だったというわけだ」 「なら、せめて、瞬を疑心暗鬼にさせないような理由の一つや二つ、適当に捏造してから、シベリアでもアラスカでも好きなとこに行けばよかっただろ。何にも言わずに ふらっといなくなるから、瞬は……つーか、そんな後出し情報、本格推理小説なら完全に卑怯呼ばわりされるぞ! 何が綺麗で可愛かったから、だ。あほらしい」 「氷河を責めるわけにはいくまい。これはミステリーではなくラブストーリーだったんだ」 これがミステリーではなく ラブストーリーだったというのなら、なおさら氷河には才能がない。 文才は言うに及ばず、表現力も、物語構成力も、何より観察力と自己分析能力が欠如している。 星矢は――星矢でさえ、そう思った。 「何か書こうと思っても、瞬の名前しか出てこなかった――ってさ、それがなんでなのか、おまえ、ほんとに わかっていないのかよ? だとしたら、おまえホンモノの阿呆だぞ」 星矢が、忌憚なく、その思うところを口にする。 幸い 氷河は、星矢が案じるほど深刻な阿呆ではないようだった。 「瞬と離れていたら、わかってきた」 少々――否、かなり――自身の感情の理解に時間を要するだけで。 「そりゃ、よかった。さっさと瞬に白状した方がいいぞ。瞬は何か誤解してるみたいだし」 ただの阿呆でもホンモノの阿呆でも、仲間は仲間である。 友情と親切心から、星矢は 自身の感情把握能力に問題があるらしい氷河に助言した。 紫龍が星矢の言葉の選択に眉をしかめる。 「白状とは……。せめて告白と言ってくれ。だが、急いだ方がいいのは星矢の言う通りだ。瞬は、どういうわけか おまえに嫌われてしまったと誤解しているようだ」 「どういうわけか……って、だって、氷河は、二人で特別な夜を過ごした その次の日に 急にシベリアに行くって言い出したんだよ! 僕が何か氷河の気に障るようなことをしたんだと思うのは、そんな変なことじゃないでしょう……!」 “変なこと”ではないかもしれないが、それが完全な誤解であることは紛れもない事実である。 しかも、かなり方向を間違えた、かなり馬鹿げた誤解。 星矢は そろそろ、鈍くて方向音痴な二人の仲間に付き合うことに疲労と脱力感を覚え始めていた。 「二人で特別な夜を過ごした――って、おまえも誤解生む言い方すんなよ」 「だって……」 星矢の指摘を受けて、瞬が 身の置きどころをなくしたように 身体を縮こまらせる。 それは、瞬には特別に感じられる夜だったのだろう。 星矢も、その件に関しては、それ以上 瞬を追求する気にはならなかった。 「だって、僕……僕の名前だけ書いた手紙――って、あの、『王様の耳はロバの耳』みたいに、氷河は 何か僕に対して腹に据えかねたことがあって、それを自分の中に閉じ込めておけなくなって手紙に吐き出して、僕を責めずに済むように、僕の顔を見なくていいところに行っちゃったんだと思ったんだもの……」 「まあ、ある種の思いを自分の中に閉じ込めておけなくなって、氷河があの手紙を書いたのは事実なんだろうが――」 瞬の身体が どんどん小さくなっていく。 『瞬の身体が消えてしまう前に、さっさと それを“白状”してしまえ』と 紫龍の視線に促されたからでもないのだろうが、氷河がやっと(?)ラウンジのドアの前に所在無げに立っている瞬の側に歩み寄っていく。 氷河の手が瞬の頬に触れると、瞬は一度 大きく身体を震わせた。 「今なら、『瞬』に続けて書くべき言葉が何だったのか わかっているんだ。わかったから、帰ってきた」 そうして、氷河は、瞬の耳許に、その言葉を囁いた――のだろう。 青ざめていた瞬の頬は一瞬で薔薇色に染まり、瞬は嬉しさに戸惑っているように幾度も瞬きを繰り返した。 「あの……あの……今度 雪が降ったら、また二人で見ようね」 「ああ。次の雪が降るのを一緒に待とう。いつまでも」 「うん……」 その鈍さと方向音痴で 散々仲間に迷惑をかけてくれた二人が、呆れるほど迅速に、二人きりの世界を構築してのける。 二人は、その場にいる仲間たちの存在を、完全に彼等の意識の外に追い出してしまっていた。 「あの封筒、おまえが子供の頃に 綺麗なもみじを見付けたと言って俺にくれた時の封筒なんだぞ。綺麗なものしか入れないに決まっているだろう」 「氷河、そんなもの ずっと持っててくれたの」 「あの時もらった もみじも持ってる。セロハンに包んで」 「氷河……。やだ、僕、嬉しい……」 とか何とか、二人は大真面目に いちゃついているのだが、第三者にしてみれば それは、『そこまでするほどの相手への気持ちを1週間前まで自覚できずにいたなんて、おまえは正真正銘の ど阿呆か!』レベルの たわ言だった。 謎というものは、解けてしまえば他愛のないものなのである。 謎を作った当人たち以外の第三者にとっては。 それが恋の謎なら なおさら。 Fin.
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