瞬のその切ない望みを叶えてくれたのは、それまで 自分と瞬の墓を無言で見下ろし見詰めていた氷河だった。
とはいえ、瞬の罪を認め責める氷河の声と口調は、極悪人を弾劾する者のそれというより、拗ねた子供のそれだったが。
すっかり拗ねてしまった子供のような口調で、氷河は瞬に言った。
「ふん。どうせ そんなことだろうとは思っていたんだ。おまえはいつも俺より一輝が大事で、感情より理性が勝っていて、自分の気持ちや俺の気持ちより正義正道を優先させる。おまえは 俺の気持ちなんか わかろうともしない」
「あ……」
「おまえは、恋より正義正道を選ぶ冷たい奴なんだ」
「氷河……」

望んでいた通りに その罪を責められて、瞬が つらそうな目になる。
瞬は、自分を罪人だとは思っていたが、その罪は兄に対して為されたものだった考えていた。
自分が氷河に対して氷河を傷付けるような罪を犯したのだとは、考えたこともなかった。
そんな罪が成り立つ可能性さえ、瞬は考えたこともなかったのだ。
瞬が考えたこともなかった罪状で、氷河は瞬を責めていた。
が、その場にいた瞬以外の者たちは気付いていたのである。
氷河の声が妙に嬉しそうに弾んでいることに。

自分を助けるために、瞬が一輝に危険を冒してほしいと頼むこと――頼もうとしたこと。
一輝に生きていてほしいと願い、瞬が自分と共に死ぬ決意をしてくれたこと。
そのどちらもが、氷河には“嬉しいこと”でしかなかったのだ。
氷河の声が弾んでいるのは道理。
実際、氷河は瞬を責め続ける気は 最初からなかったようだった。
「まあ、俺は、そういうおまえが好きなんだから、文句を言えた義理でもないんだが」
氷河が わざとらしく――わざと 諦めたふうを装って――瞬の前でかぶりを横に振る。
瞬以外の者たちには、それは、『瞬と俺は、そこまで近しい仲だったのだ』と 得意がり、『前世でそうだったのなら、当然 今生でも』という野望と期待に気負い立っている様にしか見えなかった。

「それでも――俺より正義正道を選んでもいいから、正義正道に反しない限りにおいて、俺を受け入れてくれ」
「あ……」
だというのに――得意の絶頂にあり、更に高みを目指している氷河の貪欲な言葉が、瞬には、融通のきかない恋人を許し、罪を犯しかけた仲間を許そうとする寛容の言葉に聞こえているらしいのだから、人の耳、人の心というものは不思議なものである。
氷河の寛大寛容に心を打たれたらしい瞬の瞳には、涙さえ盛りあがってきていた。

ここは、地上の平和と安寧を守るために戦い死んでいった聖闘士たちの墓が並ぶ、神聖犯すべからざる場所。
しかも、聖域と全聖闘士を統べる女神アテナの御前。
命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちの目の前でもある。
そんな場所で、臆面もなく瞬を口説き始めた氷河に 意地悪をしたくなったとしても、それは星矢の心が ねじけているからではなかっただろう。
彼は『場所柄をわきまえろ』と、礼儀知らずの仲間に親切に忠告してやっただけなのだ。

「思いっきり、正義正道に反してるじゃん。おまえら、男同士だぞ。わかってんのか」
「星矢の言う通りよ。テンプル騎士団が異端とされた理由を知っていて? 彼等は、騎士団内で同性愛が横行しているという汚名を着せられて滅ぼされたのよ」
「星矢! 沙織さん……!」
星矢の意地悪にアテナまでが便乗していくのを見て、慌てたのは紫龍だった。
彼としては、この騒動には このまま大人しく収束してもらいたかったのである。
恋愛問題を抱えている聖闘士など、家庭に気掛かりを抱えているサラリーマンのようなもの。
仕事に集中できず、詰まらぬミスで会社に損害をもたらしかねない危険な存在ではないか。

「瞬。多分、そうした方がいいぞ。一輝がいない今がチャンスだ。一輝が戻ると、どう考えても、おまえらは反対される。一輝にしてみれば、氷河なんて ろくでなしと大差ない部類の男だろうからな」
「ろくでなし?」
白鳥座の聖闘士に味方してはいるが、決して白鳥座の聖闘士を褒めてはいない紫龍の推薦の辞に、氷河がぴくりと こめかみを引きつらせる。
氷河が、その場でただ一人の味方である紫龍を怒鳴りつけずに済んだのは、女神アテナの ぼやきのおかげだった。

「どこかの不粋な宗教とは違って、ギリシャの神々は、こと恋愛に関しては 至って寛大でリベラルよ。紫龍の頭って、本当に硬いんだか 軟らかいんだか わからないわね。私たちの冗談には真顔で反論してくるくせに、男同士の恋には反対しないの?」
沙織は そう言って龍座の聖闘士の価値観に疑問を呈してきたが、紫龍は決して同性同士の恋を奨励しているわけではなかったのである。
彼は ただひたすら、家庭内の いざこざのせいで仕事(バトル)に支障をきたし、会社(聖域)に損害を生じさせるという事態を招きたくないだけだった。
彼は一種のワーカーホリックと言っていいのかもしれない。
そんな紫龍に呆れたような一瞥をくれてから、沙織が氷河と瞬の方に向き直る。
そして、彼女は、恋し合う彼女の聖闘士たちに、実に堂々と言ってのけた。

「でも、一輝がいない今がチャンスというのは、紫龍の言う通りだわ。鬼のいないうちに さっさと既成事実を作ってしまうのがいいわね。そうすれば、一輝も何も言えなくなるでしょう」
「既成事実って……。沙織さん、それも冗談なのかよ?」
こと恋愛に関しては至って寛大かつリベラルなギリシャの神の一柱とはいえ、それは 仮にも処女神アテナが言っていいようなことなのか。
寛大かつリベラルなのにも ほどがあるだろうと、星矢は疲れた声で 知恵と戦いの女神に尋ねることになったのである。
わざわざ問うまでもなく、アテナが本気で そう言っていることは、星矢にはわかっていたのだが。

そんな星矢とは対照的に、アテナの激励(?)を受けた氷河は、俄然 押せ押せモードで、再び瞬の口説き落としに取りかかった。
「今生でだって、俺たちはいつ死ぬかわからない。時間は無限じゃない。俺は 時間を無駄にしたくないんだ。そして、俺は後悔もしたくない。俺は生きているうちに おまえを俺のものにしたい」
「氷河……。でも、僕は――」
「実際に言わなかったにしても、言おうとしたことを罪だと思うなら、おまえが その気持ちを消し去れないというのなら、二人で罪を贖おう。おまえに罪を犯させたのは俺だ」
「氷河……でも、あの罪は、一生をかけても贖えないかもしれない……」
「なら、永遠に二人で贖罪に務めよう」
「氷河……」

もともと好意を抱いていたところに、前世で恋人同士だった記憶までが蘇ってしまったのである。
瞬は本当は、氷河のその言葉を待っていたのかもしれなかった。
許されるものなら、もう一度 恋し合う二人になりたいと。
ただ 絶対にそれは許されることではないのだと、自分に言い聞かせていただけで。

氷河は上手くやった――と言っていいだろう。
彼が『前世で犯した罪など忘れてしまえ』と言っていたなら、瞬は決して氷河を受け入れることはしなかったはずだった。
『二人で贖罪に務めよう』と氷河が言ったから、瞬は氷河の胸に飛び込んでいくことができたのだ――。


「ものは言いようって こういうことを言うんだろーなー。氷河の奴、ありもしない罪をエサに、瞬をものにしやがった。一輝が知ったら、烈火のごとく怒り狂うぞ」
「しかし、この方がいい。一輝も、瞬に罪の意識を持たれたままでは生きにくいだろう」
ここは、地上の平和と安寧を守るために戦い死んでいった聖闘士たちの墓が並ぶ、神聖犯すべからざる場所。
しかも、聖域と全聖闘士を統べる女神アテナの御前。
命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちの目の前でもある。
そんな場所で 互いに固く抱き合い、すっかり二人だけの世界に没入している氷河たちの脇で、星矢は、恋し合う者たちの大胆と厚顔に恐れ入ることになったのだった。
恐れ入って、少し真面目な顔になる。

「人は本来は忘れるんだよな? それでいいんだよな?」
星矢が知りたいのは、『俺は自分が過去に犯した過ちを思い出し、贖わなくてもいいんだろうか』ということ。
紫龍は、星矢に ゆっくりと頷き返した。
「それが人間の正しい生き方だ。過去に犯した罪や過ちを すべて忘れ、過去に自分のものだった価値観に囚われることなく、新しい命を生きるのが。だいいち、人が皆、前世の恋人のことなんか憶えていたら大変なことになるだろう」
「うへー」
確かに、紫龍の言う通り、そんなことになったら 世界のあちこちに修羅場が出現することになりそうである。
妙に納得できる紫龍の言に、星矢は素直に合点した。

そんな星矢たちの横で、男同士のラブシーンに動じた様子もなく、沙織が僅かに眉を曇らせる。
「前世のことはさておくとして……。自分の上に起こった不都合を 何でも他人や社会のせいにするのも困りものだけど、何から何まで自分のせいにしようとする瞬の内罰的傾向は少々問題ね」
「そこは、ほら、沙織さんが、女神らしく偉そうに説教かましてやればいいじゃん」
「え? どうして私が? その必要はないでしょう。瞬には上手くフォローしてくれる仲間がいるもの。大丈夫よ。一人で生きているのではないことが、あなたたちの強みね」

沙織は、つまり、それが言いたかったらしい。
「なんだよ。それって、俺と紫龍に、ずっと氷河と瞬の お守りをしてろってことかよ?」
ということが。
とんでもない お役目を言いつかってしまった星矢が、露骨に 嫌そうに顔をしかめる。
アテナは、しかし、星矢の嫌そうな顔を全開の笑顔で受け流した。
「一生 退屈しないで済むわよ。私がそうだもの。あなたたちのおかげで、永遠の命も苦にならない」
「……」

あまりに 人間と人間の世界に親しんでしまった女神には、永遠の命が“苦”に感じられるようになってしまったのだろうか。
たとえ それが耐え難い“苦”であっても、この地上と地上に生きる人間たちのために、彼女は自身の死を望むこともできないのだ。
そんな女神の心を少しでも慰めることができるのなら、星矢と紫龍は、氷河と瞬の正義正道に反した恋も、その恋のせいで起こる幾多のトラブルも 我慢できるような気がしたのである。
正義正道に反する恋の ただ中にいる二人だけが、アテナや仲間たちの気も知らず ひたすら恋の幸せに酔っているようだった。
地上の平和と安寧を守るために戦い死んでいった聖闘士たちの墓が並ぶ、神聖犯すべからざる場所で。






Fin.






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