「お母様は、言葉にはしませんでしたけど、氷河に会えないことを とても寂しく思っていらっしゃいました。それで、僕、考えたんです。僕は 氷河と違って 無害な子供として後宮への出入りも融通がきく。僕が氷河の側にいけば、氷河の様子を しばしば お母様にお伝えすることができるようになるんじゃないかって。だから、僕、氷河の側に行きたいとお願いしたんです。お母様は、生まれた時から謀反の疑いをかけられている王子に仕えることは危険だと心配されて、最初は ためらっていらしたんですけど、僕の決意の固いことを知って、王陛下に働きかけてくださいました。そして、その時が来たら氷河の力になってほしいと、僕は氷河のお母様に頼まれました。まさか その時が こんなに早く来るとは思っていなかったけど――でも、間に合った」 「間に合った?」 「ええ。これが1ヶ月遅かったら、僕は氷河のために何をすることもできませんでした。――朝になれば、新しい侍官たちが氷河の様子を見にくるでしょう。僕、誰が来ても王子様はまだお休みですと言って時間稼ぎをします。どんなに頑張っても お昼くらいまでしか時間稼ぎはできないと思うけど、その間に 氷河はなるべく遠くまで逃げてください」 「……」 母が、“妻の代わり”をさせるために、瞬を我が子の許に送り込んだのだとは、氷河には思えなかった。 おそらく、瞬を氷河の許へという母の願いを聞いた者たちが、それを勝手に下卑た方に解釈し、瞬を利用することを考えた――あるいは 母の願いを渡りに舟と考えたのだろう。 その下卑た考えを聞かされた自分は、あろうことか 彼等の下種の勘繰りを真に受けてしまった――のだ。 氷河は、全身から血の気が引く思いがしたのである。 瞬には、“お母様の息子”が自分を抱いたことは、想定外のことだったに違いない。 その上“お母様の息子”は、瞬を時折 王宮の本殿に呼ぶ者を 瞬を仕込んだ男と邪推して、自分の母親に嫉妬したあげく、瞬に乱暴するようなことまでしてのけていたのだ。 母を慕っていた瞬には、氷河の母に会えること自体が嬉しいこと、心安らぐことだったのだろう。 にもかかわらず、下卑た考えしか持つことのできない“お母様の息子”は、瞬は以前の男に可愛がられて喜んでいるのだと 勝手に決めつけ、勝手に一人で嫉妬に苦しんでいた――。 「おまえは――」 あんな無体をした男を恨んでいるのかとは、恐くて訊けなかった。 「おまえは、訳もわからず、俺に抱かれていたんじゃないのか」 そんな訊き方に逃げる自分を、本当に卑怯な男だと、氷河は思ったのである。 だが、本当に恐くて訊けなかったのだ。 『おまえは、俺を恨んでいるのか。憎んでいるのか。嫌っているのか』とは。 「僕にも誇りというものがあります。それが氷河でなかったら、僕は自分の誇りを守るために、とっくに死んでいた」 それは、氷河が“お母様”の息子だから、かろうじて死なずにいられた――ということなのだろか。 それとも――。 抱いてはならない期待を抱いてしまいそうになっている自分に気付き、氷河は自分を叱咤した。 そんなことがあるわけがないではないか。 “お母様の息子”が瞬を我が物にした時、二人は出会って僅か半月、会話らしい会話を交わしたことさえなかったというのに。 「見苦しい言い訳をする男だと思うかもしれないが、俺は、おまえを、 「それは氷河のせいではありません。お母様が『息子の無聊を慰めるために 側に』と、僕を推挙してくださったのを、勝手に下卑たことに解釈した人たちが多かっただけのこと。でも、それは誤解です。氷河のお母様は、決して そんなことを考えてはいらっしゃいませんでした」 そうなのだろう。 瞬の言う通りなのに決まっていた。 それは わかっていたのだが。 「……おまえは、最初の夜から、その……男に愛され慣れているようで……。実際、俺は すぐにおまえに夢中になった。俺は 相当ひどい愛撫をしたと思うのに、おまえは俺の力任せの愛撫にも気持ちよさそうにしていて、とても未知の行為に怯えているようには見えなかった」 「ぼ……僕は……!」 見苦しい言い訳と思われることを覚悟して口にした弁解は、逆に、瞬を疑い責める言葉になってしまったらしい。 瞬は頬を真っ赤に染めて、首を横に振り、最後に その顔を伏せてしまった。 それは、氷河が初めて見る、瞬の羞恥の表情だった。 それまで ひたすら毅然としている瞬の様子を見せられ続けていただけに、氷河は その可愛らしさに面食らってしまったのである。 そして、まるで大変な罪を告解するキリスト教徒のように苦しげな口調で 瞬が告げる言葉に、氷河は二度 面食らうことになった。 「ぼ……僕は、ずっと氷河に憧れていたんだもの……! 氷河になって、氷河のように お母様を支えられる人間になりたいって。そんなこと、無理だってわかってた。でも、あの時――氷河に初めて抱きしめられた時、僕と氷河の体温が すっかり同じで、触れ合ってると どこからどこまでが自分で、どこからどこまでが氷河なのかが わからなくなって、僕は氷河の中に溶け込んでいるような気がして、僕は氷河になれるって思ったの。そう思った途端、何が何だかわからなくなって、き……気がついたら、気持ちよくなってしまっていたんだもの……」 気がついたら気持ちよくなってしまっていた――とは、言い得て妙である。 同じ夜、氷河自身が瞬と同じような体験をしていただけに、氷河には 瞬のその時の戸惑いが、手にとるようにわかった。 そして、そうであるならば、瞬も 自分と同じように、無用の嫉妬をして一人で空回りしていた愚かな男を愛していてくれるのではないか――少なくとも嫌ってはいないのではないか――という期待を、氷河は抱くことになったのである。 たとえ そうでなかったとしても――瞬ひとりを この王宮に残してはいけないと思った。 母が そんなことを許すはずがないのだ。 この可愛い健気なものを、頼れる者もない この巨大な王宮に たった一人で残していくことなど。 「マ……母は、おまえにそれしか言わなかったのか。俺に自由に生きろとしか?」 「はい……」 「嘘だ。母は、おまえに俺と一緒に ここを出ろと言ったはずだ」 それは氷河には確信と呼べるものだったのだが、瞬は氷河の前で力なく首を横に振った。 「僕は、氷河の自由を妨げるものにしかなれない」 「言ったんだな」 「僕は ここに残って、氷河への探索の手がのびる時を少しでも遅らせます」 「おまえは……!」 いつも素直で従順だった瞬が、そして実は聡明でもあった瞬が、なぜ 今この時に限って 愚鈍で頑迷な振りをするのか。 氷河には わからなかったのである。 本当に わからなかった。 たった一人で、他人しかいない この王宮に残って、瞬にどんな益があるというのだ。 「おまえは、俺と離れて平気なのか!」 「平気です」 平気だと言い切る瞬の瞳からは、ぽろぽろと涙が零れ落ちている。 だというのに、 「俺と一緒に来い」 そう命じた氷河に、瞬は首を横に振ってみせるばかりだった。 「なぜだ。一人でここに残っていたら――俺のために時間稼ぎをしたと知れたら、おまえはどんな罰を受けるかわからないんだぞ」 「お母様を お一人では逝かせられません。図々しいと思われるかもしれませんが、氷河のお母様は僕にとっても お母様でした」 「なら、なおさらだ。そんなことを母は望まない」 「行けません! 氷河は僕を愛してない! ううん、きっと憎んでる。なのに どうして一緒に行けるの!」 「……なに?」 瞬が何を言っているのか、氷河には 本当に理解できなかった。 瞬は瞳に涙を にじませ、その声は小さな悲鳴じみて必死。 だが、瞬がなぜ そんな馬鹿げたことを必死に訴えてくるのか、その気持ちが、氷河には皆目理解できなかったのである。 「俺がおまえを愛してないとか、憎んでいるとか、おまえは なぜそんなふうに思えるんだ。好きでなかったら、敵に送り込まれた間諜かもしれないと疑っている者を、毎晩抱いたりしない」 「それは……氷河が、あの時まで お母様以外の人の温かさを知らなかったからで、氷河は僕でなくても……」 「まさか」 「だ……って、だって、氷河は、時々 僕を憎んでるみたいに意地悪したり、乱暴したりして……。あれは、氷河が僕を憎んでいたからなんでしょう !? そういう時の氷河は、いつも ぞっとするくらい冷たい目で僕を見てた……!」 「いや、それは――」 自分の浅慮軽率を、今ほど後悔したことはない。 瞬の誤解の原因は、氷河の無用の嫉妬だった。 「それは、憎んでいたからじゃなく、愛していたからで――」 まさか、勝手に瞬の背後に男の影を感じて 嫉妬の怒りに任せ 乱暴を働いていたのだと、本当のことを瞬に言うわけにはいかない。 卑怯極まりない やり口とは思ったが、氷河は、瞬を責めることで、瞬の追求を 「俺の方こそ――俺はおまえに愛されていないのだと、ずっと思っていたんだぞ。敵意悪意がないとしても、おまえは 誰かの命令に従って、人形のように俺の言いなりになっているだけなんだと。おまえを愛するようになっていた俺が、そんなおまえに焦れたり 苛立ったりしたとしても、それは無理からぬことだとは思わないか」 「そ……そんなわけありません! 僕は、氷河に会う前からずっと、氷河だけを思っていました。氷河のお母様は、人間が生きていくには愛する人が必要なのだと教えてくださったけど、僕には、愛せる人なんて、氷河と氷河のお母様しかいなかった……」 「会って、がっかりしたろう」 「そんなこと……。氷河は美しくて、優しくて――僕は氷河の側にいられるだけで嬉しかったのに、氷河は、気が狂いそうになるくらい、僕を幸福にしてくれました」 どうやら 瞬には、強く命じるより、拗ねたり、落ち込んでみせたり、卑屈な振りをしてみせるのがいいらしい。 人を傷付けることなど思いもよらない瞬は、傷付き苦しんでいる気の毒な人間を放っておくことのできない性分のようだった。 これからずっと一緒に生きていくのである。 それは、氷河には非常に有益な知識だった。 「俺の方こそ、嬉しくて気が狂いそうだ。だが、狂うのはあとにして、とにかく ここを出よう」 二人の命と自由がかかっている今夜この時に、二人は互いの心を確かめ合うことに時間をとられすぎていた。 逃亡の計画は練りに練ってあったが、二人連れになるのなら、行動は より迅速にした方がいい。 「俺と一緒に生きていたいな? 本当は」 「はい。でも……」 「馬には乗れるか」 「どんな暴れ馬でも。僕は身が軽いから、きっと氷河より速く馬を走らせることができます」 「それは頼もしい」 「氷河のお母様が、その時のために馬の操り方を覚えておくようにとおっしゃったんです」 「そうか……」 やはり、母は、息子が一人で生きていかなくて済むように、何から何まで、先の先まで考えていてくれたのだ。 ならば、二人は幸せになれるだろう。 二人の幸せは、少しばかり 母が考えていたそれとは様相が異なるものになるかもしれないが。 そう、氷河は思った。 「確かめたいのはそれだけだ。行くぞ」 「でも、お母様が――」 瞬は、息子が逃亡したあとに、一人この王宮に残されることになる女性が心配らしい。 だが、氷河は、それは案じていなかった。 「モンゴルは死者には敬意を払う国だ。父は俺を愛してはくれなかったが、母のことは愛し大事にしていた。丁重に葬ってくれるだろう」 その一事だけで、氷河は、不吉な色を持って生まれてきた我が子を決して愛そうとしなかった父を許せるような気がしたのである。 もしかしたら、彼が彼の息子を愛そうとしなかったのは、その息子が愛する女性を窮地に追い込んだ疫病神だったからなのかもしれない。 あるいは、帝国にとって不吉と予言された息子に愛を示すことが、逆に息子を危地に追い込むことになるかもしれないと考えたからだったかもしれない。 今なら、氷河は、父の立場と心情を 氷河がそういう心境になることができたのは、おそらく彼が希望を手に入れたからだったろう。 金色の髪と青い瞳。 不吉な色を その身に備えて生まれてきたモンゴルの王子。 そんな自分を愛してくれるのは母だけだと思っていた。 だがそうではなかったのだ。 そうではなかったと信じられることが、今の氷河の希望だった。 「どこへ行くの」 「とりあえず、北へ。ルーシの辺りは俺と同じような金髪の人間が多いそうだからな。しばらく そこに紛れ込んで鳴りをひそめ、追っ手の様子を見て、見極めがついたら、おまえの好きそうなところへ」 「僕が好きなのは、氷河のいるところだよ」 「おまえ、あまり俺を嬉しがらせるようなことを言うな。静かにしていなければならないのに、叫び出してしまいそうだ」 嬉しさと、二度と母に会うことのできない悲しさで。 「氷河……」 おずおずと、瞬が その指で氷河の手に触れてくる。 喜びも悲しみも、瞬はわかってくれている。 そう思えることが、氷河の心を温かくし、そして その胸に勇気をも運んできてくれた。 人が生きていくために必要なもの。 氷河にとっては、瞬の その手がそうだった。 そうして、二人は、美しく優しかった女性の思い出の残るモンゴルの王宮を出たのである。 彼女が巡り会わせてくれた人と共に、他のすべてを捨てて。 その人がいてくれさえすれば、自分が生きていけることは わかっていたから。 Fin.
|