小宇宙を燃やしているわけでもないのに、瞬が周囲(主に氷河)に及ぼす春の空気の力は絶大である。 しかし、小宇宙を燃やしているわけではないので、その力は至って限定的。 ラウンジから瞬の姿が消えてしまうと、氷河の気分は途端に真冬のそれに逆戻りすることになった。 「本当に……春はいつ来るんだ」 瞬の姿を呑み込んでしまったラウンジのドアを見詰め、氷河が溜め息混じりに呟く。 「そりゃ、春になったら来るに決まってるだろ」 星矢が、『この男は何を馬鹿なことを言い出したんだ』と言いたげな顔で、正しいと言えば これ以上ないほど正しい答えを氷河に返してくる。 『おまえは何を馬鹿なことを言っているんだ』と言いたげな表情を作るのも面倒と言わんばかりの顔で、氷河は実際に言葉で星矢を怒鳴りつけた。 「おまえはそういう阿呆なことしか言えんのか! 俺の言う春とは、俺の春のことだ!」 「へ?」 『俺の春』とは、はたして いかなる季節か。 それ以前に、誰の許にも等しく訪れる季節に個人の所有格をつけることは許される行為なのか。 氷河の発言の意図がわからず 目を丸くした星矢の様子を認めて、紫龍が苦笑する。 飲食物への反応の迅速さに比して、それ以外の事象に対する星矢の素晴らしいまでの鈍さ。 こうであればこそ、星矢は いついかなる戦いにおいても、最後まで勝ち残ることができるのだろう。 そう考えて、紫龍は、星矢の態度に大いに感嘆し、また、大いに呆れてもいた。 「まあ、つまり、氷河は自分の恋がめでたく花咲く季節はいつ来るのかと、嘆き憂えているんだ」 紫龍の説明を受けて、星矢は やっと氷河の春と 彼の怒声の意味を理解したようだった。 食べ物以外のことへの関心が薄いといっても、だから星矢は それ以外のことすべてに無関心でいるわけではない。 氷河が瞬に 「んなの、まず、瞬に好きだって言うとこから始めなきゃなんないだろ。なのに、何を考えてるんだか考えてないんだかは知らねーけど、氷河はいつまでも何にも言わずに ぐずぐずしてるだけでさ。春の到来を遅くしてるのは、氷河自身じゃん」 命をかけた戦いを共にしてきた氷河の仲間たちは、仲間であるがゆえに 歯に衣を着せない。 今日も今日とて 言いたいことを言ってくれる星矢を、氷河はぎろりと睨みつけた。 「俺はぐずぐずしているわけではない。告白するだけなら、いつでもできる。しかし、俺は、無鉄砲に告白して玉砕するような事態は避けたいんだ。確実に瞬からOKの返事をもらえる状態にもっていってから、ムード抜群の最高のシチュエーション、最適のタイミングで――」 「いくらムード抜群の最高のシチュエーション、最適のタイミングで告白しても、瞬がおまえを好きでなきゃ、おまえに春は来ないだろ」 「だから、そんなことはわかっていると言っているだろう! しかし、瞬の気持ちは読みにくいんだ。瞬は、俺にも おまえ等にも、いつも優しく笑っているだけで――」 瞬と違って、氷河の気持ちは読みやすい。 氷河が今 非常に苛立っていることは、その関心の8割までが食べ物に向いている星矢にも容易に読み取ることができた。 そして、星矢には、氷河が苛立つ気持ちが わからないでもなかったのである。 「瞬が誰も 「そう、そうなんだ。瞬は、春のように広すぎて、深すぎて、核がどこにあるのかさえ、掴めない。時々 俺は、瞬の心を読むことができたらどんなにいいかと思うぞ」 「瞬の心を読めたって、どうしようもないだろ。そりゃ、瞬はおまえを嫌ってはいないだろうけど? 瞬がおまえを そういう意味で好きでいてくれなきゃ、話は始まらないんだから」 だからまず瞬に『好きだ』と告白し、瞬から『好きだ』という返事が得られたら春、『そういう気にはなれない』という返事だったら冬。 それ以外に決着のつけようはないのだから、さっさと告白してしまえ――というのが、星矢の考えだった。 だが、氷河の考えはそうではなかったのである。 氷河には、そもそも、当たって“砕ける”つもりがなかった。 彼は、春以外の季節を受け入れる気はなかったのである。絶対に。 「だから、どうして おまえはそういう単純な考え方しかできないんだ。人の心は単純に『好き』と『嫌い』に二分できるものじゃないだろう! いや、この場合は『OK』と『NG』か」 「へ? 『好き』と『嫌い』の他に何かあんのかよ」 「あるに決まっている。同じ『好き』でも、『仲間として好き』、『恋人として好き』、『一般的な人間として好き』と色々あるし、その『好き』にしたって、『とても好き』『まあまあ好き』『嫌いではない程度の好き』とレベルは様々だ。俺に対する瞬の『好き』が『仲間として好き』『まあまあ好き』程度のものだった時、もし瞬の心が読めたら、俺は 瞬の心を『恋人として好き』『とても好き』に変えるための画策することが――いや、効率的に努力することができるじゃないか。瞬が困っている時に、誰より早く手を貸してやって親切な男と思われたり、瞬が悩みごとを抱えている時に、すぐに相談に乗ってやって、俺がいつも瞬を気にかけていることに気付いてもらったり、まあ、そういうことが色々と――」 「おまえ、意外と、せこいこと考えてんだなー」 単純明快な二択――この場合は『OK』か『NG』の二択――が好きな星矢には、『OK』以外の返事は受け入れられず、ゆえにそのための努力も惜しむつもりはないという氷河の諦めの悪さが、単なる潔さの欠如に思えるらしい。 しかし、氷河は、他のことならいざ知らず、瞬との恋に関してだけは、“潔さ”などという美徳は、それこそ 全く お呼びでない美徳だったのだ。 「せこい? せこいとは何だ、せこいとは! 前向きな努力家と言え、努力家と」 思い通りに進展しない己れの恋に、それでなくても氷河は気が立っていた。 そこに、恋のなんたるかを知らない星矢に言いたいことを言われ、氷河の苛立ちが いや増しに増す。 結果として、怒りに変じることになった氷河の苛立ちは、ラウンジの室温を3度ほど降下させることになったのである。 おかげで星矢は、取り急ぎ 氷河の怒りを静めるための方策を講じなければならなくなった。 「あー……ああ、そういや、 「ハウンドのアステリオン? 何だ、それは」 「『何だ、それは』って……せめて『誰だ、それは』って訊いてくれよ、人名なんだから。魔鈴さんに倒された白銀聖闘士の一人なんだけど、そいつが人の考えてることを読める読心術の使い手で、いわゆるテレパシストって奴だったんだ」 「テレパシスト?」 星矢が講じた方策は、進むも退くもならない現況や理解力不足の仲間に対する氷河の怒りを静めるのに役立ったらしい。 少なくとも、氷河の気を逸らすことには成功したらしい。 室温は下がったままだったが、更なる降下は感じられなくなった。 得たりとばかりに気負い込み、星矢はテレパシスト聖闘士の話を続けたのである。 「俺が次にどういう攻撃をしようとしてるのかを すっかり読まれちまうもんで、奴との戦い、俺はすごく苦戦したんだけどさ。そいつ、心を無にして戦う魔鈴さんには負けちまったんだ。あの力が使えたら、瞬の気持ちを確かめるのも一瞬でできるし、おまえの前向きな努力とやらも やりやすくなるだろうな」 「おまえが何かを考えながら戦っていたという事実にびっくりだ。いや、そんなことはどうでもいい。そいつは、どうやって、その力を身につけたんだ」 「んなこと、俺が知るかよ」 「なに?」 氷河の気を逸らすために持ち出した話題。 それは確かに効を奏したといえるだろう。 だが、その話題で場をもたせるには、星矢の持つ情報量はあまりに少なかった。 星矢の正直な答えに 氷河の 星矢は慌てて、引きつった愛想笑いを氷河に向けた。 「あ、いや、だから、奴がどんな修行をして人の心を読めるようになったのかは知らねーけど、確か奴の修行地は――」 星矢は やはり基本的に、何かを考えて自身の言動の方針を決めてはいない。 考えていたにしても、その考えは 極めて刹那的で、長期的展望を伴っていない。 アステリオンの能力を語って氷河の気を逸らすことまでは思いついても、そのために自分がどんな材料を氷河に提供できるのかを、星矢は全く考えていなかったのだ。 テレパシスト聖闘士の修行内容はもちろん、その修行地がどこなのかという超基本的情報さえ。 幸い、アテナの聖闘士は誰もが“命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間”という得難い宝を持っていて、星矢の情報不足は、彼の仲間であるところの龍座の聖闘士が補ってくれたのだが。 「アステリオンの修行地は、確か、ブロッケン山だ。年に1回 魔女たちが集まって どんちゃん騒ぎをする場所として有名だな。ブロッケン現象の名の由来にもなっている。胡散臭い技の習得には ふさわしい修行地と言えるかもしれん。もっとも、この場合は、アステリオンの修行地がどこかということより、奴の師匠が誰なのかということと、その師匠が 既に聖闘士の称号を有している者にその能力を養うための修行を施してくれるかどうかということの方が、より大きな問題のような気がするが。さすがに それは あまり期待はできないのではないか」 「白銀聖闘士ごときに習得できた技なら、俺にも すぐにマスターできるな」 氷河は 何事かを考えてはいるのかもしれないが、人の話を聞いていない。 紫龍の言葉の後半部分を綺麗に無視して、彼は自信ありげに ひとりごちた。 そんな氷河に、星矢と紫龍が呆れ返る。 「あのな、おまえは一応、白銀聖闘士の下位に位置づけられている青銅聖闘士なんだぞ。わかってんのか? 少しは位階の序列を意識した方がいいぞ。俺たちより弱くても、黄金聖闘士は黄金聖闘士だし、白銀聖闘士は白銀聖闘士なんだよ。新卒入社の平社員より無能でも、社長の息子は専務。それが世の中ってもんなんだ」 「そんな技の習得は、俺は あまり お勧めしないぞ。人の心が読めても ろくなことにならない。親切な人だと思っていた人間が、実は欲得尽くめで親切な振りをしているだけだったり、勇敢な人間に見えていたものが、実はとんでもない臆病者だったりすることもあるだろう。知らなくていいことを知ることになる可能性が高い。人間不信になるぞ」 「だが、俺は 瞬の気持ちを知りたいんだ!」 その一言で、氷河は、仲間たちの有益な忠告を見事に あっさり蹴散らした。 星矢が、らしくもなく、盛大な溜め息をつく。 「だから、それは、変な力に頼ったりしないで、言葉で直接 瞬に好きだって言って、瞬はどう思ってるのかを訊けばいいだけのことだろ。おまえの前向きな努力だって、瞬の心なんか読めなくても、しようと思えばできることじゃん。効率的にはできないかもしれないし、見当違いなことして失敗してりすることもあるかもしれないけど、瞬はわかってくれるさ。瞬は、人の誠意や厚意に感謝することを知ってる奴だ」 「それが問題なんだ!」 「どこが問題なんだよ!」 星矢は、人の心を読む技など習得しなくても瞬の心を確かめることはできるし、前向きな努力もできると言ったつもりだった。 しかし、氷河は、それが問題だと言う。 どうすれば、『それが問題』になり得るのか。 星矢には、そこのところが とんとわからなかった。 星矢の わかりの悪さに苛立ったように、氷河が彼の考える問題点を怒声で提示してくる。 「瞬は、俺を傷付けないために、本当は『どちらともいえない』なのに『とても好き』だと嘘を言うかもしれないじゃないか!」 「へ」 氷河が考える“問題点”を知らされて、星矢は一瞬 呆けてしまったのである。 “人を傷付けるのが嫌いな瞬”なら、なるほど そういう展開は 大いにあり得ることなのかもしれない。 しかし、それは、瞬が少女だった場合、あるいは(想像したくもないが)氷河が少女だった場合――すなわち、氷河の恋が 社会的にも道徳的にも無問題な、ごく普通の異性愛だった場合のことである。 男が男に『好きだ』と言われて、相手を傷付けたくないから、無理に 自分も好きだと嘘の答えを返すようなことがあるものだろうか。 そういう場合、『好きだ』と告白された側の人間は、嘘で『好き』と答えるより、『正気に戻れ』と訴え、人として進むべき正しい道を示そうとするものなのではないだろうか。 男が男に『好きだ』と告白して『僕も好き』という答えをもらえるのは、告白された側の人間が『とても好き』状態にあった場合のみだろう。 星矢はそう思っていた。 氷河はそう思ってはいないようだったが。 「嘘は言わないにしても、嘘を言わないために、答えを はぐらかして、いつまでも返事をくれないということもあるかもしれん」 「それはまあ……あるかもな」 「それくらいならまだいいぞ。瞬のことだ。本当は俺のことを好きでたまらないでいるのに、あれこれ気にしなくていいことを気にして、俺のために、『嫌いだ』と心にもない嘘をついて、身を引いてしまうかもしれないじゃないか!」 「おまえ、よくそこまで 臆面もなく うぬぼれられるな!」 多少なりとも氷河の懸念に真面目に耳を傾けていた自分に腹が立ってくる。 氷河の“考えられる対応パターンその3”を聞かされた途端、星矢は お人好しの自分を心から反省し、(自分への)怒りのために顔を真っ赤にすることになった。 そんな星矢を、紫龍が真顔でなだめてくる。 「落ち着け、星矢。いくら瞬が少女めいた姿をしているといっても、氷河のこれは立派な同性愛だ。瞬が氷河をそういう意味で好きでも嫌いでも、氷河のために倫理的に問題のある恋を断念させようとすることは、実際 大いにあり得ることではある。氷河の懸念も、あながち的外れとは言えないだろう。瞬は氷河に比べれば はるかに良識的な人間だ」 「氷河に比べたら、誰だって良識的だよ!」 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間が叶わぬ恋に苦悩していると思えばこそ、星矢は 星矢なりに真面目に氷河の恋愛相談に付き合ってやっていたのである。 「本当は俺のことを好きでたまらないでいるのに、あれこれ気にしなくていいことを気にして、俺のために、『嫌いだ』と心にもない嘘をついて、身を引いてしまうかもしれない」などという馬鹿げた悩みを悩んでいる男の話など、星矢はもう1秒たりとも真面目に聞こうとは思わなかった。 |