『人の心が読めても ろくなことにはならない』という紫龍の忠告は、正鵠を射たものだった。 おそらく、紫龍の意図とは少々違った意味で、それは確かに ろくなことにはならない力だったのだ。 氷河は、もちろん覚悟していたのである。 人間の言動と思考は必ずしも一致していない。 『裏表がある』という成句があるくらいなのだ。 人には、当然のごとく裏表があり、本音と建前があるのだと。 人間のそういう醜悪さを知ることになってもいいから瞬の心を知りたい。 その一念で、氷河は、“人の心を読む力”を あえて我が身に引き受けたのである。 ――が。 氷河が読めるようになったのは人の表層の思考のみで、その深層心理を探ることまではできなかったせいもあったろうが、実際のところ、大部分の人間の思考と発言は、氷河が呆れるほど――気が抜けるほど――同じものだった。 「あー、腹減ったー」 とぼやく星矢は 本当に空腹感を感じており、脳裏に食べ物の姿を思い描いていた。 「おまえは、本当にそんな力を手に入れてしまったのか」 と氷河を非難してくる紫龍は、 (まったく、こいつは人の忠告に耳を貸すということを知らんのか) と、白鳥座の聖闘士の行動に苦りきっていた。 「馬鹿野郎! どこ見て歩いてやがる!」 と怒鳴り声をあげている聖域の石工は、自分にぶつかってきた石工仲間に心底から腹を立てていたし、 「まあ、今日は何だか綺麗よ、あなた」 と同僚を褒めている雑仕女は、 (いい洗顔剤を手に入れたのかしら?) と、同僚に探りを入れようとしていた。 聖域のすべての者たちを偽って教皇の振りをしていたサガや、彼に従っていた黄金聖闘士たちの心を読むことができたなら、そうそう平和ではいられなかったかもしれない。 だが、そういう者のいない今の聖域では、人間の表と裏、本音と建前は、その ほとんどが氷河の想定内の違いしか有していなかった。 人間というものは 案外 詰まらないものだ――というのが、人の心を読む力を手に入れた氷河の率直な感想だったのである。 もっとも、たとえ地上に生きる人間たちの表と裏、本音と建前が 嫌悪を感じずにいられないほど醜悪で かけ離れたものだったとしても、氷河はさほど衝撃を受けることはなかっただろうし、人間不信に陥ることもなかっただろう。 彼は、彼が好意を抱いている人間や 大切と感じている人間以外の者たちには 基本的に無関心で、多大な期待や美化された幻想を抱いてはいなかったから。 氷河にとって 大事で、大切で、その存在に重大な意味があり、尋常ならざる好意を抱いている人間は、今は瞬一人だけだった。 そうして、星矢たちや聖域の住人たち相手に軽い準備運動を済ませた氷河は、この上なく心身を緊張させて、いよいよ 彼のただ一人の人の許に向かったのである。 「あ、氷河。見て見て。ここに春があるの。ハコベが花をつけてるの」 氷河にとって 大事で、大切で、その存在に重大な意味があり、尋常ならざる好意を抱いている ただ一人の人は、教皇殿に上がる石段の麓で、小さな野草の群れを見詰めていた。 魚座の聖闘士の薔薇園と地続きになっているせいか、その辺りの土は 石が敷かれた通路の脇の土がむき出しになった露地では、瞬の言う通り、地を這うように低く葉や茎をのばしたハコベが、小さな白い花をつけていた。 「ギリシャも、今年の冬は例年になく寒かったのに、やっぱり春は来るんだね」 嬉しそうに瞳を輝かせて そう告げる瞬の心。 氷河が、この上なく緊張して対峙した瞬の心――。 それは、漂白したばかりの紙や布のように真っ白だった。 あるいは、 |