from here to happiness






あと一段。
氷河は仲間の行動を注視していたわけではなかったので、もしかしたら、それはもう二段残っていたのかもしれなかった。
が、いずれにしても、
「おへうわっ!」
という素頓狂な声をあげた星矢が、城戸邸エントランスホールの床に熱烈なキスをするために踏み外した階段の段数は、その程度のものだったのである。
せいぜい、一段か二段。
それは、常人とは比較するのも馬鹿らしいほどの運動神経と体力を有しているアテナの聖闘士が転げ落ち、更には 完全に伏臥の態勢で床にべったりと倒れるようなことがあっていい高さではない。
しかし、星矢は、アテナの聖闘士にあるまじき その芸当を見事に成し遂げてしまっていた。

足を踏み外した――もしくは 滑らせた――のであれば、星矢は尻餅をつく形で、氷河の目の前に颯爽と(?)登場したはずである。
いったいどうすれば、アテナの聖闘士が そういう態勢で床に倒れ伏すことができるのか、氷河には とんと合点がいかなかった。

「星矢、大丈夫っ !? 」
エントランスホールに続く階段を下りようとしていたらしい瞬が、星矢の奇天烈な声と 奇跡のような落下事故に慌てた様子で階段を駆け下りてきて、床にうつ伏せに倒れている仲間を助け起こそうとする。
瞬がその手を途中で止めたのは、もし星矢が脳震盪を起こしていたなら、身体を動かさずにいた方がいいと考えたからだったろう。
転べるはずのないところで転んでいる星矢の力技に(?)混乱していたせいもあったかもしれない。

最初、氷河は何が起こったのかが――もとい、なぜ そんな事態が生じたのかが わからずにいたのだが、倒れた星矢の右手の先にピーナッツが一粒 転がっているのを見て、彼は心の底から嫌な気分になり、顔をしかめることになったのだった。
「おい、星矢。おまえ、まさか、ピーナッツに足を滑らせて転んだんじゃないだろうな? アテナの聖闘士ともあろうものが――」
「ばかにすんなよ! んなアホなことで、このペガサス星矢様がすっ転んだりするわけないだろ!」
駆け寄ってきた瞬の肩に手をかけて 弾みをつけ起き上がった星矢が、即座に怒声を返してくるところを見ると、さすがに星矢は脳震盪を起こすような転び方はしていなかったらしい。
星矢の元気な様子を確認した氷河は、安心して、遠慮なく仲間の奇跡の落下事故の糾弾にとりかかることができるようになったのだった。

「じゃあ、なぜ すっ転んだ おまえの側にピーナッツが転がっているんだ」
「だから、ピーナッツに足を取られたんじゃないってーの。ピーナッツの投げ食いをしながら階段を下りる修行をしてて、ちょっと失敗しただけだ。目算より5センチくらい前にピーナッツが飛んでいっちまっただけ」
ピーナッツを目算より5センチ前方に投げたのは星矢自身なのだろうに、それすらも認めようとせず、ピーナッツが勝手に飛んでいってしまったという言い方をする星矢の口振りに、氷河は大いに呆れることになったのだった。

「何が修行だ。そんなことが修行になるか。瞬、こんな馬鹿は放っておけ。普通に歩いていて転んだ子供にだって、自力で起き上がることを学ばせるために大人は手を貸さないものだ。階段を下りながらピーナッツの投げ食いだと! 真面目に歩いていて転んだ子供に対して失礼千万な話だ」
瞬は、星矢が立ち上がるのに手を貸したわけではなかった。
星矢は、勝手に瞬の肩に手をかけて立ち上がったのである。
にもかかわらず、氷河が瞬に釘を刺したのは、元気良く起き上がった星矢が その手を瞬の肩に置いたままだったから。
そして、瞬が その手を振り払おうとする素振りを見せなかったからだった。
氷河の不機嫌の理由がわかっていないらしい瞬が、そんな氷河に困ったような笑みを向けてくる。

「星矢は、自力で立ち上がることを学ばなきゃならない子供とは違うんだから、そんな厳しいこと言わないで。僕、子供の頃に、転んで星矢に助け起こしてもらったことがあるの。自分の身を気遣って手を差しのべてくれる人がいるのって、とても嬉しいことだし、僕が星矢に手を貸したいって思うのは、あの時の星矢の優しさを憶えているからで――言ってみれば、恩返しの一種だよ」
「おまえ、そんなことを言って、確か先週も、厨房でイモだかカボチャだかをつまみ食いして喉を詰まらせる馬鹿をやらかした星矢の世話をしてやっていただろう。だいたい、子供の頃の親切というのなら、星矢が暴れて怪我をしたり、辰巳に殴られたりするたび、おまえはアホガキの星矢の怪我の消毒をしたり、冷やしてやったりしていた。ほとんど毎日だったぞ。だが、星矢がおまえに恩返ししたという話は、俺は寡聞にして聞いたことがない」
「僕が星矢の……? そんなこと あった?」

瞬は、幼い頃の自分が毎日 星矢の看護人役を勤めさせられていたことを、本当に憶えていないらしい。
瞬の尋常でない忘却力に、氷河は驚いた――否、ほとんど感嘆した。
「おまえは、自分の親切や善行は忘れるくせに、人に助けてもらったことは執念で忘れないんだな。普通、逆だろう」
「逆ってことはないでしょう。人は、嬉しかったことは忘れないものだし――それに、自分がした親切や善行は そのまま忘れてしまっても何の問題もないけど、罪や負債は贖わなければならないものだもの」
「貸した金のことは忘れてもいいが、借りた金のことは忘れるべきではないというわけか。おまえらしいな」

氷河は決して瞬に嫌味を言ったつもりはなかった。
それを本当に瞬らしいと思うから、思ったことを そのまま言葉にしただけで。
氷河が嫌味や皮肉を言おうとしたのではないことは、瞬もわかっているらしい。
聞く人が聞けば 立派な嫌味になることを口にした氷河に、瞬は曖昧な笑みを向けただった。
そして すぐに、それを再び心配顔に変え、星矢の方に向き直る。
「星矢、大丈夫? まさか骨とか折れてないよね?」
「んなことあるわけないだろ。俺は聖闘士だぜ。馬鹿にすんなよ」
「そんなつもりはないけど、戦っている時と違って、ピーナッツに気をとられてて、ちゃんと受け身もできてなかったような――」
「だいじょぶ、だいじょぶ」
「ならいいけど……」

星矢が 大理石を自身の顔や身体で砕くこともしてのけるアテナの聖闘士であることを すっかり忘れているような瞬の心配顔。
もっとも、瞬は、元気そのものの星矢の様子を見ているうちに、自分の心配は無用のものだということに、遅ればせながら気付いたようだった。
「じゃ、先にラウンジ行ってて。今日のおやつは、グラードの食品部門が新開発した お菓子の試食なんだって。紫龍が待ってるよ。僕は お茶の準備してから、行くから」
「あ、そーだった」
瞬に そう言われて、自分が何のために どこに向かおうとしていたのかを思い出したらしい星矢が、その足をラウンジの方に向ける。
ラウンジに向かって駆け出した星矢と、厨房に向かった瞬。
二人の間で 数秒迷ってから、結局 氷河は星矢のあとを追った。






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