「氷河は死んでしまったのか?」 瞬にそう尋ねてくる者は、氷河の顔をしていた。 庭に直接おりられるテラスに続くサンルームのドアは外に向かって大きく開け放たれ、初夏の早朝の、激しく燃え上がる直前の情熱に似た風を、室内に招き入れている。 氷河が掛けている籐椅子はテラスではなく室内にあった。 初夏の朝の風は、先ほどから遠慮する様子もなく氷河の足元で弾け、その頬を撫で、その髪を揺らしている。 もっとも氷河は そんな風の戯れを完全に無視して――というより、気付いてもいないようだったが。 氷河の目の前には、今にも燃え立たんばかりの情熱の色をした花であふれた初夏の庭が広がっている。 それは、二人が初めて出会った、あの庭だった。 二人にとっては、懐かしい大切な思い出のある場所。 そして、運命の場所。 だというのに、氷河は、情熱の季節が始まろうとしている庭の様子を見ても、心を動かされた様子をまるで見せなかった。 そこが、幼かった二人が初めて出会った場所なのだということに 気付いてもいないかのように。 氷河は、そんなことより、瞬が語っていた“氷河と瞬”の物語の方が気になるらしい。 「死んだのか? おまえが恋した氷河という男は。俺と同じ名の男は」 まっすぐに――その質問が瞬の心を傷付けてしまうかもしれないなどということを考えもせずに問うてくる氷河に、瞬は切なく微笑み返した。 「うん。死んでしまったよ、僕の氷河は」 「本当に? それでおまえは――」 「僕の氷河は死んでしまった。それまで僕たちが積み重ねてきた たくさんの時間と記憶を忘れ、自分の中にあった愛を忘れ、僕を忘れ、氷河は僕の氷河ではなくなってしまった」 その瞬間のことを思い出し、瞬の眉は苦しげに歪むことになったのである。 だが、瞬は決して絶望の淵に沈み込んでしまってはいなかった。 強大な力を持った神ですら すべてを受けとめる切ることができないほど大きな人間の希望。 その希望のかけらが、自分の胸の中に残っていることがわかるから。 瞬を恋してくれていた氷河は、瞬の恋が成就した瞬間、確かに この地上から消え失せてしまった。 それまで彼が積み重ねてきたもの――瞬と出会い、二人で積み重ねてきた記憶――彼の愛――を、氷河はすべて忘れてしまったのだ。 あの声の主の言う氷河の死がどんなものなのかを知らなかった瞬が、氷河の命を失わないために二人のこれまでの物語を忘れた“振り”をしていたようにではなく、本当に。 本当に氷河はすべてを忘れ、瞬を恋していた氷河は死んでしまった。 だが、あの声の主が言っていた氷河の死が、彼の肉体の死ではなく、彼の中に育まれてきた愛の死にすぎなかったことを知った時、瞬の中には、神にも受けとめきることができないほど大きな希望の小さなかけらが残っていた。 否、もしかしたら、それは新しく生まれてきた希望のかけらだったのかもしれない。 その小さな希望のかけらが、今は以前にも増して大きく力強いものとなり、更に成長を続けていた――急激に膨張しつつあった。 恐ろしいほどの勢いで、まるで この世界全体を覆い尽くしてしまいそうなほどに大きく、激しく。 長い時間をかけて これまで積み重ねてきたものを すべて失い、瞬を恋していた氷河は死んでしまった。 だが、それが何だというのだろう。 命があれば、人は何度でも、記憶を積み重ね、愛を生み、愛を育んでいくことができるのだ。 すべてを忘れても、すべてを失っても、生きていさえすれば。 「聞いてくれる? 僕には好きな人がいたの。とってもとっても好きな人」 「そいつも、おまえのことを好きだったんだろう?」 「どうして そう思うの?」 「俺なら、おまえを好きになるから」 「……」 “瞬”に恋していた自分を忘れて一度死んだ氷河が、以前の彼と何も変わっていない 青い炎をたたえた目で、瞬を見詰めてくる。 瞬は、そんな氷河に、少し切ない笑みを返した。 「僕が氷河に初めて会ったのはね……」 切ないが、不幸ではない。 瞬の胸の中には、神にも受けとめきれないほど大きな――大きな希望があるから。 そうして瞬は、氷河に 二人の物語を語り始めた。 Fin.
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