S子爵家の次期当主と目されているS子爵家の長子は、実は正妻の実子ではない。
一輝は、当代のS子爵の愛人が産んだ庶子だった。
一輝の実母は、S子爵の乳母の娘。
S子爵は彼女を愛していたが、彼女の身分があまりに低すぎて――彼女は貴族ですらなかった――S子爵は彼女と正式に結婚しなかった――できなかった。
しかし、愛する女の産んだ子供を庶子にしたくなかったS子爵は、愛人の懐妊を知るや、国内でも有数の名家の令嬢を正妻に迎え、愛人の産んだ息子を正妻の子と称し、彼をS子爵家の跡継ぎと定めてしまったのである。

S子爵の形ばかりの妻と思われていた名門出の正妻が、彼女の初めての子を儲けたのは、彼女がS子爵家に嫁いでから10年後。
一輝の実母であるS子爵の愛人が病を得て亡くなって すぐのことだった。
その際には、『形ばかりの妻に対して、S子爵家の当主は、愛人の死後、やっと彼女の夫としての務めを果たし始めたらしい』という噂が立ったという。
それから十数年、正妻の第一子でありながらS子爵家の後継から外されたS子爵家の次男が、ついに王宮に姿を現わした今日という日。
今日は、そういう日だったのである。
国王や その取り巻きたちが瞬に注目するのは、その美貌のせいばかりではない。
S子爵家の莫大な資産、その資産に伴う力が いったい誰の手に渡るのか。
彼等は、瞬の動向に興味津々だったのだ。

S子爵家には、名家の姫でありながら、身分の低い愛人の下風に甘んじ、じっと耐えていた瞬の母親の忍耐に同情し肩入れする者が多いらしい。
S子爵家に連なる者たち――その親族や要職に就いている者たちのほとんどが 正妻贔屓だという噂もあった。
S子爵自身は、決して我を通さず形ばかりの夫に従順に従う彼女の性向が気に入って、瞬の母親を正妻に迎えたのだとも言われている。
それらの噂の真偽はともかく、S子爵家の者たちの中に、名門出の正妻に実子がいるのに、後ろ盾といえるものが何もない愛人の息子に爵位を継がせることはないのではないかと考えている一派がいるのは事実。

従順で夫の意向に逆らうようなことは決してできそうにない女性とはいえ、瞬の母親は生きており、その後ろ盾は強力。
それに比して、瞬の兄の方は、母方の いかなる後ろ盾も望めず、子爵の愛情を独り占めしていた愛人も鬼籍に入って久しい。
弟に爵位を継がせる方がS子爵家の益になると考える者は多く、次期当主の座を巡って、S子爵家では家中に対立があるという。
そういう事情で、H公爵家に対立するS子爵家は、今、一枚岩とはいえない状況にある。
正妻とその実子が控えめで兄を立てているので、S子爵家は かろうじて分裂せずにいるのだというのが、世間の一般的な見方だった。

当然 兄弟の仲は悪いのだろうと、氷河は思っていたのだが、今 彼の目の前にいる二人の仲は、少なくとも傍目には極めて良好に見えた。
兄は 初めて宮廷にあがって緊張している弟を気遣い、弟は、そんな兄を慕い頼り切っているように見える。
これだけ美しい弟なら 異母弟に対する一輝の愛情も当然のことと思えるが、それは、人間を感情面だけで判断した場合のこと。
一輝には一輝の利害、瞬には瞬の利害、S子爵家に連なる親族や各国の支店を任されている支配人たちには彼等の利害というものがある。
多くの人間たちの感情や利害、思惑が複雑に絡み合い、現在のS子爵家の状況は そう単純ではないはずだった。

現当主に軽んじられており、当人が いかに控えめといっても、名門出の母を正妻に持つ正当な後継者が、S子爵家の爵位や資産に全く野心がないということは考えにくい。
そこを利用して、目障りなS子爵家の内部分裂を誘うことができるのではないか。
初めて見た時、その姿の清楚な美しさに呆然とした事実を忘れ、権謀術数渦巻く宮廷貴族の心を取り戻した氷河は、そんなことを考え始めていた。






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