瞬が頻繁にアフリカに出向くようになったのは、もちろん氷河のためだった。
その言葉に嘘はない。
氷河のせいではない、氷河のため。
決して氷河が嫌いだからではなく、彼を避けるためでもない。
瞬はむしろ、氷河が好きだった。
氷河に好きだと告げられて、以前より更に好きになったくらいだったのである。
瞬のアフリカ滞在期間が最長2週間なのも、それ以上長く氷河に会えずにいる状態に、瞬自身が耐えられないから。
だが、瞬は その事実を氷河に知られるわけにはいかなかったのである。


本当に氷河のためを思うなら、日本に戻らず ずっとアフリカにいればいい。
それはわかっていたのだが、長く氷河に会えずにいると、心身が『寂しい』『心配だ』と悲鳴を上げる。
あれほど気まずい思いをして発った日本に、結局 いつも通り 瞬は2週間で帰ってきてしまっていた。
2週間後のその日、氷河が そこにいないことを期待して、瞬は、仲間たちの溜まり場になっているラウンジのドアを開けたのである。
期待は裏切られたが、瞬には 氷河と同席することを気まずく思う余裕が(?)与えられなかった。
2週間振りに日本に帰国した瞬を迎えた仲間たちの様子がおかしい。
彼等の様子がおかしいせいで、ラウンジには実に微妙な空気が漂っていた。

「な……なに? 僕がいないうちに何かあったの?」
「それはまあ――その……うん、色々あった」
「色々って、何が?」
星矢、紫龍、氷河が瞬に向ける視線は、まるで世界の珍獣コビトカバを見詰めている者のそれのよう。
あるいは、竜宮城に行っていた浦島太郎を浜辺で見付けた百年後の村の子供たちのそれのよう。
奇妙で珍しく、理解を超えた存在に出会ってしまった人間のそれのようだった。
彼等が瞬にそんな目を向けることになった経緯を、あまり歯切れがよいとは言い難い口調で、星矢が語り始める。

「おまえがアフリカに行った1週間後にさ、『ディスカバリー・アフリカ』とかいうタイトルの奇妙な動物ドキュメンタリーが放映されたんだよ」
「奇妙な動物ドキュメンタリー?」
「そ。『乾燥したアフリカの大地にある数少ない森林に、今回 初めてカメラが入りました』ってやつ。おまえが行ってる難民キャンプより50キロくらいケニア側に入ったとこにあるサバンナと小さな林に住む動物たちの映像記録」
「それが?」
「それで――んーと、カンソワカメインコだったっけ?」
食べ物以外の長い名前を覚えるのが苦手な星矢が、自信なさそうに紫龍に確認を入れる。
紫龍からはすぐに適切な訂正と説明が加えられた。

「乾燥ワカメじゃない。ワカケホンセイインコだ。オウム目オウム科ホンセイインコ属。成鳥の全長は約40センチ。体色は緑。言葉をよく覚えるし、ワカケダンスなる奇妙な踊りを踊ることもあって、ペットとしても人気が高いが、性質が神経質なのと鳴き声が非常に大きいので、飼育の際には注意が必要」
「そのワカケホンセイインコがどうかしたの」
全く訳がわからない。
インコとアテナの聖闘士たち、そして アテナの聖闘士たちが かもし出している微妙な空気。
その関連性が、紫龍の詳しい説明を受けたにもかかわらず、瞬には全く わからなかった。
星矢も、最初から 上手く言葉で説明できるとは思っていなかったのだろう。
彼は、
「一見は百聞にしかず。ネット配信もされてる番組だから、実際に見てみろ」
と言いながら、主にニュースを見るためにラウンジに1台だけ置かれているパソコンのスイッチを入れた。
壁に掛けられている大型ディスプレイに、問題のドキュメンタリー番組の映像が映し出される。

番組では、最初のうちはサバンナに生きる大型獣が多く紹介されていたが、舞台はやがてサバンナの中にある小さな林――南米の熱帯雨林とは比べものにならない ささやかな林――の中へと移っていった。
その林の ささやか振りは、重装備の動物学者やカメラマンたちが滑稽に思えるほど。
その ささやかな林を構成している1本の木の上にいる鮮やかな赤いクチバシと長い尾羽を持った緑色の鳥の姿が映し出されたのは、番組開始から20分が経った頃だった。
「ああ、あれは、ワカケホンセイインコです。原産地はインド・スリランカ方面なんですが、今は世界中に分布していると言っていい。アフリカではわりとポピュラーなインコで――」
と、カメラ目線で言っていた番組のメインホストである日本人動物学者が突然 言葉を途切らせたのは、更に その1分後。

その鳥の声の大きさは、集音マイクの性能が良すぎたせいではなかっただろう。
声が とにかく大きく、よく響くのだ。
その よく響く大きな声で、くだんの鳥は、ここが自分の生涯一度の晴れの舞台と自覚しているとしか思えない必死さで、
『ヨーガ、ダイスキ』
『ヨーガ、ゴメンナサイ』
『ヨーガ、ダイスキ』
『ヨーガ、ゴメンナサイ』
という言葉を 狂ったように繰り返し始めたのである。

高性能の集音マイクは、
「すげー。なんだよ、あれ、日本語に聞こえるぜー」
というドキュメンタリー番組にはあまりふさわしくない、カメラマンらしき男性の興奮した声まで拾ってしまっていた。
その ふさわしくない声が編集段階で削除されなかったのは、インコの必死の訴えがヤラセでないことの証左になると判断されたためだったのかもしれない。

「日本語に聞こえますね。『大好き』『ごめんなさい』と言っているように聞こえる。現地の言葉では違う意味なのかもしれませんが、どういう意味なんでしょう。誰かに教えられたんでしょうか」
同行の案内役に動物学者が尋ねると、彼は現地の言葉で、
「スワヒリ語には、ああいうオトの言葉はありません。もしかすると、本当に日本語を話すインコなのかもしれませんね」
と答えたらしく、そういう日本語の字幕が出た。
彼は気の利いたジョークを言ったつもりだったのだろう。
まさか そのジョークのせいで、遠く離れた場所にいる一人の日本人が全身の血を凍りつかせることになるなどということは考えもせずに。

「ミ……ミドちゃん……」
瞬が、おそらくは ディスプレイに映っている緑色の鳥の名を呟く。
「やっぱり、おまえの知り合いか」
短い溜め息をついてから、星矢はそう言った。
彼の溜め息は、その9割方が安堵の成分でできていた。
「あれ、現地の言葉じゃないだろ。日本語だろ。あのインコは きっとフランス出身の色男インコで、Hの発音ができないんだ。『ヨーガ』ってのは『氷河』。フランス出身アフリカ在住のあのインコは、どういうわけか日本語で『氷河、大好き』『氷河、ごめんなさい』って、狂ったように叫び続けてるんだな」

その言葉を人間の声で復唱されてしまった瞬が 頬を真っ赤に染め、身の置きどころをなくしたように もじもじし始める。
何ごとかを言いたいのだが何を言えばいいのかわからないといったていで 落ち着きを失っている瞬に、紫龍が、
「わざわざ教え込んだのか?」
と尋ねたのは、おそらく瞬への助け舟のつもりだったろう。
何か声と言葉を吐き出させてやらないと、瞬は自分の喉に詰まった声と言葉のせいで窒息してしまいかねないような様相を呈していたから。

「お……教え込んだわけじゃないよ。ミドちゃんが、僕の独り言を脇で聞いてて、勝手に覚えちゃっただけで……」
「脇で聞いていただけで覚えてしまうほど、何度も何度も繰り返したわけか、『氷河、大好き』『氷河、ごめんなさい』を。どれほど言葉を覚える技に長けたオウムやインコでも、2、3度 独り言を聞かされたくらいでは、人間の言葉を覚えたりしないぞ」
「そ……それは……あの……」
「おまえ、そういう意味で おまえが氷河を好きになることはありえなくて、氷河がおまえが好きなのは錯覚だとか何とか言ってなかったか」
「だから、それは、あの……」
「おまえがアフリカに行くようになった理由を聞かされても釈然としなかった訳がやっとわかったぜ。外れたことのない俺の野生の勘がさ、おまえは氷河を好きだって察知してたからだったんだ。そうなんだろ?」
「あの……あの……」
「あのあのあのじゃねえ! 男なら はっきりしろっ!」
男同士であることがネックになっている(?)恋愛問題で、男らしさを求める星矢のやり方が正しく効果的なことであるのかどうかは さておくとして、星矢に大声で怒鳴りつけられた瞬は びくりと身体を震わせ、更に その身体を小さく縮こまらせてしまったのだった。

「だって、僕は……」
しかし、すっかり打ちひしがれた様子の瞬が その瞳に涙の雫を盛り上がらせることになったのは、星矢の怒声のせいではなく――いきり立っている星矢の後ろで、複雑そうな顔をしている氷河の視線のせいだったろう。
背中に目を持たない星矢は、それを自分のせいだと思い込み、少々うろたえた。
「な……なにも泣くこたねーだろ! 俺たちはただ、おまえが氷河を好きなのか嫌いなのかを知りたいだけなんだから!」
「星矢。それは改めて聞くまでもないことなのではないか」
「んじゃ、なんで瞬は氷河を避けて逃げまわってたんだよ!」
これ以上 瞬を怒鳴って、本格的に瞬を泣かせるわけにもいかない。
星矢の怒声は、今度は瞬ではなく紫龍に向かって叩きつけられた。
怒声への答えは、当然のことながら、その答えを知らない紫龍ではなく 涙ぐんでいる瞬から返ってきたが。

「ぼ……僕、聖闘士なんだよ……! なのに、恋なんかに うつつを抜かしてなんかいられるわけがないでしょう……!」
瞬が 懸命に自分を奮い立たせて作り出したに違いない、その答え。
だが、瞬のその答えは、外れたことのない星矢の野生の勘に あっさり却下されてしまった。
「そんな阿呆な理由があるかよ。んなの、うつつを抜かさなきゃいいだけだろ。恋と仕事の両立なんて、世界中でどこの誰だってやってることだぜ。そりゃ、職業が聖闘士って奴は滅多にいないと思うけどさ、とにかく そんなのは、好きなものを嫌いだって言う理由になんねーの!」
理屈や常識ではなく 野生の勘に導かれて動く星矢は、自信に満ちている。
これは真実、これは嘘。星矢の野生の勘は、瞬時に正しい判断を下し、冷徹に瞬を追い詰めていった。

「だから……両立できそうにないってわかったから……」
追い詰められた瞬の方は、すっかり涙声である。
しかし、星矢は、容赦なく瞬を問い詰め続けた。
「両立できそうにない? なんでだよ?」
星矢は、瞬のアフリカ行きの真の理由を聞き出し、きっちりすっきり“釈然”とするまでは瞬を解放するつもりはなかった。
その気迫(?)が瞬にも感じ取れたのだろう。
星矢の追求から逃げ切ることは不可能と悟ったのか、瞬が がくりと両の肩を落とす。
そうして観念した瞬は、彼の仲間たちに、彼が氷河を避け アフリカに逃げ続けていた本当の理由をぽつりぽつりと語り始めたのだった。






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