氷河と瞬がロビーに下りていった時、そこにある休憩用のテーブルと椅子は ほとんど埋まってしまっていた。 そして、この宿の客の大部分がハンガリー人ではないことを、その段になって初めて氷河と瞬は知ったのである。 週に一度 この館に立ち寄るというカタリン夫人の席は決まっているらしい。 そして、彼女を“見物”する客たちの席も、部屋のランクによって決まっているようだった。 定刻に(?)かなり遅れて下りていった氷河と瞬は、おかげでカタリン夫人の姿をかなり近くから見ることができる席――いわゆる上席――に落ち着くことができたのである。 氷河と瞬が指定の席に着いて まもなく、話題の人が颯爽と舞台に登場した。 宿の使用人たちの間では、何らかの手順と合図が決められているのか、主役のために扉が開けられ、彼女が彼女の席に着き、その前にワインの入ったグラスが置かれるまで、舞台上では ほとんど無駄な時間が費やされることはなかった。 高貴で恐ろしい貴婦人の機嫌を損ねることがないよう、宿の者たちは神経を研ぎ澄ませているらしい。 噂の貴婦人は、濃い緑色のドレスを その身にまとい、手に乗馬用の鞭を持っていた。 豊かな黒髪。 少々 怒り肩の気味がある。 農奴には持ち得ない肌の白さ。 子供を産んだことのない女のほっそりした体つき。 歳の頃は、20代前半。 5年前に夫を亡くしたということだったから、10代のうちに結婚したのだろう。 彼女は自分の役割を心得ているらしく、周囲の客たちの息を呑む音に動じた様子も見せずに、実になめらかな所作で 自分の為すべきことをした。 一言の言葉を発することもなく、緊張して彼女を見物している客たちを部屋の調度程度にしか認識していない様子でグラスを手に取る。 宿泊客たちが彼女を見物するのが客の義務なら、彼女もまた、彼女のすべきことを義務的に実行しているだけ。 その場の空気を張りつめさせているのは、息を呑んで血の伯爵夫人の身内を見詰めている宿泊客たちで、カタリン夫人は無感動そのもの。 彼女は、ワインを飲み干すと すぐに立ち上がり、義務は果たしたと言わんばかりに、やって来た時同様、あっという間にロビーを出ていってしまった。 台詞のない無言劇は、ただ一人の演者が舞台上から姿を消しても、拍手の一つ、歓声の一つも湧き起こらなかった。 だからといって、観客たちが その舞台に満足しなかったのかというと、そういうわけでもない。 沈黙が、拍手であり歓声。 その無言劇は そういう劇だったのだ。 沈黙の盛大な拍手と歓声のあと、ロビーにいた観客たちは短い夢から覚めたように、それぞれに歓談を始めた。 「綺麗な人だったね。自分の美貌に執着したエリザベートの血を引いているだけあって。……彼女自身も同じなのかな」 瞬がそう言ったのは、テーブル脇に立って控えていた小間使いが、何らかの感想を、彼女の担当する客に言ってもらいたがっているようだったから、だった。 瞬の感想(?)を聞いた小間使いが、ほっとしたような顔になる。 血の伯爵夫人の血縁――自分以外の人間を 自分と同じ人間と思っていないような貴婦人の容貌を褒められて安堵する下民の心理というものが、瞬には すぐにはわからなかったのである。 もっとも、その謎は、小間使いの、 「でしょう。奥方様の美貌が伝説に拍車をかけて、この宿も ますます繁盛するってもんで」 という言葉で、ぼんやりと解けたような気がしたが。 カタリン夫人が、彼女の領地で 生きるために懸命に働いている者たちを 自分と同じ人間だと思っていないように、彼女の領民たちもまた、自分たちの領主を 自分と同じ人間だとは思っていない――カタリン夫人は、彼女の領民たちに人間と思われていない――のだ。 「不細工ではないが、不気味なおばさんだな」 だからなのだろう。 小間使いの女性は、あまり好意的とは言い難い氷河のカタリン夫人評にも、特段 気を悪くした様子は見せなかった。 一応、彼女が関わっている商売の看板を守ろうとする姿勢は見せたが。 「私等から見たら、女神様みたいに綺麗に思えるけど――。ぞっとするほど白くて綺麗な顔色でしょう」 「氷河の言うことは気にしないでください。氷河は滅多に人の容貌を褒めないの」 看板の美しさを否定されることは、仕事熱心な彼女を不安な気持ちにしてしまうかもしれない。 そう考えて、瞬は、氷河の厳しい評価は 一般的なそれとは違うものだということを、彼女に知らせた。 小間使いが すぐに得心して、彼女の客たちの前で深く頷く。 「まあ、これだけ綺麗な男なら、誰をどう褒めても皮肉にとられるだけだろうしね」 「『おまえ以外の人間の容貌は褒めない』だ。訂正しろ」 せっかく場が丸く収まりかけていたところに、氷河が余計な訂正要求を提出してくる。 瞬は、軽く肩をすくめて、氷河の訂正要求を聞き流した。 「美醜の物差しは人によって違うものだから、その点についてはさておくとしても、おばさんっていうのは失礼だよ。彼女はまだ20代前半でしょう」 尋ねるというより、同意を求めて、瞬は小間使いの顔を見上げたのである。 が、残念ながら、瞬は 彼が求めるものを手に入れることはできなかった。 瞬に同意を求められた小間使いは、瞬に向かって首を横に振った。 そして、それこそが真に自分の訴えたかったことだと言うかのように 気負い込んで、カタリン夫人がこの宿の――ひいては、この観光名所の――看板たり得る訳を語り始めたのである。 「金髪の兄さんの方が正しい。チェイテの奥方様は、もう40は過ぎてるよ。今年、42、3歳のはずだ」 「えっ」 「だろうな。かなり頑張って若作りしているし、コルセットで体型も補正しているが、あの手は どう見ても40女の手だ」 「手……」 それは、瞬が全く注意していなかった着眼点だった。 皺の刻まれていない顔、無駄のない きびきびした動作、白いものが全く混じっていない漆黒の髪。 そういったものを総合的に判断して、瞬は、カタリン夫人を20代前半の女性だと思い込んでしまったのだが、氷河は瞬とは全く違ったところを見ていたものらしい。 「女の歳を確かめようと思ったら、顔ではなく、手と首を見ることだ。まず ごまかせない」 「そ……そうなの……」 これは慧眼と言っていいようなものなのだろうか。 あっけにとられている瞬に、氷河が意味ありげな笑みを向けてくる。 少々得意げに見えた氷河の微笑は、しかし、小間使いの女性の、 「さすがというか、お見事というか。兄さん、さぞかし遊んできたんだろ」 という言葉のせいで、即座に引きつり歪むことになってしまった。 「俺は一般論を言っただけだ」 氷河は むっとした顔で、余計な口を挟んでくれた小間使いの女性にとも 瞬にともなく そう言い、次に明確に瞬に向かって、 「俺はおまえ一筋だぞ」 と告げる。 小間使いの女性は、氷河の弁解を実に大らかに笑い飛ばした。 「お嬢さん、男の言うことなんか信じちゃだめだよ。お嬢さんが賢い女なのなら、信じた振りだけしておくのが吉」 本人の供述で650人、裁判記録で80人――おびただしい犠牲者を生んだ残虐な殺戮事件のあった土地で たくましく生きている人間は、恐さを感じる神経が少々麻痺しているのかもしれない。 普通の人間なら 怯え ひるむ氷河の睥睨にも、彼女は動じた様子を全く見せなかった。 おかげで瞬は、氷河の方に助け舟を出してやらなければならなくなってしまったのである。 「僕は“賢い女”ではないから、氷河のことを心から信じてるの」 にっこり笑って そう告げた瞬の言葉の真意を、彼女は どう理解したのか――。 一瞬 きょとんとした顔になった小間使いは、数秒後に大々的に相好を崩していた。 そして、 「賢いねえ」 と、感心したように言う。 にっこり笑って 瞬が小間使いの女性に告げた言葉の真意を、氷河は測りかねたらしい。 彼は、小間使いの耳を はばかっているような小声で、 「おまえは 俺を信じているのか、信じていないのか」 と、瞬に尋ねてきた。 瞬は、氷河の愉快な対応に、思わず小さく吹き出してしまったのである。 |