次に 廊下に続く扉からではなく ベランダから 氷河が瞬の部屋にやってきたのは、沈みかけた太陽が室内をオレンジ色に染める頃、つまり前日の別れから ほぼ丸一日が経ってからだった。
氷河は、この一日 一睡もしていないのではないかと思えるほど憔悴した表情をしており、しかも かなり不機嫌。
瞬の顔を見ても にこりともせず、丸一日 会えずにいた恋人と長い時を経て やっと再会できたというのに、瞬を抱きしめようとすることさえしない。
それだけで、瞬には十分な異常事態だった。
いったい この一日の間に氷河の身に何があったのかと、瞬は途轍もない不安に囚われてしまったのである。

「氷河、どうしたの。すごく疲れてるみたい。何かわかった?」
「この城で ろくでもないことが行なわれていることだけは確かだな」
「ろくでもないこと……? 何か掴めたの? なに?」
「……」
瞬は、さほど おかしなことを訊いたつもりはなかった。
むしろ、当然 訊くべきことを訊いただけのつもりだった。
だから、『なぜ そんなことを訊いてくるのだ』と言わんばかりに咎めるような視線を氷河に向けられて、瞬は戸惑い――むしろ、そんな氷河に不安を覚えさえしたのである。
「氷河……何かあったの……」
一晩で5歳も歳をとったような氷河の頬に、瞬は その手をのばし触れようとした。

途端に、それまで 城の捜索に疲れきの、身体を動かすのも億劫そうにしていた氷河が、瞬に触れられることを避け、素早く後方に飛びすさる。
(えっ……)
思いがけない氷河の反応。
氷河の頬があった場所に、行き場を見失って浮いている自分の右手。
瞬は、その手を下ろすことさえ忘れて、疲れきっている(ように見える)氷河の顔を見上げ、見詰めることになったのである。

「氷河……」
「今、俺に触れるな。そんなことになったら、俺は間違いなく吐く」
「吐く……って……」
それは、触れられれば吐かずにいられないほど、白鳥座の聖闘士にとって アンドロメダ座の聖闘士が不愉快で気持ちの悪い存在だということなのだろうか。
まさか そんなことがあるはずがない――氷河には何か、そんなひどい言葉を恋人に投げつけなければならない深い事情があるのだ。
そう思って、瞬は、行き場を見失って迷子になっていた手を自分の許に引き戻し、氷河の説明を待ったのである。

『おまえと してからでないと眠れない』と恥じる様子もなく堂々と宣言し、戦闘中の仮眠の際にすら、『肩でも胸でも、手や足の端だけでも、どこか おまえに触れていないと目を閉じることができない』と 我儘を言うような男だったのである、氷河は。
アテナが言うには、氷河にとって アンドロメダ座の聖闘士は、“不安を免れ、安心感を得るための拠りどころとなる馴染みのもの”で、本来はそれは“大きな外的圧力が加わった時に、その圧力を撥ね返すために必要とするもの”であるらしい。
彼女は、
「あなたが氷河を甘やかしすぎたから、それが側にあることが常態になって、氷河は、あなたが側にいることに安心するのではなく、いないことに不安を覚えるようになってしまったんでしょう」
とも言っていた。
「もちろん、それは ただの助平心かもしれないけど」
と付け加えてくるところが彼女らしいところではあったのだが、ともかく氷河は これまで、瞬に触れられること、触れることを切望することはあっても、触れないこと、触れられないことを望んだことは 一度もなかったのだ。
たった一日の間に、氷河の身と心境にどういう変化が生じたのか。
この一日の間に、このチェイテ城の中で、氷河はいったい何に、どんなことに遭遇したのか。
氷河に触れてもらえないことに不安を覚えることになったのは、今日に限っては、氷河ではなく瞬の方だった。

「氷河……。この城は本当に不気味だけど、小宇宙は感じられないよ。ハーデスのものも、他の誰のものも。この城の調査は、多分 僕たちがすべき仕事じゃない。ね。この城を出ようよ。明日にでも――今すぐにでも――」
それは普段の瞬ならば、決して言わない言葉だった。
『何もなかったら、ハンガリーの自然を満喫してくればいいわ』という但し書き付きであったにしても、アテナの命令でここまで来たのである。
ハーデスが関わっているのなら関わっている証拠を、彼が関わっていないのなら関わっていない証拠を、せめて吸血鬼騒動の真相を、アテナの前に提示できないことには 任せられた仕事を完遂したことにはならない。
そう考えるのが、いつもの瞬だった。

それは、言うなれば、瞬を いつもの瞬でないものにしてしまうほど、氷河が いつもの氷河でなくなっているということ。
実際 氷河は、アテナの聖闘士としての任務より 瞬の恋人としての任務優先の いつもの彼らしくなく、
「俺もこんなところは さっさと出ていきたいが、ハーデスの関与の有無の確認はともかく、一連の吸血鬼騒動に あの女城主が関わっているのなら、娘が一人、この城に囚われていることになるからな。娘の救出だけは し遂げなければならんだろう」
と、まるで本物の正義の味方のようなことを言ってのけさえしたのだった。
「あ……」
それは、氷河の言う通りである。
ここで、『これはアテナの聖闘士の仕事ではない』と言って、自分たちだけが この城からの脱出を図れば、それは 救うことができるかもしれない一人の少女を見捨てることになりかねないのだ。
瞬は、変わってしまった氷河に 胸が潰れそうな不安を抱きつつ、それでも この城に残らなければならないという氷河に 頷き返すことしかできなかったのである。






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