氷河たちがチェイテ城から 隣り村の宿に帰還した3日後。 ポジョニからカタリン夫人の弟だという現ナダスティ家当主が、正気を失った姉を迎えにきた。 氷河と瞬は 彼から、カタリン夫人の夫が妻の多淫のせいで衰弱死したことを知らされて、少々 背筋の凍る思いを味わうことになったのである。 カタリン夫人の弟は 氷河たちから事情を聞き、カタリン夫人の被害者たちに慰謝のためという名目で――その実、沈黙の代償として――相当の金品を渡したようだった。 何でも金で解決するのかと 不快の念を覚えなかったわけではないのだが、失われた若さを取り戻してやることは誰にもできないのだという現実を顧みると、氷河と瞬は 彼の対応を非難することはできなかった。 正気を失っているカタリン夫人を、彼はポジョニにあるナダスティ家の屋敷に閉じ込めるつもりでいるらしい。 カタリン夫人は もともと領主の仕事をしていたわけではないし、チェイテとその周辺の領地には代官を派遣すると、彼は言っていた。 ナダスティ伯爵が姉を伴ってチェイテ城を去った翌日、氷河と瞬も聖域に向かう帰途に就いた。 観光の目玉をなくして気落ちしているようだった宿の小間使いは、だが、その頃には むしろ以前より元気になっていた。 「よくよく考えてみれば、そんな心配をする必要はなかったね。今度の事件では、血の伯爵夫人の殺戮の城が呪いの城の城になっただけのこと。エリザベート夫人の若さや美しさへの執念は その子孫にも受け継がれていた──なんて、恰好の宣伝・客寄せになるよ」 「そ……そうだね。そうかもしれない……」 身分や力のない者たちは ないなりにたくましく生きているのだと安堵し、感嘆もして、氷河と瞬は彼女に別れを告げたのである。 「あの村のこれからを心配する必要はないようだが、問題は俺たちだ。ハーデスが全く無関係だったのはいいが、アテナに何と報告したものか」 「氷河が報告しにくいなら、僕が代わりに報告してあげる。氷河は僕を放ったらかして、とっても熱心に自分の任務を果たしていましたって。四六時中、カタリン夫人の寝室を覗き見て」 自分の足で走った方が速いのに人目を はばかって馬上の人になっていることを不本意に思っているらしい氷河は、その上、瞬に嫌がらせを言われて、あからさまに うんざりした顔になった。 「あんなの、だらだら見せられて、その気になるのは無理だ。メリハリが大事なんだ、ああいうことは。いい勉強になった」 「勉強? 氷河はどんなことを学んだの? 覗き見で」 くすくすと笑いながら、瞬は氷河をからかうつもりで そう尋ねたのだが、瞬にからかわれた氷河は、存外な真顔を彼の意地悪な恋人に向けてきた。 「昼間 おまえに そそられても、衝動に屈せず耐え切った方が、より充実した夜を過ごせるということかな」 「それは僕もとっても助かるけど――」 『少し残念な気もする』と言いそうになって、瞬は慌てて自分の舌を噛んだのである。 そして、馬の足を止め、おそらく もう二度と訪れることはないだろう地の空と山を振り仰いだ。 まもなくチェイテ城が見えなくなるところまで、二人は来ていた。 「若さって――時間には ふさわしい過ごし方があるよね。夜には夜、昼には昼の。若い時には若い時の、歳を経たら、歳を経たなりの。きっと、素敵な恋をして、その人と二人で歳を重ねていくことを素晴らしいことだと思えていたら、カタリン夫人も 血の伯爵夫人も こんなことにはならなかったんじゃないかな……」 「バートリ家、ナダスティ家ほどの大貴族になると、恋も自由にはできまい」 「そういうもの……なの……」 「そういうものだろうな。未婚の間は、詰まらんことで純潔を失うことのないように厳しい親の監視下に置かれ、やがて 会ったこともない男の妻にされる。夫を持てば、家系の血を守るために貞節を求められ、不倫でもしようものなら、高貴な身分であればあるほど過酷な罰を受ける。自由な恋をするには夫の死を待つしかないが、その頃には既に若さと情熱は失われている――というわけだ」 「かわいそう……。恋も自由にできないの……」 『かわいそう』の一言で片付けることはできないが、それ以外の言葉も出てこない。 身分が高い者には 身分の高さゆえの不自由があるのだろう。 だが、彼等彼女等には、その不自由の代わりに “生活のための苦労をする必要がない”という特権が与えられている。 カタリン夫人はその特権を捨てようとはせず、むしろ自分の欲望のために大いに利用していたのだ。 本当なら、彼女に『かわいそう』などという言葉を送ってはならないのかもしれない。 それでも瞬は、カタリン夫人や血の伯爵夫人を かわいそうな人だと思わずにはいられなかった。 「心から好きな人と一緒だったら、二人で歳を重ねていくことも素敵だと思えたんだろうに。彼女たちは きっと愛する人がいなかったから、自分ひとりだけが若いままでいることの空しさに気付けなかったんだ……」 カタリン夫人も、彼女に若さを奪われた娘たちも――誰もが犠牲者のようで、悲しい。 事件や争い事の中心には 文句のつけようのない悪人がいてくれた方が、まだ救いがある。 そう、瞬は思った。 自分でも気付かぬうちに、瞬は悲痛な顔になってしまっていたらしい。 氷河が彼の馬を瞬の馬の脇に寄せ、瞬の髪に手をのばしてきた。 「生きていこうな。俺たちは二人で」 「うん」 間違った狂気に囚われてしまったカタリン夫人を救ってやることはできない。 カタリン夫人の狂気の犠牲になった娘の若さを取り戻してやることもできない。 氷河と瞬にできることは、自分たちがカタリン夫人と同じ迷路に迷い込まないように、同じ過ちを犯さないように自戒することだけだった。 この地を離れ聖域に戻れば、また戦いの日々が始まるだろう。 そんな世界、そんな時間の中で生きていくしかない二人でも、二人なら 迷うことはないと信じることのできる幸福。 自らの幸福に微かな罪悪感を覚えつつ、瞬は 呪われた城に背を向けたのだった。 Fin. |