「理由も知らされず、そんなことができるか! 俺は、歴代の王と同程度には神々を敬ってきたし、神殿でも軽率な発言をしたことはない。瞬が何をしたというんだ! 瞬がネーレイスより美しかったとしても、それはただの事実だ。俺はそんなことを自慢したことはない。口に出したこともなかったんだ、今の今まで!」 もともと短気なところのあるエティオピア国王は、神々の理不尽な仕打ちに激怒し、これまで決して言葉にせずにいたことを、あえて言葉にして 王宮の玉座の間に響かせた。 一輝国王の玉座のすぐ隣りには、王弟の瞬王子と そのペットである巨大な獅子が控え、王の御前には、デルポイの神託所から帰還したばかりの使者が 青ざめた頬をして立っている。 玉座の間の両脇に居並ぶ廷臣たちも、一様に使者と大差ない顔色をしていた。 『エティオピアの王と国民に最も愛されている者を海魔カイトスの生贄に捧げよ』という神託を受けた一輝国王が、その一方的かつ理不尽な神託が何かの間違いであることを期待して、使者をデルポイの神託所に向かわせたのは3日前。 しかし、今 その使者が持ち帰った神託は、一輝国王が期待していたものとは全く違っていた。 それは、 『瞬王子自身は いかなる罪も犯してはいない。であればこそ、本来ならエティオピア国王とエティオピア国民全員の命で償わなければならない罪を、その身一つで償うこともできるのだ。先の神託は、オリュンポスの神々の法にのっとって決定されたものであり、大神ゼウスも戦いの女神もエティオピアに救いの手を差しのべることはできない』 というものだったのである。 「だから、なぜだ! 神託は、その理由は知らせてくれなかったのか!」 悪いのは使者ではないことはわかっていても、一輝国王は神託所から帰ったばかりの使者を怒鳴りつけるしかない。 一輝国王に怒鳴りつけられる使者も、一輝国王の憤怒は当然のことと考えているらしく、自分が国王の怒声にさらされていることを恨みに思っている様子はなかった。 「理由は わかりませんでした。デルポイの神託は、クロスソス王の例もあります通り あやふやで……わざと人間の誤解や錯誤を招こうとしているきらいがありますから。ただ、もし我が国の者が瞬王子を救うために海魔カイトスを倒すようなことがあった場合、その罪は瞬王子様一人ではなく 国民全員で償うことになるだろうと――」 使者の言う“クロイソス王の例”とは、その昔、リディア国王クロイソスがデルポイの神託所で、 『自分は大国ペルシャと戦争をすべきかどうか』 と神に尋ねた際に下された神託のことである。 彼は、その際、 『リディア国王がペルシャを攻撃すれば、国王は大国を滅亡させることになるだろう』 という神託を得た。 大国ペルシャを滅ぼすことができると信じ、喜び勇んで ペルシャに攻め込んだクロイソス王は、だがペルシャ軍との戦いで壊滅的敗北を喫してしまったのである。 勝利の勢いに乗ったペルシャ軍は逆にクロイソス王が治めるリディア王国に攻め入ってきた。 つまり、神託が言った“クロイソスが滅亡させる大国”とは、クロイソス王自身が治めるリディア王国のことだったのである。 そういう 笑えない冗談のような神託を平気で下すのが、デルポイの神託所だった。 「罪を犯していない者に、犯してもいない罪を償えとは、あまりに理不尽ではないか……!」 そう告げる一輝国王の声は 既に怒声ではなく、苦しげな呻き声になっていた。 「はい。ですが、瞬王子様を生贄として捧げなければ、すべての国民で その罪を償わなければならなくなります。それは我が国が この地上から消滅することを意味しておりましょう」 一輝国王に答える使者の声や表情も、彼の主君同様 、ひどく苦しげなものだった。 「俺が他国の人間の振りをしてカイトスを倒すというのはどうだ」 と問うてくる一輝国王に、 「神の目をごまかすことはできないでしょう」 と返さなければならない使者の苦衷には察するに余りあるものがあった。 「僕が自分でカイトスを倒すのも駄目なのかな?」 兄王の隣りに立っていた瞬王子が、瞬王子自身より不安そうな顔をしているペットの獅子の頭に手を置いて尋ねてくる。 使者は、その瞬王子にも、 「瞬様も、エティオピア国民の一人ではありますから……」 と答えなければならなかった。 それは使者にとっては――もしかしたらエティオピア全国民にとって――口惜しくてならないことだったろう。 花のような姿を持ちながら、瞬王子は当代では五指に入る勇者英雄と、国内外の人間たちに認識されていたのだ。 なにしろ、当代における勇者英雄の名を挙げろと言われれば、まず筆頭に その名を挙げられるエティオピア国王の実弟。 その一輝国王が 手ずから鍛錬しただけあって、瞬王子は、剣や弓の腕前、馬の扱い、もちろん格闘の技も、ぽっと出の豪傑など足元にも及ばないものを持っている。 瞬王子の名は、まだ10代半ばの若さにもかかわらず国内外に知れ渡っていた。 エティオピアが他国の者たちから羨望の目を向けられている理由の一つには、エティオピアが二人の高名な英雄に守られていることがあったのである。 だが、それは、今回に限っては、あまりにも残酷な皮肉になってしまっていた。 当代五指に入る英雄二人が、海魔退治に乗り出すことはできないのである。 彼等が美しく豊かなエティオピアの人間であるせいで。 「他国の者が手出しするのは構わないのか」 「他国の者の干渉は許されるようです。ペルセウスの前例がありますから、神々も それまでは禁じることができなかったのでしょう」 「あの……だったら……」 一輝国王の玉座の脇に立っていた瞬王子が、遠慮がちな声で、兄王に ある提案をしようとする。 一輝国王は、途端に ぴくりと こめかみを引きつらせた。 そして、最愛の弟に、その正気を疑っているような視線を向ける。 「瞬。おまえは まさか、 瞬王子は まだ何も言っていなかったのだが、一輝国王は 早くも 怒り心頭に発するための準備に入っていた。 「あ……でも、兄さんを除けば、今 このギリシャ世界で いちばんの勇者は、僕が知る限りでは――」 自分と瞬王子を除けば、“あれ”が当代一の勇者英雄であるということは、一輝国王も認めざるを得ない事実だった。 だが、一輝国王には どうしても、“あれ”に助力を頼むわけにはいかない理由があったのである。 「いかん、いかん、いかん! あれは、おまえを男子と知りながら、嫁にくれと申し込んでくるような世界一の馬鹿王子だぞーっ!」 一輝国王と瞬王子を除けば、間違いなく当代一の英雄。 一輝国王の言う『あれ』とは、エティオピアの北方にあるヒュペルボレイオスの国の王子のことだった。 名を氷河と言う。 容姿体格に恵まれ、武勇の誉れも高く、その上、大国ヒュペルボレイオスの王子という申し分のない身分血統の持ち主なのだが、残念なことに彼は致命的な欠陥を抱えた男だった。 その性格に。 ヘラクレス、ペルセウス、アキレウス、オデュッセウス、テセウス、イアソン、アイネイアス。 ギリシャの七英雄の例を挙げるまでもなく、この時代、この世界では、男子が名誉名声と人々の尊敬を勝ち得るには、何らかの英雄的行為を成し遂げることが絶対条件とされている。 大国の王子に生まれても、弱き者、虐げられている者たちを救う英雄的行為を成し遂げなければ、彼は いかなる栄誉も 人々の尊敬も得られない。 もちろん、貧しい平民の子に生まれても、人々のためになる何らかの英雄的行為を成し遂げれば、その者は英雄として 名誉と人々の尊敬を勝ち得ることができる。 人々のために我が身を挺して戦い得た高い名声によって、貧しい一介の平民にすぎなかった男が一国の王に迎えられた例も少なくない。 ある程度の身分にある者、特に人を統べる地位に就くことになっている者は、若く健康な男子であれば、若い頃に どこかで一度は英雄的行為を成し遂げるのが、一人の大人として人々に認められるための必須の成人の儀式とされていた。 その成人の儀式を通過しなければ、どれほど高い身分に生まれついた者でも―― 一国の王や王子に生まれついた者でも――人々に侮られ軽んじられるのが常だった。 ちなみに、瞬王子の兄である現エティオピア国王は、父王在位の10代の頃から 人々の生活を脅かしている怪物や障害を取り除く難行を幾度も成し遂げ、英雄の名を欲しいままにしていた。 昨年 王位に就く際には、即位記念とばかりに 人食いゴルゴーンの一人を成敗し、その住処だった洞窟から不死鳥の鎧と呼ばれる不思議な鎧を持ち帰り、英雄としての名を一層高めていた。 今は、その鎧はエティオピア国民の財産として、エティオピアの都の図書館の資料室で一般に公開されている。 瞬王子は、そのエティオピア国王の実弟。 その上、困っている人を助けたいという気持ちが幼い頃から非常に強かった瞬王子は、小さな子供の頃から敬愛する兄のようになるのだと心に決めていた。 かつてヘラクレスが倒したネメアの大獅子の谷に ヘラクレスの頃以上に凶暴な獅子が住みつき、近隣の家で飼っている家畜や、時には人間までを襲っているという話を、瞬王子が聞いたのは今から1年ほど前。 腕に不安はないが、いくらなんでも若すぎるという理由で瞬王子を引きとめ続けていた一輝国王を、 瞬王子は1ヶ月かけて説得した。 そして、自身の最初の成人の儀式を ネメアの大獅子退治と定め、ネメアの谷に向かった瞬王子は、そこで、英雄としての名誉を手に入れるためにネメアにやってきた氷河王子と出会ったのである。 瞬王子を大獅子の生贄にされた美少女と勘違いした氷河王子は、瞬王子を庇って大獅子に立ち向かおうとし、氷河王子の誤解に傷付いた瞬王子は その誤解を解くために、大獅子と戦い倒して見せようとした。 二人は、そして、どちらが獅子退治をするかで喧嘩になってしまったのである。 「危ないから、そこをどけ!」 「あなたこそ、安全なところに隠れていてください! ここは僕に任せて」 「そんなことができるわけないだろう! 俺は男だぞ」 「僕だって そうです!」 「俺には そんな冗談を聞いている暇はないんだ!」 「僕、冗談なんか言ってません!」 といった調子で、二人は 大獅子の前で押し問答を繰り返した。 そのうち なかなか攻撃を仕掛けてこない二人に業を煮やしたらしい2代目ネメアの大獅子は、親切にも彼の方から二人に飛びかかってきてくれたのである。 が、2代目ネメアの大獅子は、瞬王子と目が合った途端、獅子であるにもかかわらず、豹の身体の模様のように その態度を一変させてしまった。 この地上のすべての怪物の父母と言われるテュポーンとエキドナから生まれたとされる巨大な獅子が、突然 ごろごろと喉を鳴らし、尻尾を振り――要するに、あっというまに瞬王子に懐いてしまったのである。 「え……っと、あの……」 瞬王子が倒しにきたのは、家畜や人を襲う凶暴な怪物だった。 決して 人懐こい巨大な猫ではない。 それは氷河王子も同様だったろう。 恐る恐る瞬王子が頭を撫でてみると、巨大な獅子は、成人男子の身の丈ほどもある尻尾を いよいよ嬉しそうに どさどさと振り始め――その 元怪物のなれの果てを見た氷河王子は すっかりやる気をなくしてしまったのである。 「これを成敗したりしたら、俺の方が極悪非道の人非人じゃないか!」 「うん、そうだね……。僕も、この子は倒せない……」 二人の英雄志願は、巨大な猫の背中越しに困ったように見詰め合い、そして溜め息をついた。 ともあれ、そういう経緯で二人は出会い、共に “ネメアの大獅子退治の英雄”という名誉を手に入れ損なってしまったのである。 シルビアンと名付けられた大獅子は、今はこのエティオピア王宮で飼われており、瞬王子は、巨大なペットと共に、“ネメアの大獅子退治の英雄”ならぬ“ネメアの大獅子懐柔の英雄”という不本意な称号を冠されることになった。 その不名誉を返上するために、その後 瞬王子は、本当に凶暴で倒すしかない怪物を倒したり、人や神によって凶暴にされている怪物を手懐けたりと、一般に英雄的行為と呼ばれる難行を幾度か成し遂げ、英雄としての名声を高めていった。 が、それらの英雄的行為にネメアの大獅子懐柔以上のインパクトはなかったらしく、瞬王子は未だに“ネメアの大獅子懐柔の英雄”と呼ばれている。 もっとも、瞬王子は、今ではその称号を不名誉なものとは思っていなかったが。 シルビアンは、人間の胸中にある邪心や恐怖、憎悪に感応し、人間のせいで凶暴になっていたのだ。 シルビアンは、優しい気持ちで接してやれば、その優しさに感応して従順になる心優しい獣だった。 ネメアの大獅子退治 改め ネメアの大獅子懐柔の際、瞬王子は巨大な獅子(だけ)をエティオピアの城に連れて帰ることにしたのだが、巨大な獅子の後ろに なぜか氷河王子までがついてきた。 なぜ ついてくるのか わからないまま、特に悪さをするわけでもなかったので、瞬王子は氷河王子を追い払わずにいたのだが、大獅子と一緒に、そうするのが当たり前という顔をしてエティオピアの王城に入った氷河王子は、大獅子とエティオピア国王の対面の場で、突然 主役の獅子を押しのけ、舞台中央に躍り出た。 そして、問われたわけでもないのに べらべらべらと自身の名と身分と長所短所を言い立てて、最後に、 「瞬を俺の嫁にくれ!」 と一輝国王に申し出たのである。 化け物のように巨大な獅子に驚いていたエティオピアの廷臣たちは、一国の王子を嫁に欲しいという氷河王子の申し出に 言葉を失い、他のどんな化け物より奇天烈な生き物を見る目を 氷河王子に向けることになった。 それは もちろん、瞬王子もエティオピア国王も同様である。 一瞬、エティオピア宮廷は 地獄のような沈黙で 凍りついた。 さすがは一国の王というべきか、最初に氷河王子の冷凍技から抜け出したのは瞬王子の兄である一輝国王で、彼は、ただちに この狂人を城の外に追い払うよう、近衛兵たちに命じたのである。 ところが、氷河王子は主命を遂行しようとした兵たちを あっというまに なぎ倒してしまった。 そして、なおも、 「瞬を俺の嫁にくれ」 と、非常識な申し出を繰り返す。 不甲斐ない兵たちに業を煮やした一輝国王は、自らの手で狂人を城から追い出すべく、掛けていた玉座から立ち上がりかけ――場の不穏な雲行きに驚いた瞬王子は、慌てて兄王を止めることになったのである。 とりあえず、その場はそれで収まったのだが。 瞬王子の説得で 一度は引き下がったかに見えた氷河王子が、それから数日後、作法にのっとった求婚の使者をエティオピア宮廷に送り込んできた時点で、一輝国王の脳の血管はぶち切れた。 それ以来、一輝国王は氷河王子を害虫の一種とみなすようになり、氷河王子のエティオピア王宮への出入りを固く禁じたのである。 へたに身分が高く、腕が立つせいで、気軽に害虫退治もできないことが、一輝国王の怒りに拍車をかけていた。 |