「俺がカイトスを倒し、おまえを神々の神託から解放できたら、おまえは俺のものになってくれるな?」
エティオピア国王が氷河王子の成功を信じているように、氷河王子自身も 瞬王子救出は必ず成し遂げられると信じていた。
不安の響きが全く含まれていない声で、氷河王子が瞬王子に念を押す。
さすがに生贄にされる当人は そこまで楽観的になれないのか、氷河王子は瞬王子から約束の言葉を引き出すことはできなかった――瞬王子は黙ったままだったが。

「俺は、シルビアンが一瞬で おまえに懐いて大人しくなってしまったのを見た時、おまえが どういう人間で、なぜシルビアンが おまえに懐いたのか知りたいと思った。俺は化け物退治以外に能のない男だから、シルビアンが一瞬で気付いたことに、すぐには気付けなかったんだ。おまえとシルビアンの旅に同道して――エティオピアの王宮に着く頃には その理由がわかっていたが。ネメアの谷からエティオピアの都まで、道中2日。それだけあれば、おまえが清らかで優しい心を持っていることを知るには十分だった。おまえは、獣や人間だけでなく 自然に対しても優しい愛情を抱いていて――おまえの側にいるだけで、俺の心は安らいだ。おまえと いつまでもずっと一緒にいられたら どんなにいいだろうと、俺は思った。俺は、おまえのためなら何でもする。俺の命がほしいというのなら、それもおまえにやる。だから、俺を――」

カイトス退治は始まってもいないのに そんなことをするのは約束に反すると、瞬王子の兄に非難されることを承知の上で、氷河王子は、生贄の岩場に鎖で戒められている瞬王子の唇に口付けようとしたのである。
瞬王子は、氷河王子の手と唇から逃げようとはしなかった。
顔を背けようとする素振りさえ見せず、真正面から氷河の瞳を見詰め――むしろ、睨み、
「嘘つき」
という短い言葉を呟いただけで。
「なに?」

嘘をついたつもりなどなかった氷河王子は、瞬王子が なぜそんな言葉を口にするのかがわからず――もちろん すぐに瞬王子に その言葉の意味を問うた。
恋人の前で“いい恰好”をするために嘘をついても、化けの皮はすぐ剥がれる。
嘘は いつかは ばれる。
そういう実例を これまで幾度も見てきた氷河王子は、嘘をつくことの有害をよく知っていたし、一つの嘘をつき通せるほどの頭を自分は持っていないという自覚もあった。
何より嘘をつくという行為は面倒である。
人は正直に生きていた方が、面倒がなくて楽なのだ。
それが氷河王子の身上。
瞬王子の言葉は、氷河王子には心外なものだった。

「それはどういう意味だ。俺がいつ――」
どうやら かなり機嫌が悪そうな――この場面で機嫌がよかったら、それもおかしな話だが――瞬王子に、氷河王子は尋ねていったのである。
が、残念ながら、氷河王子は、瞬王子から その答えを得ることはできなかった。
「来たよ、氷河。氷河の好きな怪物」
瞬王子が、“怪物”を恐れる様子もなく、短く言う。
その声をかき消すように 突然 波の音が大きくなり――氷河王子は、沖で激しいスコールでも降り出したのかと疑うことになったのである。
もちろん それはスコールなどではなく、瞬王子が言った通り、小山のような怪物が海と波を押しのけて進んでくる音だった。
自らの獲物である瞬王子の存在を認めたらしく、小山のような怪物が、一直線に 生贄の岩場に向かってくる。
海魔カイトスが海を移動するために作り出す波は、まるで 雨が海から天に向かって降っているよう。
それは、人間が初めて見る光景だったかもしれない。

「瞬。鎖を切るぞ」
言うなり、氷河王子は、瞬王子の左右の手首と生贄の岩場をつないでいる鉄の鎖を引きちぎった。
そうして、両手首に戒めの鎖の切れ端を絡みつかせたままの瞬王子の身体を抱きかかえると、氷河王子は、しばらくの間、どんどん浜に近付いてくる海魔カイトスを睨むように沖を眺めていた。
鯨なのか山なのか、鯨だとしたら目はどこにあるのか。
怪物退治には慣れている氷河王子にも、カイトスの全体像を把握するのは困難な仕事だった。
ただ、氷河王子の腕の中にあるものが自分の獲物であることをカイトスが知っているのは 疑いようのない事実で、彼(?)には、進む方向を迷っている様子は全くなかった。
まっすぐに、彼は、氷河王子と瞬王子のいる場所に向かって突進してくる。
怪物を十分に目的物に引きつけたと判断してから、氷河王子はカイトスに背を向けた。

瞬王子を抱きかかえたまま、氷河王子が 人間技とは思えない跳躍力で内陸に向かって移動(逃亡)を開始する。
鯨というより小山のようなカイトスの目には、そんな氷河王子の姿が 小さなウサギが ぴょんぴょん跳ねて逃げ惑っているように見えているのかもしれなかった。
巨大な波を作りながら、カイトスは小さなウサギを追う。
氷河王子は、カイトスから逃げているというより、カイトスが生み出す巨大な波に捕まるまいとして逃げているように見えた。

「なんです。逃げているばかりではありませんか! ああ、追いつかれる……!」
巨大な波と小さなウサギの鬼ごっこを、岬の上で はらはらしながら見守っていた一輝国王の侍臣の一人が、ひたすら逃げるばかりの氷河王子に苛立ったような声を漏らす。
二人の王子は今度こそ波に呑まれると、彼は幾度も思ったのだが、氷河王子は そのたび ぎりぎりのところで何とか“鬼”の手をすり抜けていた。

「いや、あれでいいんだ。なるほどな」
逃げ惑う(ように見える)氷河王子に いらいらしている侍臣たちとは対照的に、一輝国王の声は至極落ち着いていた。
最愛の弟の命が危険にさらされているというのに、エティオピア国王は 全く焦り取り乱す様子を見せない。
その落ち着き払った態度は、エティオピア国王の瞬王子への溺愛振りを知る者には ひどく奇異なことに思われたのである。
「それはどういうことです」
侍臣が王に そう尋ねた時、突然 浜は静かになった。
巨大な動く滝のようだった波が、いつのまにか消えている。
代わりに 岬に立つ一輝国王たちの前に出現したのは 黒い小山――動かぬ山。
海魔カイトスは、まだ呼吸はできているようだったが、その巨体は、オキアミ1匹分の距離も動けない状態に陥っていた。

「この巨体で後先考えずに陸に乗り上げてくるあたり、俺より頭が悪い」
突然エティオピアの浜に出現した黒い小山が、今は浜と岬をつなぐ なだらかな斜面を持つ丘になっていた。
カイトスの背に飛びあがった氷河王子が、オリュンポスの神々が送り込んできた海魔を踏み台にして最後の一飛び。
次の瞬間、氷河王子は、その腕に瞬王子を抱きかかえたまま、瞬王子の兄の前に立っていた。

「片付けたぞ」
これが当然の結果という顔をして、氷河王子が一輝国王に報告する。
一輝国王は、海魔カイトスを ただの動かぬ山にしてしまった英雄に礼を言うより先に、彼が抱きかかえているものを降ろすように氷河王子に手で命じた。
「気の利いた英雄なら、観客が手に汗握る立ち回りをして、一つ二つの見せ場を作ってみせるものだ。何の苦労もせず、苦労どころか かすり傷の一つも負わず、こんなに簡単に瞬を助けられたのでは、有難みも何もないではないか」
氷河王子は瞬王子を離したくないようだったが、一輝国王の侍臣が 瞬王子の手首を縛る鎖を外すための鍵を手にしていることに気付くと、しぶしぶ一輝国王の指示に従った。

「俺が苦労も怪我もしなかったことに文句を言われても困る。まあ、すべては愛の力の成せるわざだな」
「それが気に入らんのだ」
「夏場の魚は 傷みやすい。神々が後始末をしてくれないようなら、早めに解体作業に取りかかった方がいいぞ。脂に肉、皮、骨、歯――鯨は捨てるところがない」
黒い小山に一瞥をくれて、氷河王子が一輝国王に進言する。
「大漁だ」
手に汗握る見せ場のない氷河王子の英雄的行為には不満そうだったが、一輝国王は、氷河王子が釣り上げた1匹の魚には大いに満足しているようだった。
なにしろ、今日一日で エティオピアの浜の漁師たちの三ヶ月分に匹敵するだけの漁獲量。
人的被害ゼロ、物的被害ゼロ。
エティオピアの国王としては、それは文句のつけようのない結果にして成果だったのだ。
もっとも、氷河王子が真に獲得したかったのは、捨てるところのない鯨などではなく、もっと小さくて可愛らしい獲物であることが わかっていたので、瞬王子の兄としての彼は、瞬王子の命が救われたことを素直に喜んでばかりもいられなかったが。

「俺のものだ!」
一輝国王のそんな胸の内など知ったことではない氷河王子が、手首にまとわりついていた鎖の残骸が取り除かれた瞬王子の手を取り、その所有権を主張する。
素敵な玩具を手に入れた子供のように満面の笑みを浮かべている氷河王子が どんなに忌々しくても、一輝国王は氷河王子が主張する権利を否定できない。
やはり怪物退治より その後の処理の方が困難な問題だったかと、一輝国王と彼の廷臣たちが渋い顔になった時、氷河王子の権利を真っ向から否定する人間が、突然その場に現れたのである。
それは、他の誰でもない、氷河王子の所有に帰することになった(はずの)瞬王子その人だった。

「氷河は僕の意思を無視するの」
喜びに輝いていた氷河王子の顔と瞳が、瞬王子の その一言で強張り凍りつく。
「瞬……」
「生き永らえて 屈辱を味わうより、鯨に食われた方がましです!」
一度 剣を手にすれば戦神のように強いが、剣を手にしていない時には 花のように静かで、春の微風のように優しく控えめ、他人を守るためになら命をも投げ出すが、我が身を守ることには ほぼ無頓着。
そういう瞬王子を知っているだけに、瞬王子の 激しい言葉は、氷河王子だけでなく、その場にいた すべての人間を驚かせた。
瞬王子のことだから、エティオピアの国を守るために我が身を犠牲にすることは とうの昔に覚悟済みだろうと、エティオピアの宮廷の者たちは――おそらく すべてのエティオピアの国民も、一輝国王でさえ――思い込んでいたのである。

瞬王子の厳しい拒絶に呆然としている氷河王子に、一輝国王は さすがに同情を――多分に気まずさを含んだ同情を――覚えたようだった。
「瞬、気持ちはわかるが、命を救ってもらったんだ。礼くらい言ってやれ。この馬鹿は、自分に与えられた当然の権利を主張しただけで、我が国の内には、その権利を否定できる人間は一人もいない」
「エティオピアも神託も関係ありません。僕は、氷河個人に、一人の人間として尋ねているんです」
「いや、それはわかるがな。しかし、今のおまえには――」
『今のおまえには、一人の人間としての権利がないのだ』とは、言いにくい。
瞬王子は最初から その権利を故国のために放棄しているものと決めつけて、瞬王子の気持ちも確かめず、権利を捨てる覚悟を促すこともせず、勝手に氷河王子と約定を交わした瞬王子の兄には、それは非常に言いにくい言葉だった。

『今のおまえには、一人の人間としての権利がないのだ』
幸か不幸か、一輝国王は、その言葉を口にせずに済んだのである。
気まずい空気が漂い始めた岬に、エティオピアの都にある神殿から、一人の伝令が力尽きかけた一本の矢のように息せき切って飛び込んできたせいで。
その少年が国王の許に運んできたのは、あろうことか新たな神託だった。
『次の新月の日の満潮時、この国の王と国民に最も愛されている者を海獣クラーケンに生贄として捧げよ』

一輝国王が言いにくいことを口にするまでもなく、瞬王子の一人の人間としての権利は神々に取り上げられているらしい。
たった今 下ったという第二の神託に、その場にいた者たちは皆、驚き怒ることもできず、ただ茫然とすることになった。






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