すべての元凶は、一輝国王が自らの即位記念として人食いゴルゴーンを倒して手に入れた不死鳥の鎧だったこと。 その鎧がエティオピア国民の財産として一般に公開されている事態が、神々を焦り憤らせていたこと。 その情報を、氷河王子がエティオピア宮廷に持ち帰ったのは、彼がエティオピアの王城を出ていってから10日後のことだった。 「あれは、その持ち主に 不死を与える鎧なんだそうだ。おまえが あの鎧を手に入れてから、エティオピアでは ただの一人も死んだ者がいないはずだ。どれほど重い病を患っている者も、致命的な怪我をした者も、100を超えた老人も。おまえがエティオピア国民の財とした鎧は、持ち主に永遠の命を与える。だが、人間に永遠の命を持たれてはまずい。かといって、不死鳥の鎧がそういうものだということを知らせれば、それを独占しようとする不心得者が現れるかもしれない。神々としては、鎧の力を持ち主に知らせぬまま、問題の鎧をオリュンポスに返還させたかったんだろう」 「そういうことだったのか……」 神々から下された二度の神託の真意を一輝国王に告げてくる氷河王子は、全身が傷だらけだった。 剣で切りつけられたような傷、銛で突かれたような傷、青色というより黒ずんでいるような重度の打撲も そこここに見える。 氷河王子が謎の答えを手に入れるために相当の苦労をしたことは、想像に難くなかった。 「どうやって神託を手に入れたんだ」 「ん? ああ、ティリンスの巨人を倒してキュプロクスの鎧を手に入れ、それを神々に捧げて神託を仰いだんだ」 「ティリンスのキュプロクス !? 」 氷河王子が倒したという者の名を聞いて、一輝国王は腹の底から呆れてしまったのである。 ティリンスに住む巨人キュプロクスは、ティターン神族の生き残りで、神々も手を焼いている乱暴者だった。 その上、大神ゼウスの雷霆、海神ポセイドンの三叉の銛、冥王ハーデースの隠れ兜等を作った武器作りの名人でもある。 そのため、彼がどれほど世界に害を為しても その命を奪うわけにはいかず、オリュンポスの神々にとってはティリンスのキュプロクスは排除したくても排除できない目障りな存在だった。 「倒して縛りつけただけで命までは奪っていないがな。殺してしまうと、それはそれで面倒なことになりそうだし。貴様は とにかく、すぐにでも不死鳥の鎧を神々に返上することだ。永遠の命が欲しいというのなら、話は別だが」 「永遠の健康と若さが伴わなければ、永遠の命など無価値だろう。トロイアのティトノスの二の舞はごめんだ」 「さすがはエティオピア国王殿。賢明な判断だ。命は、限りあるものだから美しい」 氷河王子は、一輝国王の正しい判断に安堵したことで緊張が解けたのか、その両肩から力を抜いた。 そんな氷河王子とは逆に、一輝国王は全身を緊張させることになったのである。 氷河王子は、今度こそ、瞬を渡せと言い出すに違いない。 そう考えて。 だが、氷河王子は、自分が 瞬王子のみならずエティオピア国王とエティオピア国民を救った事実に気付いていないかのように――苦労の報いをエティオピアに求めてはこなかったのである。 「これで一件落着だな。俺は国に帰る」 「なに?」 想定外の その言葉に、一輝国王は思わず、 「国に帰る? 瞬はどうするんだ」 と、氷河王子に問い返してしまっていた。 「まあ……瞬には その気がないようだし、俺は瞬の気持ちを無視して 瞬を傷付けた大馬鹿野郎だし……」 エリュマントスの大猪を倒し、レルネ沼のヒュドラを倒し、海魔カイトスを倒し、オリュンポスの神々が手を焼くティリンスのキュプロクスをすら その意に従えてのけた稀代の英雄が、母親にいたずらを叱られている小さな子供のように しょんぼりと項垂れている。 その様は一輝国王ですら哀れを催すほどだった。 せめて最後に弟に会わせるくらいのことはしてやろうと考え、彼は瞬王子を呼んでくるよう、侍従の一人に命じようとしたのである。 そうする前に、いつのまにやってきていたのか、シルビアンを従えた瞬王子が玉座の間の扉の前に立っていることに、一輝国王は気付いた。 未練がましいことはしたくなかったのか、その時には既に踵を返していた氷河王子が、瞬王子の姿を認め、足を止める。 身分も立場も性別も無視して、いつまでも共にいたいと願った人。 その人の冷たく冴えた瞳を見詰め、氷河王子は何か言いたげに僅かに唇を震わせた。 が、結局 氷河王子は瞬王子に何も言わなかった。 代わりに、瞬王子の傍らに控える大獅子に、 「シルビアン、おまえも元気でな」 とだけ告げる。 シルビアンは いつものように牙を剥こうとしたようだったが、氷河王子の あまりの覇気のなさが、シルビアンのその気を殺いでしまったらしい。 いつもと まるで様子の違う氷河王子を不思議な目をして見上げ、シルビアンは困ったように鼻をひくつかせた。 「氷河」 そんなシルビアンの頭に左の手を置いて、瞬王子が氷河王子の名を呼ぶ。 希望や期待を抱かなければ、失望することもない。 そういう眼差しを、氷河王子は、自分の名を呼んだ人に向けたのである。 それが どんなものであれ、今 自分の中に感情を生んでしまったら ろくなことにはならないという判断が、氷河王子を無気力にしていた。 「氷河はヘラクレス以来の英雄と言われていて、このエティオピアでも 氷河の噂を聞かない日はない。氷河は、そういう冒険や腕試しが好きなんでしょう? そして、英雄としての名を高め、名誉を勝ち得ることが好きなんだ」 「それしかできることがない。英雄としての名声が高まれば、おまえも俺を認めてくれるようになるだろうと思っていた」 「氷河が本当に僕を好きなのなら、普通は、ぼ……僕の側にいたいと思うものではないの」 「……」 自分は瞬王子に何を問われているのか――が、氷河王子には よくわからなかったのである。 嘘や巧言を操るという選択肢を持たない氷河王子が、ただ正直な答えを返す。 「それは、少しでも長く、少しでも近くに いたいが……おまえの兄は俺を毛嫌いしてるし、シルビアンは 俺がおまえに近付くと牙を剥くし――」 「に……兄さんやシルビーちゃんが恐いの」 「恐いな」 「……そう」 瞬王子が何を言わんとしているのか、何を知りたいと思って そんなことを言うのかが、氷河王子には本当にわからなかったのである。 自分の正直な答えを聞いた瞬王子の瞳に なぜ涙が盛り上がってきたのか、その訳も氷河王子にはわからなかった。 自分は何か瞬王子を悲しませるようなことを言ってしまったのかと戸惑い、慌てて、 「邪魔だからといって、一輝やシルビアンを傷付けたら、おまえが泣くだろう」 と弁解する。 「え……」 瞬王子は涙でいっぱいの瞳を見開き、そして、二度三度と瞬きをした、 幾粒かの涙の雫が、瞬王子の頬の上を転がり、そして大理石の床に落ちる。 「それは泣くけど……泣くけど……」 「俺はおまえを泣かせたくない。なのに、なぜ おまえは泣いているんだ」 化け物や怪物や巨人の考えや行動は 手に取るように読み取れるのに、一輝国王や他の人間の怒りや軽侮の念は 言葉にされなくても容易に感じ取れるのに、瞬王子の心だけは読み取れず、感じ取れない。 氷河王子は完全に お手上げ状態だった。 ただ、瞬王子の涙が 切なく胸を締めつけてくる。 「氷河のせいだよ! 僕を好きだって言ったくせに、氷河が僕を放っぽって 怪物に夢中でいるから! そのくせ、氷河は、兄さんやシルビーちゃんを倒して、僕を手に入れようとはしないんだ!」 「……は?」 「氷河は、その程度にしか 僕のこと好きじゃなんだって、僕が誤解したって仕方ないでしょう! なのにどうして氷河、そんなに傷だらけなの……!」 「あ、いや、それは……お……おまえは そう言うが、なら俺は 一輝やシルビアンを倒してよかったのか?」 「氷河がそんなことしたら、その時には 僕が氷河を倒すよ!」 「……」 いったい瞬王子は、怪物退治しか能のない男に 何をどうしろというのか。 氷河王子は、本当に訳がわからなかった。 氷河王子がわかってくれないことに業を煮やしたのか、瞬王子が突然 その両腕を氷河王子の首に絡みつかせ、氷河王子に抱きついてくる。 「なななななにっ !? 」 本当に本当に何がどうなっているのか わからない。 わかることが何ひとつない状態だった氷河王子の中に、やがて たった一つだけ天啓のように“わかること”が降ってきたのは、瞬王子の やわらかい唇が 彼を恋い慕う男の唇に押しつけられてきた時だった。 自分は瞬王子に嫌われていない。 そう悟った瞬間、氷河王子はすっかりいつもの彼に戻り、瞬王子の身体を強く抱きしめて、キスされる側の人間からキスする側の人間に成り変わっていたのである。 こんな幸運には二度と巡り会うことができないかもしれないという強迫観念に囚われ、全力で瞬王子の唇を味わい尽くそうとしていた氷河王子が、周囲の異様な静寂に気付いて顔をあげた時、そこにあったのは、地上で最も清らかと信じていた最愛の弟の大胆な振舞いに仰天し 泡を吹いて倒れている一輝国王、僅かな隙を突かれて大切な ご主人様をかすめ取られ 涙目になって しおれきっている巨大な獅子、そして、仮にも一国の王子同士の熱烈なラブシーンを見せられて絶句し心身を硬直させているエティオピア王国の廷臣たちの姿だった。 それから二人の王子がどうなったのかは、事情を知る者たちが誰一人 大っぴらに語ろうとしないので定かではない。 ただ、その日以降、夜になると瞬王子の寝室の扉の前に居座って動かないシルビアンの立場を立てて、氷河王子が――仮にも一国の王子が――毎晩 こそ泥のようにベランダ伝いに瞬王子の部屋に忍んでいく姿が多くの者に目撃されるようになったのは、紛う方なき事実。 恋の勝利者は、その勝利によって、むしろ謙虚さと 他者を思い遣る心を養ったのかもしれなかった。 Fin.
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