「みんな、付き合ってくれなくてもいいのに」 まず最初に 謎の小箱が見付かったアテナ像の周辺を探ってみようと考えて アテナの前を辞した瞬に、ぞろぞろと仲間たちがついてくる。 アテナの推測が正鵠を射たものであれば、小箱の謎を解いた暁に得られるものは、おそらく決して重要な情報でも物品でもない。 仲間たちをがっかりさせるのは忍びなかったので、瞬は星矢たちにそう言ったのだが、彼等は瞬のお供をやめるつもりはないようだった。 「だってよ、なんか妙に意味ありげで気になるじゃん」 「謎解きメンバーは多い方がいいだろう。三人寄れば文殊の知恵というし」 「俺がおまえの側にいることに、何か理由が必要か」 約一名、理由にならない理由を掲げている男がいたが、そういう経緯で、瞬は仲間たちと共に 謎の小箱の発見現場に向かうことになったのだった。 アテナ神殿の裏手に見えるアテナ像は、その台座分を含んで15メートルほどの高さの大理石の像である。 左手を 戦いの女神にふさわしく盾に添え、その右手には勝利の女神ニケの像を載せている。 その像は、神話の時代から数千年、アテナ神殿の建つ丘の上から アテナの聖闘士たちの戦いと生死を見詰めてきた、まさにアテナと聖域の象徴とも言うべき像だった。 とはいえ、それは神によって造られたものではなく、アテナの威光と加護が永遠であることを願う人間たちの手で造られたもの。 当然、邪神の攻撃や風雪によって破損することもある。 そのたび、アテナを信奉する人間たちは 壊れた像を旧に復することを繰り返し、平和を望む人間たちの心と働きによって、アテナ像は 数千年の長い時を耐えて、そこにあり続けた。 このアテナ像やアテナ神殿、十二宮の維持に務める職人が聖域には数多くいる。 瞬たちがアテナ像の許に赴いた時も、そんな工人の一人らしい男性が もくもくと台座の脇で石を削っていた。 彼は、40絡みの、いかにも毎日陽光の下での仕事に励んでいる職人らしい焼けた肌の持ち主だった。 「こんにちは」 瞬に声をかけられても 作業の手を休めず、彼はちらりと瞬たちの方に一瞥をくれただけだった。 瞬が手にしている小箱を見て初めて、ノミを振るう手を止める。 「その箱は――」 「あ。もしかして、これを見付けてくださったのは あなただったんですか?」 「ああ、そこの石の下にあったんだ」 彼が顎で指し示したのは、アテナ像の台座の右の端。 その部分が、まるで四角いパウンドケーキを指で一口分 ちぎったように、30センチほどの欠損ができている。 アテナ像の台座はもともとは巨大な一つの大理石だったのだが、戦いや自然災害で砕けるたび、欠けた部分と同じ形に石を削り出し、欠損部分に嵌め込んで 元の方形に戻してきたのだと、彼は石を削りながら 瞬たちに教えてくれた。 ただの四角い石の修繕に それだけの手間をかけることに呆れたらしい星矢が、その作業に いそしんでいる石工の手許を眺めながら、 「そんな面倒なことせずに、コンクリートで固めちまえばいいじゃないか」 とぼやく。 星矢の その無粋な提案を、石工は華麗に無視した。 不愉快そうに――アテナへの敬意を欠く若造たちに もはや一瞥もくれるつもりはないと言わんばかに黙り込んで、それきり うんとも すんとも言わなくなる。 「彼は ただ者ではないな」 彼が 自らの仕事に抱いている誇りは、アテナの聖闘士のそれよりも高く強いものなのかもしれない。 いかにも頑固な職人といった彼の態度に、紫龍は苦笑した。 が、アテナに小箱の謎の解明を任された瞬は、紫龍と一緒に笑ってもいられなかったのである。 頑固な職人の機嫌を損ねて貴重な情報を入手し損なう事態を回避すべく、瞬は、彼に対して無粋な合理的提案をした星矢を、わざと大袈裟に非難した。 「聖域のアテナ像が お手軽で安っぽい台座の上に立っていたりしたら、アテナが侮られることになるでしょう。アテナと聖域の尊厳を守るために努めてくださってる方に なんて失礼なことを言うの。冗談でも そんなことを言うのはやめて」 誇り高い職人のために 厳しく星矢を叱咤してから、瞬が、腰を低くして、彼に尋ねる。 「友人の非礼を許してください。友人も反省してますから。あの……僕たち、この箱について調べているんです。台座の、あの欠けた部分が何か特別な意味のある場所だったということはありませんか」 「そんなことはないと思うが――」 瞬の腰の低さや謙譲の態度より、瞬が彼の仕事の意義を理解していることの方が、彼の機嫌回復には有効だったらしい。 数秒 ためらう様子は見せたが、彼は結局、瞬の質問に答えを返してくれた。 「ただ……」 「ただ?」 「台座が欠けてて空洞があることに、俺が気付いたのは、ちょうど夏至の日の真昼間だったんだ。その箱はちょうど、ニケを載せているアテナの右手の影の下にあったな。まるで勝利の女神ニケが大切に守っているように見えて、だから何か重要なものなのかもしれないと考えて、俺は その箱をアテナに届けたんだ」 「ニケの下」 言われて、瞬と瞬の仲間たちは頭上を振り仰いだ。 だが、なにしろ全長15メートルの巨像。 台座のすぐ横から見上げたのでは、ニケ像の姿を視界に捉えることはできない。 アテナの右手の上に、頭をもがれた姿で立っている勝利の女神ニケ。 台座の すぐ脇から上方を振り仰いだアテナの聖闘士たちに見ることができたのは、アテナの右手だけだった。 その右手を見上げたまま、星矢が石工に尋ねる。 「なあ。そーいや、聖域のニケってさ、なんで頭がないんだ? おっさん、あれは修理しないのか」 自分が機嫌を損ねた人に 臆することも遠慮することもなく 平気で声をかけられる星矢の無頓着無神経無邪気に、瞬はいっそ感心してしまったのである。 感心して――聖域のために働いてくれている人を これ以上 星矢が不機嫌にすることがないように、瞬は慌ててフォローに入った。 「あのニケの頭は、わざと もいであるんだよ。勝利が どこにもいかないように――この場に留まるようにって」 「へー、そうだったんだ」 「そんなことも知らないのは少々問題だぞ、星矢。アポロンやゼウスは知らなくてもいいが、ニケはアテナの分身と言われることもある女神だ」 アテナの聖闘士にあるまじき星矢の不明に、さすがの紫龍も呆れてしまったらしい。 明白に非難の意を込めて、紫龍が眉をひそめる。 仲間の非難の視線に、だが星矢は いささかも動じなかった。 むしろ開き直ったように、 「んなこと知らなくても、人間は生きていけるぜ。なあ、氷河」 と、氷河に同意を求める。 つまり、星矢は、自らの不明を恥じるのではなく、不明仲間の確保に動いたのだった。 そんな仲間の一員にされたくない氷河が、即座に反論に及ぶ。 「おまえと一緒にするな。それくらいのことは俺も知っている。アクロポリスのアテナ・ニケ神殿のニケも、同じ理由で翼をもがれているじゃないか」 「なんだよ、知らなかったの、俺だけかよ」 知らないのが自分だけだったとわかっても、いじけず腐らないのが星矢の身上。 気まずげな様子すら見せずに、星矢は、アテナの右手に阻まれて その姿を確認できない勝利の女神を再度 振り仰いだ。 そして、ぼやく。 「翼や頭を もがれた勝利の女神ねー。そんなんで ご利益あんのかな。なんつーか、そこいらへんを好き勝手に飛び回ってる勝利の女神を、努力と根性で自分の方に呼び寄せることを勝利って言うんじゃないのか?」 「ほう」 勤勉な頑固職人は、星矢のその発言は気に入ったらしい。 気難しげな顔は そのままだったが、声の調子が少し変わった。 「もっともな意見だ。ただの阿呆というのでもないようだな。坊主、おまえ、頑張れば聖闘士にだってなれるかもしれないぞ」 「へっ」 それは、どう考えても褒め言葉である。 褒める意図はなかったとしても、好意から出た言葉であることは間違いない。 一つの時代に、最も多くても88人。 この地上に数十億人の人間がいても、その中の たった88人しか その称号を得ることができない聖闘士。 その“選ばれし者たち”の仲間入りができるかもしれないと、彼は星矢を評価してくれたのだ。 軽い冗談、あるいは 他意のない追従の類だったとしても、それは言われれば嬉しい言葉、喜ばしい言葉のはずだった。 星矢が 聖闘士の称号と聖衣を授けられた人間でなかったなら。 しかし、星矢は既に天馬座の聖闘士として幾多の戦いを戦い勝利してきた、歴戦の勇者だった。 「それ、どういう意味だよ!」 星矢は、 頑固職人の褒め言葉に噛みついていかずにいられなかった。 『頑張れば、聖闘士にだってなれる』 聖衣ではなく私服を着ていたとはいえ、要するに、星矢は、聖闘士としての力や貫禄、優越が感じられないと言われたも同然だったのだ。 頑固職人は、星矢と共にいる瞬たちが聖闘士であることにも気付いていないのだろう。 ここは当然、瞬たちも、自身の貫禄不足・大物感の欠如を反省すべきところだったのだが、頑固職人の見る目の確かさに感動した瞬は、反省するより先に盛大に吹き出してしまっていた。 「星矢ってば、なに怒ってるの。聖闘士になれるって お墨付きをもらえたんだよ。喜ばなくちゃ」 「喜べるかっ!」 瞬の楽しげな からかいの声と、星矢の怒声。 だが、頑固職人は、自分が人を楽しがらせたり怒らせたりするようなことを言ったつもりがなかったらしい。 星矢と瞬のやりとりを怪訝に思ったのだろう頑固職人が、石を削る手を止める。 そして、彼は初めて 真正面から まじまじと瞬たちの姿を見詰めてきた。 しばし何事かを考え込んでいるような素振りを見せた彼が、まもなく はっとした顔になり、瞬に向かって、 「もしかして、あんたはアンドロメダ座の聖闘士か――?」 と尋ねてくる。 「え……? あ、はい。知っていてくださったなんて、光栄です」 聖域とアテナのためにできる仕事を頑固なほど熱心に務めてくれている人に、アンドロメダ座の聖闘士の存在を知ってもらえていた。 軽い戸惑いは覚えたものの、嫌味でも 皮肉でも 卑屈でもなく、心から光栄と思って、瞬は自分がアンドロメダ座の聖闘士であることを認めたのである。 瞬の返事を聞くと、頑固職人は 得心した様子で何度も繰り返し頭を振った。 「いや……有名だからな。アンドロメダ座の聖闘士は、それこそ腰抜かすくらいの美少女だって。噂以上の別嬪さんだ。腰が抜けた」 「……」 心底から光栄と思い、ごく自然に微笑が浮かんできていた瞬の顔が 瞬時に引きつる。 アンドロメダ座の聖闘士のことを彼に知っていてもらえたことは本当に光栄で嬉しいのだが、なぜか素直に喜べない。 かといって、アテナと聖域のために日々 務めてくれている人を責めることもできない。 思い切り対応に困ってしまった瞬は、頑固職人の言葉を聞いて げらげら笑い出した星矢を思い切り睨みつけることで、なんとか平穏に その場をやり過ごすことができたのだった。 |