美の原理






目覚めたのは60年振り。
前に目覚めた時、地上はひどいありさまで、地上で最も人口の集中していた西の大陸と 東方の海域で大規模な戦闘が繰り広げられていた。
それ以前の覚醒時には存在しなかった強力な武器――“敵”を一度の攻撃で大量に殺戮できる武器――を 人間たちは作り出したらしく、その音や光が地表を覆っていた。
それらの武器を用いての戦いは凄惨を極め、神が粛清の手を下さなくても、さほどの時を待たずに 人間たちは自ら滅んでいくのではないかと思えるほどだったのである。

ならば その時を静かに待とうと、再び眠りに就いて60年。
それは神である冥府の王には ごく短い時間だったのだが、その短い時間の間に地上の様子は少し変わっていた――地上は 前の目覚めの時より少しだけ静かになっていた。
相変わらず地上のあちこちから銃声や人間たちの悲鳴は聞こえてくるのだが、それらの戦いは前回 目覚めた時のように広範囲で行われておらず、むしろ局地的。
戦いの場所も、比較的 人口の少ない他の大陸に移っている。
人間たちは なかなかにしぶとく、彼等は完全な滅びの前で 足踏みをしているようだった。
やはり 何もせずに待っているだけでは、この地上が死の世界になることはなさそうである。
しかし、もう少し――ほんの少し力を加えるだけで、その時は確実に到来するだろう。
そう、ハーデスは思ったのである。
冥府の王が目覚めるたびに、地上の人間たちの醜悪さは確実に増していた。

神話の時代から繰り返されてきたアテナとの聖戦。
これほど醜くなってしまった人間たちと人間たちの世界を、彼女はまだ見捨てることなく 愛しているのだろうか。
だが、そろそろ その戦いも終わりにしなければならない。
それが彼女のためでもあるだろう。
ハーデスがそんなことを考え始めた時だった。
冥府の王の目覚めに気付いた死を司る神と眠りを司る神が、エリシオンにある彼の神殿の中にやってきたのは。

「まだ お目覚めには少し早いようです」
眠りを司る金色の神が、ハーデスの前でこうべを垂れ、そう言上してくる。
それが、人間たちが完全な滅びに至る条件と資格をまだ満たしていないという意味で為された発言でないことは、ハーデスにはわかっていた。
地上に巣食う醜悪な人間たちは、その資格を2000年も前に獲得している。
アテナが人間たちに肩入れさえしなければ、地上はもう2000年も前に美しい死の世界になっていたはずなのだ。

「当代での余の依り代は、既に命を受けているか」
「はい。6歳になった頃かと」
「6歳? 6歳では あと10年は使い物にならぬな」
冥府の王が目覚めるには、確かに少し早すぎたようだった。
「名は」
「瞬と名付けられたようです」
「瞬」

“瞬”の肉体が使えるようになるまで、もう一度 短い眠りに就くべきか。
それとも いっそ6歳の子供の幼い身体を使って、偉大な仕事に取りかかるべきか。
ハーデスが迷ったのは ほんの一瞬だった。
それは長い時間をかけて迷うようなことではなかったから。
ハーデスは人間の子供というものが嫌いだった――というより、関心を持てなかった。
彼が支配したいのは、輝くばかりの若さと美しさを備えた人間の肉体。
たとえ一時的に魂を宿すだけの仮の肉体とはいえ、冥府の王の依り代は、その時 地上で最も輝かしい存在でなければならない。
僅か6歳の子供の肉体に冥府の王の魂が宿るなど、論外といっていい話だったのだ。

とはいえ、ハーデスは、既に 地上に命を受けている冥府の王の当代の依り代が どんなものであるのかということに、全く興味を抱けないわけでもなかった。
それだけ冥府の王は心が急いていたのかもしれない。
このところの これまでになく不規則な冥府の王の眠りと目覚めは、今回の聖戦が特別な聖戦になるという――もしかしたら最後の聖戦になるかもしれないという――予感の成せるわざなのではないか。
そんな気がして。
少しく考えてから、ハーデスは、眠りを司る神ヒュプノスと 死を司る神タナトスの上に 気怠げに視線を投じ、告げたのである。

「これまでの聖戦で、余が地上を死の世界にすることができなかったのは、余とアテナの力の差というのではなく、余の冥闘士たちとアテナの聖闘士たちの力の差というのでもなく、余の依り代に選ばれた者たちの不従順にあった。それは、ある程度 依り代たちの自我ができてから、余が依り代たちの心身を支配しようとしたからだ。もちろん 僅か6歳の子供の身体に 余の魂を宿す気にはならぬが、幼い頃から 余の依り代になる者を余に手懐けておけば、事が成りやすいかもしれぬ」
「それは……そうかもしれませんが」
ハーデスに頷いたタナトスが、僅かに その眉をひそめる。
また冥府の王の気まぐれが始まった。
そう彼は思ったのだろう。
事実 その通りだったので――その自覚があったので――ハーデスは、彼のしもべである神を 特段責めようとも思わなかったが。

「では会いにいってみよう。6歳にもなっていれば、余が尋常の人間とは違う存在であることくらいは感じ取れよう。幼い頃から“瞬”を余の崇拝者にしておけば、時が満ちた時の支配も容易になるに違いない」
「仰せの通りでございましょう。おそらくは」
ただの酔狂とわかっていても、この冥府の支配者に逆らうことは誰にもできない。
どれほど不本意でも――ヒュプノスとタナトスは、冥府の王の前で かしこまってみせるしかないのだ。
それが冥界の掟だった。






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